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40分でしっかり『古事記』【古事記の全文解説002】
あなたは『古事記』を読んだことがありますか?
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『古事記』を読んだことのある人は、日本人でもあまりいないでしょう。
けれど、次の言葉やエピソードを聴いたことがある人は多いと思います。
・イザナギ、イザナミ
・アマテラス、ツクヨミ、スサノオ
・ヤマタノオロチ
・いなばの白兎
・ヤマトタケル
これらの話は、全て『古事記』に記されているエピソードなのです。
『古事記』は歴史書ではありますが、物語調で書かれているため、ストーリーがあります。
今回は、長期シリーズの第0回として、そのストーリーの全体像を一気に紹介します!
※あくまでオリエンテーションなので、重要箇所のみを簡潔に!
『古事記』のスペック
『古事記』は全3巻で構成されており、
それぞれを
「上つ巻(かみつまき)」
「中つ巻(なかつまき)」
「下つ巻(しもつまき)」
と呼びます。
各巻の記述内容は、
「上つ巻」 → 序文、神代(日本神話)
「中つ巻」 → ①神武天皇~⑮応神天皇
「下つ巻」 → ⑯仁徳天皇~㉝推古天皇
となっています。
※番号は天皇の代数を表しています
「下つ巻」の最後が㉝推古天皇なので、
『古事記』を読めば、そのまま学校で習った日本史に繋がるような
仕組みになっています。(神仕様…!)
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文量の比率は3:4:3くらいの感覚ですが、
そのうちの半分近くを系譜と歌謡が占めています。
『古事記』原文 :文量71ページ
(上巻26ページ/中巻27ページ/下巻18ページ)
『古事記』現代語訳 :文量211ページ
(上巻65ページ/中巻80ページ/下巻66ページ)
全部で文庫本の211ページなので、ライトノベル1冊よりも短いです。
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私が最もオススメする『古事記』関連本。
辞書的に使えて非常に便利。
なお、「上つ巻」の冒頭には序文があります。
その内容は、編者の太安万侶が㊸元明天皇に完成した『古事記』を奏上する際の上表文を転用したものとなっています。
序文には多少事務的な内容が入っており、難解な内容もあるので今回は扱いません。
※シリーズを一通り完走できたらやるかもです!
※この記事では分かりやすさを重視しているため、
キャラクターの名前を省略し、カタカナで記述する場合が多いです
例:伊邪那岐神 → イザナギ
天照大御神 → アマテラス
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命 → ニニギ
流石に、最初から漢字フルネームは卒倒しますからね(笑)。
それから、別名が10種類くらいあるやつも全部カットします
※なお、この時代の天皇は「大王」号であったと思われますが、
ここでは混乱を避けるために、原則「天皇」号で統一します。
その他の事象についても、分かりやすい表現に変更している箇所が
多々ありますので、その点はご了承ください。
上つ巻
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「上つ巻」は、いわゆる日本神話になります。
神話を読む上で大事なのは、ストーリーの軸を頭に入れることです。
神話の中には、大筋とは無関係のものも多数あるので、全てを全力で読んでいると混乱しかねません。
ただ、この記事では比較的大筋に沿ったストーリーのみを扱うので、
ある程度混乱は避けられると思います。
大まかに、以下の6名が主人公です。
イザナギ →登場回 1~3
アマテラス →登場回 3~6、10~11
スサノオ →登場回 3~6、8
オオクニヌシ →登場回 6~10
ニニギ →登場回 11
山幸彦 →登場回 12
──それでは、『古事記』の世界へようこそ…
1. 天地初発(てんちしょはつ)
天と地が初めてひらけた時、高天原に5柱の神々が現れました。
高天原(たかまがはら)とは、天地のうちの、天のことです。
神様の数え方は、
1柱(ひとはしら)、2柱(ふたはしら)、3柱(みはしら)です。
その後、様々な神がどんどんと現れ、
最後に男神イザナギと女神イザナミがペアで現れました。
2. 国生み神生み
初めの方の神々はイザナギとイザナミに、地上(葦原中国)を造るように命じます。
地上はまだ海や泥のようで、綺麗に整っていなかったのです。
2柱は島を作って降り立ち、日本列島を生みます。
※生まれた順は、
淡路島→四国→隠岐島→九州→壱岐島→対馬→佐渡島→本州
※北海道や沖縄は『古事記』編纂時は日本の領土ではありません
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その後は様々な神々を生んでいきますが、火の神を生んだ際にイザナミが亡くなってしまいます。
3. 黄泉国(よみのくに)
イザナギは、亡くなったイザナミに会いに黄泉国へ向かいます。
しかし、彼女は既に変わり果てた醜い姿をしており、イザナギは慌てて逃げ帰ります。
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日本神話には天(=高天原)と地があります。
地には葦原中国と、死者の住む黄泉国(よみのくに)があります。
私達が暮らす世界は、高天原と黄泉国の中間にあり、
葦原中国(あしはらの・なかつくに)と呼びます。
高天原 → 葦原中国 → 黄泉国
という三段階層だと思ってもらえれば大丈夫です。
黄泉国から葦原中国に逃げ帰ったイザナギは、禊を行いました。
すると、彼の身体から様々な神が生まれました。
その中でも、特に凄い3柱の神々がいました。
それが、アマテラス、ツクヨミ、スサノオです。
アマテラスは太陽神、ツクヨミは月神、スサノオは海神です。
※この3柱の神々を三貴子と呼びます
なお、禊(みそぎ)とは身体を水などで清める儀式のことです。
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4. 誓約(うけい)
スサノオは母のイザナミに会いに根の国へ行くことにしました。
※根の国と黄泉国が、同じ国かどうかは諸説あります
スサノオは根の国に行く前に、姉に挨拶をしようと彼女の治める高天原へと向かいます。
姉のアマテラスは荒々しい性格のスサノオを警戒しました。
そのため、2人は誓約(うけい)という儀式をすることで、スサノオに邪心がないことを占うことにしました。
互いに相手の持ち物を使って神を生みだしたところ、アマテラスの子としては5柱の男神が生まれます。うち長男をオシホミミをいいます。
※オシホミミは後に少し出てきます
スサノオの子としては3柱の女神(宗像三女神)が生まれました。
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5. 天岩戸(あまのいわと) ⭐重要!
このような誓約(うけい)の結果に対して、スサノオは、
「私が潔白だから女神が生まれたのだ。だから私の勝ちだ。」
といって、高天原を荒らしまわりました。
スサノオの暴れように心を痛めたアマテラスは天岩戸に引きこもってしまいます。世界が闇に包まれました。
高天原の神々はアマテラスを外に出すために作戦を練りました。
まず、オモイカネの立案により、八咫鏡と八尺瓊勾玉を作り出します。
※八咫鏡(やたの・かがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにの・まがたま)は、
後にともに三種の神器となります
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続いて、天岩戸の前でアメノウズメが裸踊りをして場を盛り上げます。
すると、気になったアマテラスが天岩戸を少し開けて状況を問うので、
「あなたより凄い神が現れた」
と嘘をついてアマテラスに鏡を向けました。
アマテラスは鏡に写る自分を、自分より凄い神だと勘違いして、
もっとしっかり見ようと天岩戸を更に少し開けました。
そこを逃さず、タヂカラオがアマテラスを引きずり出しました。
こうして世界に光が戻りました。
スサノオは高天原から追放されました。
※天岩戸で活躍したメンバーは、後にまた登場します
※この記事のサムネはアマテラスが天岩戸から出て来たシーンです
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6. 八岐大蛇(ヤマタノオロチ) ⭐重要!
追放されたスサノオは、葦原中国の出雲(島根県)に行きました。
そして、そこには八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が現れることを耳にします。
スサノオはそこに住むクシナダヒメとの結婚を条件に、八岐大蛇の討伐を成し遂げました。
このとき、八岐大蛇のしっぽから剣が見つかったので、スサノオはその剣をアマテラスに献上します。
※この剣は草薙剣(くさなぎの・つるぎ)として後に三種の神器となります
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スサノオはクシナダヒメと結婚しました。
その2柱の子孫に当たるのが、オオクニヌシです。
7. 因幡白兎(いなばのしろうさぎ)
オオクニヌシには沢山の兄弟神がいました。
彼らは全員で同じ相手(ヤカミヒメ)への求婚に向かいます。
オオクニヌシは従者として彼らに同行することになりました。
兄弟神たちは、道中で毛がない兎に出会います。
その兎は、海を渡る際にワニを騙して、道として使ったものの、
騙したことがバレてしまい毛をはぎ取られていました。
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兄弟神たちは、わざと間違った療法を教えて、兎を苦しめました。
遅れてやってきたオオクニヌシは、兎に正しい療法を教えました。
兎は彼に感謝し、ヤカミヒメが彼を選ぶことを予言しました。
兎が予言した通り、ヤカミヒメはオオクニヌシを選んでくれました。
8. 根の国訪問
兄弟神たちはオオクニヌシへの怒りで、彼を殺してしまいました。
彼の母親は高天原に赴き、オオクニヌシを復活させてもらいます。
しかし、兄弟神たちは再び彼を殺します。再び復活します。
オオクニヌシは兄弟神から逃げ、スサノオのいる根の国に向かいました。
オオクニヌシは根の国でスサノオの娘であるスセリビメと結婚をします。
それに対して、スサノオは彼に嫌がらせをしたり、殺そうとしたりします。
オオクニヌシはスセリビメが助けてくれたおかげで生き延びました。
スサノオはそんな彼を気に入り、満足して寝てしまいます。
それを見たオオクニヌシとスセリビメは、宝物を持って根の国からの脱出を試みます。
しかし、琴の落下音でスサノオが目を覚まし、2柱を追いかけてきました。
2柱が葦原中国との境まで逃げ切ると、スサノオは、
「お前が持っている(奪った)宝物の武器で兄弟神を倒せ。
お前が葦原中国の主となり、俺の娘を正妻にして、
宮殿を建てて暮らすがいい、このヤロウ。」
と、オオクニヌシに言い放ちました。
オオクニヌシとスセリビメの結婚が認められたのです。
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その後、オオクニヌシは兄弟神を倒すことに成功し、
(イザナギとイザナミが道半ばで止まっていた)国造りを行うのでした。
※オオクニヌシは大国主(葦原中国の主)を意味する尊称です。
スサノオに認められる前は、実はオオアナムジという名前でした。
9. 国造り(くにづくり)
ある日、海の彼方から、スクナビコナという神がやってきました。
オオクニヌシとスクナビコナは2柱で国造りをしました。
その後、国造りが完了する前に、スクナビコナは去っていきました。
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オオクニヌシが自分だけで国を造るのに苦悩していると、
また海からやってくる神がいました。その神が、
「自分を祀ってくれれば、国造りを手伝いますよ」
といったので、オオクニヌシはその神を大和(奈良県)に祀りました。
※この神の名は、後にオオモノヌシ(大物主)と判明します
※オオクニヌシは大和も自分の国としていました
(というか、「葦原中国=日本全体」という設定)
10. 国譲り(くにゆずり) ⭐重要!
一方その頃、高天原では…
アマテラスは、
「自分の長男のオシホミミが葦原中国を知らす(治める)べき」
といって、オシホミミを葦原中国に降らせました。
しかし、地上には荒々しい神が沢山いたので、
オシホミミは高天原に戻って、状況をアマテラスに報告しました。
アマテラスは、葦原中国を自分の統治範囲とするために、オオクニヌシのもとに使者を派遣します。
けれども、使者はみなオオクニヌシの味方になってしまいました。
そのため、今度は武神であるタケミカヅチが派遣されます。
アマテラスはタケミカヅチを通して、オオクニヌシに対してこのように述べました。
「お前がうしはいている葦原中国は、私の子孫のしらす国である。
お前の意見を聴かせてくれ。」
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「うしはく」には、「領く」という漢字が当てられます。
武力によって支配・領有するという意味合いです。
「しらす」には、「知らす」「治らす」という漢字が当てられます。
民衆の生活を知って、民衆のための政治をするという意味合いです。
『古事記』は日本神話のなかで、理想とすべき政治のあり方を定義しているのです。アマテラスが命じたのだから時の政権も守る義務があると。
※大日本帝国憲法の第一条は、
「大日本帝󠄁国は万世一系の天皇之を統治す」ですが、
草案段階では「大日本帝󠄁国は万世一系の天皇之を治(しら)す所なり」
でした。
「しらす」という言葉が標準的でなく、
対外的な訳が難しいなどの理由で変更されましたが、
「しらす」が理想の政治だと見做されていたことが分かります。
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そのように問われたオオクニヌシは、返答を子供に丸投げします。
しかし、オオクニヌシの2柱の子供がともにアマテラスの主張を認めさせられたので、葦原中国はアマテラスに献上されることとなりました。
その際の条件として、オオクニヌシは立派な宮殿を建てることを要求し、それによって交渉が成立することとなったのです。
※このときに創建を約束させた宮殿は、後に出雲大社と呼ばれるのでした
11. 天孫降臨(てんそんこうりん) ⭐重要!
予定通り、オシホミミが葦原中国に向かうかと思われましたが、オシホミミに子供が生まれたので、その子供を向かわせることになりました。
その子供の名を、ニニギと言います。
「この豊葦原水穂国(とよ・あしはらの・みずほの・くに)は、
お前が知らすべき国であると命ずる。
したがって、命令の通りに天降り(あまくだり)なさい。」
として、ニニギは天降ることになりました。
※豊葦原水穂国は葦原中国の尊称です
ニニギはアマテラスの孫に当たります。
天(アマテラス)の孫が葦原中国に降臨した、
この出来事を「天孫降臨」と呼びます。
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アマテラスは、
八咫鏡(やたの・かがみ)、
八尺瓊勾玉(やさかにの・まがたま)、
草薙剣(くさなぎの・つるぎ)
をニニギに与えて、
「この鏡(八咫鏡)は私の唯一の御霊(みたま)として、
私を祀るのと同じように祀りなさい。」
と命じました。
※これ以降、三種の神器がアマテラス、ニニギ、
更には後に、初代・神武天皇の子孫であること、
すなわち、「皇位継承者」としての権威の象徴となります
※なお、弥生時代には鏡、勾玉、剣が支配者の象徴と見做されていました
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ニニギは、天岩戸で活躍した神々とともに、葦原中国へと向かいました。
日向(宮崎県)の高千穂(たかちほ)に降り立ったニニギは、容姿端麗なサクヤヒメに出会い、求婚します。
サクヤヒメの父である山の神のオオヤマツミは、たいそう喜んで、もう1柱の娘であるイワナガヒメをもニニギの結婚相手に据えようとしました。
しかし、ニニギは容姿に優れなかったイワナガヒメを追い返します。
それに対して、オオヤマツミはこのように述べました。
「イワナガヒメと結婚すれば、子供は岩のように永久不変でしょう。
サクヤヒメと結婚すれば、子供は花のように栄えるでしょう。
だから私は、娘を2人一緒に差し出したのです。
今、あなたはイワナガヒメを追い返し、サクヤヒメだけと結婚しました。
よって、ご子孫の寿命は花の盛りの間だけでございましょう。」
このような経緯により、歴代天皇の寿命は永遠ではないのです。
※ニニギの子孫が、後に初代天皇となります
※なお、日本神話での日向は「ひゅうが」ではなく「ひむか」と読みます
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12. 海幸山幸(うみさちやまさち)
ニニギとサクヤヒメには3柱の子供がいます。
※「上つ巻」は神代なので、原則は神と見做し、単位を柱とします
3柱うちの2柱の子供は海幸彦、山幸彦と呼ばれていました。
海幸彦(うみさちひこ)は、海で漁労を行っており、
山幸彦(やまさちひこ)は、山で狩猟・採集を行っていました。
※山幸彦の本名はホオリといいます
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ある日、山幸彦は海幸彦の釣り針を海の中で無くしてしまいます。
何度謝罪しても許されず、山幸彦が途方に暮れていると、そこにシオツチが現れ、彼の手助けで海の神のワタツミの宮殿に辿り着きます。
山幸彦はワタツミの娘であるトヨタマヒメと結婚することとなり、本来の目的である釣り針の発見にも成功しました。
山幸彦は日向に帰る際、潮の満ち引きを操作できる玉を受け取ります。
彼はその玉を使って海幸彦を苦しめ、服従させたのでした。
その後、山幸彦とトヨタマヒメの間にはアエズが生まれ、
アエズはトヨタマヒメの妹であるタマヨリヒメと結婚します。
※叔母と甥の結婚です
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そして、アエズとトヨタマヒメとの間に生まれたのが、
初代天皇である、神武天皇(じんむ天皇)なのです。
※ニニギ、山幸彦、アエズの3柱の神々を日向三代と呼びます
※ややこしいですが、子供を矢印で表すと以下のようになります
アマテラス → オシホミミ
→ ニニギ → 山幸彦 → アエズ → 神武天皇
──以上で、「上つ巻」は読了となります。お疲れさまでした。
中つ巻
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「中つ巻」は、①神武天皇~⑮応神天皇までの歴史が記されています。
ここからは、登場キャラクターは基本的には人間になります。
なお、「神武天皇」とは天皇に即位した後の呼び方です。
天皇に即位する前は、当然ながら「天皇」号では呼ばれません。
※これは、2代目以降の天皇の皇太子時代も同様です
そうした表現上の問題において、『古事記』では即位前の神武天皇を、
「神倭伊波礼毘古命(カムヤマト・イワレビコ・ノ・ミコト)」
と呼称しています。
※即位後は、単に「天皇」と呼称しています
したがって、この記事においては、
即位前を「イワレビコ」、即位後を「神武天皇」と呼称することとします。
※2代目以降の天皇についても、同様に扱います
「上つ巻」ではイワレビコの祖先が山の神であるオオヤマツミの娘、
海の神であるワタツミの娘と結婚したことを読んできました。
これにより、「日」、「山」、「海」の3つの力を受け継いだ人物として、
イワレビコが誕生したことを『古事記』は記しています。
※「日」の力はアマテラスの子孫である天孫の家系はみな受け継いでいます
いよいよ、アマテラスの命を受け継ぎ、葦原中国を知らすための、
イワレビコによる建国の物語が幕を開けます。
『古事記』が、日本の建国をどのように綴っているのか、ワクワクしながら読み進めてもらえると嬉しいです。
──それでは、『古事記』の世界へようこそ…
1. 神武東征(じんむとうせい) ⭐重要!
イワレビコ(後の神武天皇)と兄のイツセは、
高千穂宮(たかちほの・みや)に住んでいました。
高千穂は日向(宮崎県)の地名です。
天皇の住居を宮(=都)と呼びます。
※イワレビコに関しては、即位前の住居も宮とします
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イワレビコが宮を置いていた地とされる
イワレビコは、
「どの地を宮とすれば、天下の政治を満足に執れるだろうか。
私はさらに東に向かおうと思う。」
と言いました。
天下の「天」は高天原を指し、
「天下」は高天原の下にある葦原中国(=日本)を指します。
イワレビコはニニギの子孫として、アマテラスの命である、
「葦原中国を知らす」ことの達成を目標としています。
そのため、日本の中心である大和(奈良県)を目指すことになるのです。
イワレビコが日向から大和を目指す一連の遠征を「神武東征」と呼びます。
イワレビコの一行は、日向(宮崎県)から
豊国(とよの・くに/大分県)、
筑紫(つくし/福岡県)、
安芸国(あきの・くに/広島県)、
吉備(きび/岡山県)へと進みました。
その後イワレビコの一行は難波(なにわ/大阪府)の海域を通り、
白肩津(しらかたの・つ/現・大阪府内陸)に上陸します。
※少なくとも弥生時代以前の大阪は海だったことが分かっている
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日向(宮崎県)を出発して大和(奈良県)を目指した
すると、大和(奈良県)のナガスネヒコが戦をしかけてきました。
兄のイツセが矢に射られ、深傷を負ってしまいます。
イツセは、
「我々は、日の神の子孫なのに、日に向かって戦うことは良くなかった。
今後は回り道をして、日を背にして戦おう。」
と誓って、南へ向かうも紀国(和歌山県)で亡くなりました。
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イワレビコの一行が熊野(和歌山県、南部の山奥)に着いたときでした。
大きな熊が現れると、その毒気によって一行は倒れてしまいます。
けれども、タカクラジという人物が現れ、大刀をイワレビコに献上したことで、毒気から醒めることが出来ました。
イワレビコがタカクラジに事情を問うと、彼は次のように述べました。
「私が見た夢での話です。
イワレビコが苦戦しているのを見たアマテラスとタカミムスビは、
武神タケミカヅチに天降りを命じました。
タケミカヅチは自分が出向く必要はないと考え、
自らの大刀を地に降ろしました。
そして、私は倉に落ちていたその大刀を献上した次第です。」
※タカミムスビはイザナギより前に生まれた神様
続けて、タカクラジがタカミムスビの言葉を次のように伝えました。
「イワレビコよ、この先には荒々しい神が多くいる。
高天原から八咫烏を遣わせて、道案内をさせよう。
八咫烏が飛び立つ後に続いて、先に進みなさい。」
※八咫烏(ヤタ・ガラス)は三本足のカラスの神様
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その内容の通りに、八咫烏がやってきました。
イワレビコの一行は山々を進軍し、いよいよ大和の地へと辿り着きました。
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イワレビコ軍がナガスネヒコ軍を撃破に成功すると、ニギハヤヒが現れ、イワレビコに対して次のように言いました。
「私は、ニニギが降臨したと聞いて、後を追って降臨しました。」
実はニニギの日向への天孫降臨の後、大和に降臨した者がいたのです。
このような、高天原から降臨してきた一族を天孫族と呼びます。
※なお、「中つ巻」以降の天孫族は人間として扱います
高天原から降臨したニギハヤヒは大和のナガスネヒコ一族と婚姻関係を結び、イワレビコが攻めてくるまでの間、大和を治めていたのでした。
彼がイワレビコに帰順したことで大和は平定されました。
そして、イワレビコは橿原宮(かしはらの・みや)で、
神武天皇(じんむ天皇)として即位したのでした。
この日、日本が建国されたのです。
※以後、天皇号のふりがなに関しては「天皇」を省略します
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神武天皇の即位日である2月11日は、戦前は「紀元節」として、戦後は「建国記念の日」として、現在も国民の祝日となっています。
その後、神武天皇はオオモノヌシ(大物主)の娘であるイスケヨリヒメを皇后としました。
そして、天皇と皇后の間に生まれたのが綏靖天皇(すいぜい)です。
※オオモノヌシは「上つ巻」の国造りの際に大和に祀られた神様です
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神武天皇の崩御後、日向で誕生した子のタギシミミが、皇后との子から皇位を奪おうとします。
けれども綏靖天皇は彼の討伐に成功し、第2代天皇として即位しました。
2. 欠史八代(けっしはちだい)
綏靖天皇の子が第3代、安寧天皇(あんねい)として即位しました。
安寧天皇の子が第4代、懿徳天皇(いとく)として即位しました。
懿徳天皇の子が第5代、孝昭天皇(こうしょう)として即位しました。
孝昭天皇の子が第6代、孝安天皇(こうあん)として即位しました。
孝安天皇の子が第7代、孝霊天皇(こうれい)として即位しました。
孝霊天皇の子が第8代、孝元天皇(こうげん)として即位しました。
孝元天皇の子が第9代、開化天皇(かいか)として即位しました。
第2代、綏靖天皇から第9代、開化天皇までの8代の天皇には系譜以外の事績が少ないため、欠史八代と呼ばれます。
3. 疫病の流行
開化天皇の子が第10代、崇神天皇(すじん)として即位しました。
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崇神天皇の治世において疫病が流行しました。
天皇は夢でオオモノヌシの次のようなお告げを受けます。
「オオタタネコに私を祀らせれば疫病が収まるだろう。」
そこで、天皇はオオタタネコという人物を探して、オオモノヌシを祀らせると、疫病が収まりました。
※オオタタネコは、オオモノヌシの子孫です
4. 四道将軍(しどう将軍)
崇神天皇はオオビコを越(こし/北陸地方)に、
オオビコの子のタケヌナカワワケを東国(東海地方)に、
天皇の弟のヒコイマスを旦波国(たんばの・くに/兵庫県)に、
それぞれ遠征させました。
また、遡って第7代、孝霊天皇の治世ではキビツヒコが吉備(岡山県)に遠征しました。
この4人の遠征将軍を合わせて、四道将軍と呼びます。
※『日本書紀』ではキビツヒコの遠征が崇神天皇の治世に行われ、
また、旦波国の遠征将軍がタンバノミチヌシとなっている
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オオビコは遠征中に女性からのお告げを受け、それを天皇に報告します。
天皇はそれによりタケハニヤスヒコの謀反を察知し、討伐に成功しました。
その後、オオビコとタケヌナカワワケは遠征を経て合流したため、その地を会津(福島県)と呼びます。
5. 初国知らす天皇(ハツクニシラス・スメラミコト) ⭐重要!
崇神天皇の治世で天下は太平となり、人民は裕福になり繁栄しました。
そこで初めて天皇は課税を実施することとなりました。
人々は崇神天皇の治世を褒め称えて、
「所知初國御眞木天皇(ハツクニ・シラシシ・ミマキノ・スメラミコト)」
という尊称で呼びます。
これを簡略化すると、
「初国知らす天皇(ハツクニシラス・スメラミコト)」となります。
「初めて国を知らした天皇」という意味です。
※「知らす」は「上つ巻」の国譲りの章で紹介しましたが、
民衆の生活を知って、民衆のための政治をするという意味合いです。
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彼が唱えた「人民の人民による人民のための政治」と
『古事記』における「しらす」の概念は通ずるところがある。
6. サホビコの乱
崇神天皇の子が第11代、垂仁天皇(すいにん)として即位しました。
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垂仁天皇の皇后のサホビメは、皇位を狙う兄のサホビコに命令され、天皇暗殺を試みました。
しかし、サホビメは夫を殺害する際の悲しみの心に耐えられず、暗殺計画を天皇に打ち明けてしまいます。
垂仁天皇はサホビコ討伐の軍を起こしますが、皇后のサホビメは兄を思う気持ちに耐えられず、宮から逃げ出して兄の下に向かいました。
サホビメは天皇の子を身ごもっており、兄の陣中で出産します。
サホビメが出産した皇子はホムチワケと名付けられました。
※『日本書紀』ではホムツワケとなっている
ホムチワケは天皇に引き取られ、サホビコは討伐されました。
サホビメも、兄と死をともにしました。
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7. ホムチワケと祟り
垂仁天皇とサホビメの皇子であるホムチワケは、成長しても、ものを言うことが出来ませんでした。
しかしある日、白鳥の声を聴いて言葉を発したため、天皇は白鳥を捕らえさせましたが、ホムチワケが話すことはありませんでした。
※皇子(みこ)は天皇の息子、皇女(ひめみこ)は天皇の娘
天皇は憂いていましたが、夢で次のようなお告げを受けました。
「私の宮を天皇の宮のように造営すれば、皇子は自然と話すだろう。」
天皇は占いによりどの神のお告げかを求めると、出雲大神でした。
出雲大神(イズモノオオカミ)は、オオクニヌシの別名です。
※オオクニヌシは「上つ巻」で登場した、アマテラスに国を譲った神です。
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大国主は国譲りの際にアマテラスに宮殿の建設を要求していました。
しかし、天孫族が宮殿を創建しないために、ホムチワケを祟ったのだと解釈されています。
垂仁天皇はホムチワケを出雲(島根県)に参拝させました。
するとホムチワケが言葉を発するようになりました。
天皇はそれを聞いて喜び、出雲大神の宮(出雲大社)を創建されました。
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※なお、『古事記』では一文しか触れられていませんが、
垂仁天皇の治世において、皇女のヤマトヒメによって八咫鏡が
伊勢に移され、アマテラスを祀る(伊勢の)神宮が創祀されました。
伊勢神宮は通称で、正式名称は「神宮」です。
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※神社の創祀(そうし)とは、神様を祀り始めること。
神社の創建(そうけん)とは、社殿を建設すること。
古墳時代以前においては、神は御神体に宿るものであり、
創建の概念は一般的ではありませんでした。
8. ヤマトタケル伝説 ⭐重要!
垂仁天皇の子が第12代、景行天皇(けいこう)として即位しました。
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景行天皇の皇子のオオウスは、天皇が妃としようとした2人の女性を自分の妃としてしまいました。
それに気づいた天皇は皇子のオウスに、オオウスを教え諭すよう命じます。
しかしオウスは言葉の意味を勘違いし、オオウスを殺害してしまいました。
天皇はオウスの荒々しい性格を恐れて、熊襲(鹿児島県)のクマソタケルの討伐に向かわせました。
オウスは叔母のヤマトヒメから巫女服をもらい、女装してクマソタケル兄弟の宴会に紛れ込んで暗殺しました。
その際、クマソタケルから強さを認められ、タケルの名を譲り受けました。
※ヤマトヒメは伊勢の神宮を創祀した皇女です
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これにより、オウスはヤマトタケルと呼ばれるのです。
ヤマトタケルは大和に帰還する途中で出雲(島根県)のイズモタケルを討伐しようと考えました。
ヤマトタケルは彼の友人となった後、太刀を交換しようと言いました。
そうしてイズモタケルに偽物の太刀を渡して決闘を行い、殺害しました。
帰還したヤマトタケルに、景行天皇は今度は東国の討伐を命じます。
ヤマトタケルは伊勢の神宮に参拝し、叔母のヤマトヒメに訴えました。
「天皇が私に遠征で死んでほしいと思っているのは何故か。
熊襲に遠征から帰還して、少しの時も置かずに、軍隊も下さらず、
今度は東方の12ヵ国への遠征を命じられた。
天皇は私が死んでしまえばいいと思っているのだ。」
こうしてヤマトタケルが泣いて帰ろうとしたときに、ヤマトヒメは彼に草薙剣と袋を授けます。
そして、袋については危急のときに開けるよう伝えました。
ヤマトタケルが相模国(神奈川県)に至った際に、その地の国造に騙され、野に火を放たれ命の危機に陥ります。
国造(くにの・みやつこ)とは、大和に服属した国を統治する官職です。現地の有力者が自ら臣従したことで任ぜられる場合と、ヤマト王権に討伐された後に大和から送り込まれる場合があります。
危機に陥ったヤマトタケルは、ヤマトヒメから授かった袋を開けました。
すると、袋の中には火打ち石が入っています。
ヤマトタケルは草薙剣で周囲の草を薙ぎ払い、火打ち石で火を打ち出し、向かい火を着けて迫る炎を退けました。
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『日本書紀』では、このときの剣の活躍により、
"草薙"剣("くさなぎ"の・つるぎ)
と呼ばれるようになったとも記されています。
ヤマトタケルは東国平定後、尾張(愛知県)でミヤズヒメと結婚します。
その際、ヤマトタケルは草薙剣を彼女のもとに置いたまま、伊吹山の神(伊吹大明神)の討伐に向かいました。
※伊吹山は滋賀県と岐阜県の間、関ヶ原の傍にあります
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ヤマトタケルは山の曲がり角で、突然白く大きなイノシシに遭遇します。
彼はそのイノシシが神の使いだと考え、戦わず先に進むことにしました。
すると、大粒のひょうが降り注ぎ、ヤマトタケルを襲いました。
実は、白いイノシシの正体は、伊吹山の神そのものだったのです。
ヤマトタケルは山を下りますが、疲労が彼を苦しめます。
彼の足は、疲労で3重の餅のようになっていました。
それに由来して、その地を三重(三重県)と呼びます。
ヤマトタケルは祖国大和と、ミヤズヒメに残した草薙剣を思いながら、
能煩野(三重県)で息を引き取りました。
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能煩野に彼の陵墓が作られると、ヤマトタケルの御霊が大きな白鳥となり、天に飛翔して、浜に向かって飛んでいきました。
それを見た彼の妃や子らによって詠まれた4首の歌は、『古事記』完成当時の現在(奈良時代)でも、天皇の大葬儀で謡われています。
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※草薙剣はその後ミヤズヒメによって祀られ、
それが熱田神宮の起源となったとされています。
草薙剣は現在も熱田神宮に祀られています。
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※現在、三種の神器はそれぞれ、
八咫鏡 → 伊勢神宮(三重県)
草薙剣 → 熱田神宮(愛知県)
八尺瓊勾玉 → 皇居または赤坂御所(東京都)
に所在しています。
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9. 皇后の神懸かり
景行天皇の子が第13代、成務天皇(せいむ)として即位しました。
※ヤマトタケルの兄弟
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成務天皇の甥が第14代、仲哀天皇(ちゅうあい)として即位しました。
※ヤマトタケルの子、景行天皇の孫
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ややこしいですが、系譜は次のようになります。
⑫景行天皇 → ヤマトタケル →⑭仲哀天皇
↳ ⑬成務天皇
仲哀天皇は熊襲国(鹿児島県)の討伐を考え、筑紫に訪れました。
天皇と武内宿禰(たけのうちの・すくね)は祭祀場で神託を求めます。
武内宿禰は大臣(おおおみ)という役職の人物です。
大臣は宰相のような地位で、後に蘇我氏が世襲するようになります。
武内宿禰は非常に長寿な功臣として記されています。
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仲哀天皇が神託を求めると、皇后である神功皇后に神が依り憑きました。
※神功皇后(じんぐう・こうごう)は『古事記』や『日本書紀』において、
天皇と同列に扱われている皇后です
神功皇后に依り憑いた神は、
「西の彼方に国がある。その国には金銀財宝がある。
我はそなたにその国を授けよう。」
と仲哀天皇に対して語りました。
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しかし天皇は、西には国はなく大海があるばかりだと答えます。
するとその神はひどく怒り、
「もはやこの天下は、そなたの知らすべき国ではない。
そなたは一筋の道に行かれよ。」
と言い放ちました。
もう何度も登場しているので大丈夫だと思いますが、「知らす」とは、
「民衆の生活を知って、民衆のための政治をする」という意味合いです。
また、一筋の道とは、黄泉国への道のことだと考えられています。
武内宿禰は、仲哀天皇が弾いていた琴の音が聴こえなくなったため、天皇の様子を伺いました。
すると、なんと天皇は既に崩御されていたのです。
10. 新羅征伐 ⭐重要!
仲哀天皇の葬儀を行い、日を改めて武内宿禰が神託を求めると、神功皇后に再び神が依り憑きました。
その神が言うには、
「この国は、皇后の胎内にいる皇子が知らす国である。
これはアマテラスの御心意である。
また、我らは住吉三神(スミヨシ・サンジン)である。」
※住吉三神は「上つ巻」のイザナギの禊の際に生まれた神々
神功皇后が住吉三神の言葉通りに海を渡ると、強い追い風が吹きました。
そして、船を進めた大波は新羅の国土の半ばまで押し寄せます。
新羅の国王は恐れはばかり、服属することとなりました。
※新羅(しらぎ)とは、4世紀頃~935年にかけて朝鮮半島に存在した国家
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※『日本書紀』ではこの後に百済(くだら)と高句麗(こうくり)も
服属させるため、三韓征伐という呼び方が一般的です。
しかし、直接戦闘したのが新羅のみであること、
『古事記』では新羅のみ登場することから、新羅征伐とも呼びます。
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11. 香坂・忍熊の乱(カゴサカ・オシグマの乱)
神功皇后が新羅から筑紫(福岡県)に帰還すると、皇子が誕生しました。
神功皇后は皇位の継承戦争を危惧したため、誕生した皇子が亡くなられたという噂を立てました。
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それと時を同じくして、都では皇子の香坂王と忍熊王が、
筑紫から凱旋する神功皇后に対しての挙兵を決めていました。
※香坂はカゴサカ、忍熊はオシグマと読みます
2人の皇子は誓約(うけい)を行って挙兵の成功を占いますが、凶の結果として、香坂王がイノシシに喰い殺されてしまいます。
それでも忍熊王は合戦に挑み、難波(大阪府)、山城(京都府)で戦闘が繰り広げられました。
劣勢になった神功皇后側は、
「皇子が亡くなってしまったので、戦う理由が無くなった。」
と申し出て、偽りの降伏を行いました。
忍熊王は事前に流された噂の影響もあり騙されてしまいました。
忍熊王の軍が装備を解いたのを見計い、神功皇后は攻撃を実施します。
忍熊王は琵琶湖(滋賀県)まで逃げ延び、湖に身を投げました。
12. 三皇子の分掌(さんおうじのぶんしょう)
仲哀天皇の子が第15代、応神天皇(おうじん)として即位しました。
※神功皇后が筑紫(福岡県)で生んだ皇子
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応神天皇は、皇子のオオヤマモリとオオサザキに、
「お前達は、年長の子と年少の子と、どちらが愛しいか?」
というように尋ねました。
これは、応神天皇が皇位継承者を誰にすべきと考えているかを、
2人の皇子に試した問いだと考えられています。
応神天皇は自身の年少の子である菟道稚郎子(ウジノワキ・イラツコ)を皇太子に据えようとしていました。
皇太子(こうたいし)とは、皇位の継承順位が1位の者を指す言葉です。
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そこで、2人の菟道稚郎子に対する評価を聞き、2人のどちらが皇太子を支えるのに相応しいかを判断しようとしたのです。
オオヤマモリは年長が良いと、オオサザキは年少が良いと答えました。
その結果、オオサザキが菟道稚郎子の下での執政を任されたのでした。
13. 百済の朝貢 ⭐重要!
応神天皇の治世においては、新羅人や百済人が多く渡来しました。
これを、学校の教科書では渡来人と呼んでいます。
百済の近肖古王(キン・ショウコ・オウ)は、阿直岐(アチキ)を
派遣して、天皇に馬を献上させています。
※近肖古王は4世紀頃に在位した百済王
※阿直岐は『日本書紀』の表記。『古事記』では阿知吉師(アチキシ)。
また、百済の王仁(ワニ)は『論語』と『千字文』を天皇に献上します。
これにより、儒教と漢字が公伝されたとも考えられています。
※王仁は『日本書紀』の表記。『古事記』では和邇吉師(ワニキシ)。
※公伝(こうでん)とは、国家間で公的な外交により伝来すること。
民間による私的な伝来は既に行われていたと考えられる。
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14. 大山守の乱(オオヤマモリの乱)
応神天皇が崩御された後、取り決めの通り、
菟道稚郎子(ウジノワキ・イラツコ)が皇位を継承する運びとなりました。
しかし、オオヤマモリ(大山守)は皇位を狙い挙兵を試みます。
オオサザキはその動きを察知して、菟道稚郎子に報告しました。
菟道稚郎子はオオヤマモリを騙すために、偽の仮宮を設営します。
その場所は、山城(京都府)の宇治川でした。
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オオヤマモリは仮宮を攻めるために船に乗り込みます。
すると、宇治川の中ほどまで船が進んだとき、急に船が傾いて、
なんとオオヤマモリは川の中に落ちていってしまいました。
実は、船の操縦をしていたのは菟道稚郎子で、賤しい姿に変装してオオヤマモリを死に追いやったのでした。
その後、菟道稚郎子とオオサザキは互いに皇位を譲り合いますが、菟道稚郎子が間もなく亡くなってしまいます。
そのため、オオサザキが第16代、仁徳天皇(にんとく)として即位することとなったのです。
※『播磨国風土記』には「宇治天皇」という記載があり、菟道稚郎子が
宇治天皇として即位していた可能性が指摘されている。
また、仁徳天皇を名君として記すために、仁徳天皇に都合の良い歴史に
脚色されているとする説も多く存在する。
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※この後、番外編として「アメノヒボコ」と「イズシオトメ」の
2つのサブストーリー(神話)が記されている。
しかし、これらは神功皇后の母方の系譜を裏付けるために挿入された
ものであり、『古事記』本編には影響しないため割愛する。
──以上で、「中つ巻」は読了となります。お疲れさまでした。
下つ巻
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「下つ巻」は、⑯仁徳天皇~㉝推古天皇までの歴史が記されています。
仁徳天皇以降の天皇は、実在の可能性が高いと一般的に言われています。
また、㉑雄略天皇は、現状実在が確定されている最も古い天皇です。
そのため、「下つ巻」の内容はかなり史実に近づいていると思われます。
長かった『古事記』の旅も、もう大詰めです。
日本神話から日本史への架け橋、その最後の一歩を踏み出しましょう。
──それでは、『古事記』の世界へようこそ…
1. 民の竈(たみのかまど) ⭐重要!
応神天皇の子が第16代、仁徳天皇(にんとく)として即位しました。
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仁徳天皇はある日、国の中にかまどの煙が立っていないのを見て、次のように話しました。
「かまどの煙が立っていないのは、国民が貧しいからだ。
よって、今から3年間、民の労役と租税を免除せよ。」
これにより、宮殿が破れ壊れても修繕は行われませんでした。
3年が経つと、国中にかまどの煙が立ち昇っていました。
それを見て、天皇は再び労役と租税を命じました。
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この政策により、民は幸せになり、労務に苦しむこともなくなりました。
そのため、仁徳天皇の治世を褒め称え、
聖帝(ひじりの・みかど)の世と呼びます。
2. 皇后イワノヒメ
仁徳天皇の皇后のイワノヒメは、嫉妬深い女性でした。
イワノヒメが木国(和歌山県)に訪れているときのことです。
仁徳天皇は皇后の大和不在時に、内緒で皇女のヤタノワキと結婚しました。
それを知ったイワノヒメはひどく怒り、大和(奈良県)には戻らずに、山城(京都府)へと去ってしまいます。
けれども、クチコやヌリノミといった家臣の奮闘によって2人の仲は元に戻ることとなりました。
3. 隼別の変(ハヤブサワケの変)
仁徳天皇は、弟のハヤブサワケ(隼別)を仲人として、皇女のメトリを妃にしようとしました。
しかし、メトリはハヤブサワケに対して、
「皇后のイワノヒメが嫉妬深いので、ヤタノワキも宮中に入れていない。
ですから、私も天皇の妃にはなろうとは思いません。
むしろ、私はあなたの妃になりたい。」
と言いました。
ハヤブサワケはメトリを妃とし、天皇に報告をしませんでした。
そのため、仁徳天皇は自らメトリの下へ足を運びます。
天皇はメトリから話を伺い、その心のうちを知りました。
メトリはハヤブサワケに対し、次のような歌謡を詠みます。
「雲雀(ひばり)という鳥は 天高く飛び駆ける
隼(はやぶさ)はもっと高く飛ぶ
その名にふさわしいハヤブサワケよ
鷦鷯(さざき)を取ってしまいなさい」
※夫のハヤブサワケを、鳥のはやぶさに喩えて、
仁徳天皇を本名のオオサザキから、鳥のさざきに喩えている。
天皇を討って皇位を奪うように言っていることが読み取れる。
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仁徳天皇は2人の謀反を察知すると、軍を動かして討伐を命じました。
ハヤブサワケとメトリは逃亡しますが、将軍のヤマベノオオタテによって殺害されます。
ヤマベノオオタテは、メトリが持っていた立派な腕飾りを奪い、自分の妻に与えました。
その後、宴会の催しの際に、皇后のイワノヒメが、ヤマベノオオタテの妻が身に着けている腕飾りを目にします。
イワノヒメはメトリの腕飾りを知っていたため、ヤマベノオオタテの卑劣な行いに気付き、彼を死罪としたのでした。
仁徳天皇は崩御後、百舌鳥(大阪府)の御陵に葬られました。
その御陵は現在、仁徳天皇陵(大仙古墳)と呼ばれ、日本最大の古墳、世界最大級の陵墓として広く知られています。
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※仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)は、
「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」として、
2019年に世界文化遺産に登録されています
※仁徳天皇陵(日本)、始皇帝陵(中国)、
クフ王のピラミッド(エジプト)を合わせて、
世界三大墳墓と呼ぶこともあります
4. 住吉の乱(スミノエの乱)
仁徳天皇の子が第17代、履中天皇(りちゅう)として即位しました。
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履中天皇が難波(大阪府)での饗宴で寝てしまった際に、弟のスミノエが皇位を奪うために天皇を殺害しようと、御殿に火を放つ事件が起こります。
阿知使主(アチノオミ)の活躍により天皇は火を逃れました。
※阿知使主は『日本書紀』の表記。
『古事記』では阿知直(アチノアタイ)。
※阿知使主は『日本書紀』では第15代、応神天皇の治世に渡来人として登場
履中天皇の弟のミズハワケは火を逃れた天皇に謁見を願い出るが、
「私はお前がスミノエの様に、私の殺害を考えているかもしれないと
疑っている。だから会談は出来ない。」
と天皇に言われてしまいます。
ミズハワケはスミノエの側近であったソバカリを唆して、スミノエを暗殺させました。
そして、主君を裏切る者は義に反するとしてスミノエも殺害しました。
こうしてミズハワケはスミノエを討伐し、謁見を許されたのでした。
5. 氏姓改革
履中天皇の弟のミズハワケが第18代、反正天皇(はんぜい)として即位しました。
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反正天皇の弟が第19代、允恭天皇(いんぎょう)として即位しました。
※履中天皇、反正天皇、允恭天皇は兄弟
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ややこしいですが、系譜は次のようになります。
⑯仁徳天皇 → ⑰履中天皇
↳ ⑱反正天皇
↳ ⑲允恭天皇
允恭天皇は氏(うじ)と姓(かばね)が乱れていることを嘆きました。
氏とは、主に男系(父系)祖先を同じく血縁集団を指します。
それぞれの氏には祖先神である氏神(うじがみ)が存在しており、同じ神を信仰する共同体として成り立っていました。
また、姓とは、特に有力な氏に与えられた称号のことです。
豊臣秀吉のフルネームは「豊臣朝臣羽柴秀吉」ですが、
「豊臣」が氏、「朝臣」が姓、「羽柴」が苗字、「秀吉」が名前です。
また、氏はヤマト王権によって認可されることで名乗ることが出来るものであり、有力者はより優れた先祖や氏神を味方にして権威を高めるため、系譜の改ざんに走っていたのです。
允恭天皇は氏姓の乱れを正すため、盟神探湯(くかたち)という占いを行いました。
これは、神に誓わせた後に熱湯に手を入れさせ、火傷をしなければ嘘をついていないだろうと判定する裁判方式です。
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この方法により、允恭天皇は氏姓の真偽を正したのでした。
6. 木梨軽の廃太子(キナシノカルの廃太子)
允恭天皇が崩御された後、皇太子であったキナシノカル(木梨軽)は、同母妹と近親相○をしていたことが発覚します。
この発覚はキナシノカルの即位前であり、世間は彼を見放し、その弟のアナホを皇位継承者として期待しました。
キナシノカルは拘束された後、伊予(愛媛県)に流刑となりました。
同母妹は彼を追って伊予へ落ち延び、2人で心中しました。
※この話は「衣通姫(ソトオリヒメ)伝説」として、
ヤマトタケル伝説に匹敵するほどの壮大な歌物語の章ですが、
題材が教育的によろしくないので今回はカットです
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キナシノカルとの許されざる恋模様が描かれる
7. 根臣(ネノオミ)の陰謀
允恭天皇の子であったアナホが第20代、安康天皇(あんこう)として即位しました。
※キナシノカルの弟
系図は次のようになります。
⑯仁徳天皇 → ⑰履中天皇
↳ ⑱反正天皇
↳ ⑲允恭天皇 → キナシノカル
↳ ⑳安康天皇
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安康天皇は、オオクサカの妹を、自分の弟のオオハツセの妃にしようと考えました。
安康天皇はネノオミ(根臣)を使者としてオオクサカの下へ送ります。
オオクサカは妹を差し出すことを承諾し、贈り物として冠を献上しました。
しかし、ネノオミはその冠を盗み取り、安康天皇にはオオクサカが天皇を侮辱したと偽りの報告をしました。
安康天皇はその報告を信じてしまい、オオクサカを殺害してしまいました。
8. 眉輪の変(マヨワの変) ⭐重要!
安康天皇はオオクサカの妃を自らの皇后としました。
皇后にはオオクサカとの間の子であるマヨワ(眉輪)がおり、天皇はその子を自分の子として育てていました。
マヨワは7歳のとき、安康天皇が自分の父であるオオクサカを殺害したことを知ってしまいます。
そして、マヨワは天皇が眠っているところを狙い、暗殺してしまいました。
9. 大長谷の粛清(オオハツセの粛清) ⭐重要!
暗殺された安康天皇の弟、オオハツセ(大長谷)は当時少年でした。
彼は暗殺事件を聞いて怒り、兄達に対応について相談に向かいました。
しかし、兄達には緊張感が見られなかったため、オオハツセは兄達を罵って殺害してしまいます。
それからオオハツセは軍を起こし、マヨワが逃げた屋敷を取り囲みます。
マヨワはそれを受けて、家臣と共に自害しました。
オオハツセは皇族のオシハを狩りに連れて行き、奇襲し射殺しました。
これを聞いたオシハの皇子のオケとヲケは播磨(兵庫県)に逃亡しました。
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10. 葛城山の一言主(かつらぎやまのヒトコトヌシ)
安康天皇の弟のオオハツセが第21代、雄略天皇(ゆうりゃく)として即位しました。
系図は次のようになります。
⑯仁徳天皇 → ⑰履中天皇 → オシハ → オケ
↳ ⑱反正天皇 ↳ ヲケ
↳ ⑲允恭天皇 → ⑳安康天皇
↳ ㉑雄略天皇
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ある日、雄略天皇が葛城山に訪れたときに、天皇の行幸とそっくりな行列で山を登る者がいました。
雄略天皇がその無礼を怒り弓を構えると、相手方も同じ動きをします。
※葛城山(かつらぎやま)は奈良県と大阪府の間にある山です
天皇が相手方に名乗るよう命じると、相手方は
「私は葛城のヒトコトヌシ(一言主)の大神である。」
と答えました。
それを聞いた雄略天皇は恐れ慄き、様々なものを献上しました。
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11. 三重の采女(みえのうねめ)
雄略天皇が宴会を催した際に、三重(三重県)の采女(うねめ)が天皇に杯(さかずき)を献上しました。
※采女とは近侍の女官のこと
このとき、けやきの葉が落ちて杯の上に浮きました。
それを見た雄略天皇は、采女を打ち伏せて刀で斬ろうとします。
采女は殺されるのを避けるため、美しい歌謡を詠みました。
※本当は紹介したいですが、長いため泣く泣くカットです
天皇は三重の采女を褒め称え、たくさんの物を与えました。
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この浮世絵は、雄略天皇がイノシシを蹴り殺す場面
※雄略天皇には「大悪天皇」と「有徳天皇」という相反する異名がある。
それだけ評価が難しい天皇ということだろう。
※稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣に彫られた銘文により、
雄略天皇は実在が確定された初の天皇となった。
鉄剣の「ワカタケル大王」という銘文は雄略天皇を指すとされている。
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12. 飯豊王の執政(イイトヨノミコの執政)
雄略天皇の子が第22代、清寧天皇(せいねい)として即位しました。
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清寧天皇の崩御後、皇位継承者がいなかったため、第17代、履中天皇の皇女の飯豊王(いいとよの・みこ)が執政を行いました。
※オシハの妹
※『扶桑略記』などの後世の史書には「飯豊天皇」という記載があり、
飯豊王が飯豊天皇として即位していた可能性が指摘されている。
現在、最初の女性天皇は第33代、推古天皇とされているが、
神功皇后や飯豊王が即位していた可能性もある。
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13. ヲケ王の歌詠み
播磨国(兵庫県)で宴会が催されていた際、火焚き係の少年2人が舞をすることとなりました。
2人は互いに譲り合いましたが、弟が舞う際に、皇族が詠むべき歌謡を発したために、その場は大慌てになります。
2人の少年は21代、雄略天皇に殺害されたオシハの皇子であることが判明しました。
兄の方がオケ、弟の方がヲケという名前でした。
その知らせを聞いた飯豊王は皇位継承者が見つかったことに歓喜しました。
2人の皇子は互いに皇位を譲り合いましたが、宴会で歌謡を詠んだ功績により、弟のヲケが先に皇位を継ぐこととなりました。
14. 雄略天皇陵の破壊
オシハの子のヲケが第23代、顕宗天皇(けんぞう)として即位しました。
系図は次のようになります。
⑯仁徳天皇 → ⑰履中天皇 → オシハ → オケ
↳ ⑱反正天皇 ↳ 飯豊王 ↳ ㉓顕宗天皇
↳ ⑲允恭天皇 → ⑳安康天皇
↳ ㉑雄略天皇 → ㉒清寧天皇
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顕宗天皇は、父のオシハを殺害した第21代、雄略天皇を恨んでいました。
天皇は雄略天皇の御霊に報復するため、雄略天皇陵の破壊を計画します。
それを聞いた兄のオケは、私が1人で破壊して参りましょうと言って、雄略天皇陵の傍らを少し掘って帰ってきました。
どうして少ししか掘らなかったのかを天皇が問うと、
「雄略天皇は父の仇だが、近親者であり、天下を治らした天皇でもある。
これを仇というだけで全面破壊すれば、後世の人は非難するだろう。
ただし、父の仇は晴らさずにはいられない。
そこで、雄略天皇陵の脇を少々掘ったのだ。
もはや雄略天皇へは、この恥辱で、後世に示すに足りるだろう。」
というようにオケは答えました。
顕宗天皇はそれも大きな道理だとして、その行為を了承しました。
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15. そして近現代へ
顕宗天皇の兄であったオケが第24代、仁賢天皇(にんけん)として即位しました。
※オシハの子
系図は次のようになります。
⑯仁徳天皇 → ⑰履中天皇 → オシハ → ㉔仁賢天皇
↳ ⑱反正天皇 ↳ 飯豊王 ↳ ㉓顕宗天皇
↳ ⑲允恭天皇 → ⑳安康天皇
↳ ㉑雄略天皇 → ㉒清寧天皇
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仁賢天皇の子が第25代、武烈天皇(ぶれつ)として即位しました。
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『日本書紀』には残虐が説話が多々あるが、
『古事記』には一切記されていない
武烈天皇の崩御後、皇位継承者がいなかったため、第15代、応神天皇の5世孫のヲホドが第26代、継体天皇として即位しました。
系図は次のようになります。
⑮応神天皇 → ⑯仁徳天皇 → ~ ㉔仁賢天皇 → ㉕武烈天皇
↳ ~~~~~~~~~~~~~~~ → ㉖継体天皇
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継体天皇の治世において、筑紫(福岡県)の磐井(イワイ)が無礼を行ったため、討伐を実施しました。
これを、磐井の乱(いわいのらん)と呼びます。
継体天皇の子が第27代、安閑天皇(あんかん)として即位しました。
安閑天皇の弟が第28代、宣化天皇(せんか)として即位しました。
宣化天皇の弟が第29代、欽明天皇(きんめい)として即位しました。
※安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇は3人とも継体天皇の子
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彼の治世にて仏教が公伝した
欽明天皇の子が第30代、敏達天皇(びだつ)として即位しました。
敏達天皇の弟が第31代、用明天皇(ようめい)として即位しました。
用明天皇の弟が第32代、崇峻天皇(すしゅん)として即位しました。
崇峻天皇の妹が第33代、推古天皇(すいこ)として即位しました。
※敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇は4人とも欽明天皇の子
系図は次のようになります。
㉖継体天皇 → ㉗安閑天皇
↳ ㉘宣化天皇
↳ ㉙欽明天皇 → ㉚敏達天皇
↳ ㉛用明天皇
↳ ㉜崇峻天皇
↳ ㉝推古天皇
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『古事記』最後の天皇にして、
日本史の最初の天皇
──以上で、「下つ巻」は読了となります。
そして、これで『古事記』は読了となります。大変お疲れさまでした。
その後の歴史
まだ『古事記』の世界から抜け出せていない方の為に、もう少しだけお話を続けましょう。
推古天皇の治世において600年に遣隋使が開始され、聖徳太子と蘇我馬子による政治改革が実施されました。
その際、『天皇記』や『国記』といった国史の編纂も行われたとされます。
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推古天皇の崩御後、蘇我氏の専横が強まりますが、第35代、皇極天皇の治世において、中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変が645年に起こります。
これにより蘇我氏が滅亡しますが、その際に国史が焼失してしまったと言われています。
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その後、大化の改新と呼ばれる改革が進みますが、663年の白村江の戦いでの敗戦を受けて、天智天皇(=中大兄皇子)と大海人皇子が対立します。
その対立は天智天皇の子の大友皇子に引き継がれ、壬申の乱に至ります。
672年の壬申の乱では、弘文天皇(=大友皇子)と天武天皇(=大海人皇子)は皇位を巡り戦いますが、最終的に天武天皇の勝利で幕を閉じました。
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天武天皇は専制君主として君臨し、強権的に様々な政策を推し進めます。
その中の1つが、新たな国史の編纂でした。
乙巳の変により焼失してしまった物に代わる歴史書として、『古事記』と『日本書紀』の編纂事業が始められたのです。
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『古事記』の「上つ巻」の序文には、天武天皇が『古事記』の編纂を命じた理由が次のように記されています。
「自分(天武天皇)が聞くところによると、多くの氏族が持っている
帝紀(天皇の正史)と本辞(=旧辞、諸氏族の家伝)は
全く真実と違い、多くの虚偽が加えられているという。
今この時に、その誤りを改めないと、何年も経たないうちに、
その真実は失われてしまうであろう。
この正しい帝紀と本辞こそ国家組織の骨格となるものであり、
天皇徳化の基礎となるものである。
そこで帝紀を選び記し、本辞を調べ究めて、偽りを削り真実を定めて、
後世に伝えたいと思う。」
このような理由から、天武天皇は稗田阿礼(ひえだのあれ)に帝紀と本辞を学ばせることで、『古事記』編纂事業を始められたのでした。
また『日本書紀』に関しても、川島皇子らに編纂を命じました。
しかし、686年に天武天皇が崩御されたことで、国史の編纂事業は足止めされることとなります。
それでも、第43代、元明天皇の治世において、『古事記』編纂事業が再び進められました。
稗田阿礼が学んでいた帝紀と旧辞を太安万侶(おおのやすまろ)が編纂し、712年に元明天皇に奏上することで遂に完成へと至りました。
『日本書紀』も第44代、元正天皇の治世において、720年に完成しました。
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『古事記』は現存する日本最古の歴史書とされ、
『日本書紀』は現存する日本最古の正史とされます。
正史とは、政府が正統と認め、対外的に主張する歴史、及び歴史書です。
すなわち正史とは、日本政府の公式見解という意味になります。
『古事記』の特徴は以下の3つです。
・神話を中心に、昔の出来事ほど丁寧に記している
・物語調で構成されており、年号が記されていない
・全3巻であり、正史ではない
『日本書紀』の特徴は以下の3つです。
・壬申の乱など、新しい出来事ほど丁寧に記している
・編年体で構成されており、細かな年号表記がある
・全30巻であり、正史である
両者の特徴の違いから読み取れることとして、
・『古事記』は神話、『日本書紀』は歴史を軸としている
・『古事記』は国内の有力氏族を意識して編纂された
・『日本書紀』は唐を意識して編纂された
ということが挙げられます。
実際、『日本書紀』は外交に必須の知識として広く使用されますが、『古事記』はあまり普及しませんでした。
『古事記』が日の目を見るようになったのは、江戸時代の国学者、本居宣長の功績が大きいと言えます。
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本居宣長は日本古来の文化・思想を明らかにしようとする学問、いわゆる国学を研究していました。
その中で、『古事記』の重要性を同じ国学者の賀茂真淵から説かれ、『古事記』研究に取り組みます。
その結果として1798年に完成したのが、全44巻にもわたる『古事記』の注釈書、『古事記伝』でした。
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第二次世界大戦を経て、GHQの統治時代に入ると、それまで教科書に使用されていた『日本書紀』は教育の現場において用いられなくなります。
それに紐づいて、『日本書紀』は日本人にとって一般的なものではなくなっていきました。
そのような時代の流れによって、『日本書紀』の代わりとして注目され始めたのが『古事記』でした。
令和の世の中において、日本人が推古天皇以前の歴史に触れるきっかけはほとんどありません。
多くの日本人は、推古天皇より前の歴史について知ろうとはしません。
けれど、扉を少し開けば、日本人が知らない日本の歴史がそこには眠っているのです。