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#04 近世編/世界の接続【4/4】世界史(前近代)
※クリックするとリンクに飛べます
【原始編】人類史の始まり(旧石器・縄文)
【古代編】国家の誕生(縄文・弥生・古墳)
【中世編】世界宗教の栄華(古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町)
【近世編】世界の接続(室町・戦国・安土桃山・江戸) ←イマココ!
⑬明・ティムール時代(1368~1453)
《ティムール帝国》
1370年、中央アジアのチャガタイ・ウルスの分裂に乗じて、ティムールという男が台頭します。
彼はチンギス・ハンの末裔を称してイスラーム世界で勢力を拡大していきました。
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ティムールの建てた国家をティムール帝国(ティムール朝)と呼びます。
ティムール朝は中東から中央アジアまで広がる大帝国となり、ティムール自身は東アジアへ遠征の途中に亡くなりました。
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そして、ティムールが遠征していた東アジアの大地には、もう一つの大帝国が誕生していていました。
《明帝国と南海遠征》
1368年、貧農として生まれた朱元璋は、南京で洪武帝として皇帝に即位しました。
これにより、明が建国されます。
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一方、大都を追われた大元ウルスはモンゴル高原に退き、これ以降の政権は明の視点では「北元」と呼ばれます。
ただし、ウルスは領土に固執した概念ではないため、実態とは異なる可能性があります。
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洪武帝は漢民族国家として、中華帝国の再建を目指しました。
海禁政策によって民間貿易を取り締まり、朝貢貿易を推進します。
特に、明の時代では「勘合貿易」と呼ばれる朝貢方式を取り、貿易の統制を強めていきました。
三代皇帝の永楽帝の時代には、日本の将軍である足利義満との日明貿易も始まり、これにより明は倭寇(海賊)の縮小を図りました。
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永楽帝の時代には更なる冊封体制の拡大のため、外洋への遠征が始まります。
1405年、ムスリムである鄭和が率いる2万人以上の規模の大艦隊が組織され、全7回に渡る南海遠征が実施されました。
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第1回の航海ではインドのカリカットに到達しました。
また、途中で東南アジアのマラッカ王国を経由しており、マラッカ王国はこの後100年近くに渡って、インド洋と明との中継貿易で繁栄することになります。
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海上交通の要衝を押さえて繁栄した
第4回の航海ではアラビア半島に到達しています。
第5回の航海ではアフリカ東岸のマリンディにまで到達しました。
第7回の航海では分隊がメッカに至ったとされています。
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《黒死病と封建領主の没落》
英仏百年戦争が泥沼化していたヨーロッパでは、黒死病(ペスト)と呼ばれる感染症が流行していました。
西ヨーロッパに至っては、人口の三分の一が亡くなったと言われています。
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この大規模なパンデミックにより、ユダヤ人への迫害に拍車がかかった一方で、黒死病の前には教会も無力であることから、教会の権威も低下していきました。
また、農民一揆なども見られるようになり、既存の貴族領主の力が弱まる原因にもなりました。
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農奴解放が進み、封建領主が没落していく
《金印勅書》
神聖ローマ帝国では、帝位が諸侯による選挙で選出されていたため、帝位の不安定化を招き、一時は非ドイツ人であるフランス貴族が帝位に付く事態などが発生していました。
このような時代を、実質的に皇帝がいないという意味で「大空位時代」と呼びます。
そのような状態を改善するため、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世によって金印勅書が発布され、選挙の原則が改められました。
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このときに、神聖ローマ皇帝の選出権を持つ七つの有力諸侯が定められ、彼らは「選帝侯(七選帝侯)」と呼ばれます。
《ヤゲヴォ朝》
東ヨーロッパでは、リトアニア大公国とポーランド王国が同君連合となり、ヤゲヴォ朝として大国化していました。
同君連合とは、同じ人物が両国の君主を兼ねることを言います。
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ヤゲヴォ朝はベーメン王国やハンガリー王国などの王位も兼ねており、東ヨーロッパの超大国として君臨していました。
《百年戦争の終結》
英仏の百年戦争は、神のお告げを受けたという少女ジャンヌ・ダルクの登場により、新たな局面を迎えます。
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劣勢だったオルレアン派(反イングランド派)は、彼女の指揮によりオルレアン解放を成し遂げ、形勢逆転をします。
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その後、ジャンヌ・ダルクはイングランド軍に捕えられ、魔女裁判の末に火刑となりました。
1453年、百年戦争は終結しました。
結果としてイングランドはフランス国内での領土のほぼ全てを失うこととなりました。
こうして、イングランドはブリテン島を本国とした、島国としての歴史を歩み始めるのです。
《カルマル同盟とハンザ同盟》
その頃、北ヨーロッパのバルト海ではデンマーク王女マルグレーテが摂政となり、デンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国の三国を統治することに成功してます。
この体制を「カルマル同盟」と呼びます。
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これに対し、バルト海南岸のドイツやポーランド、ロシア地域の商業都市は都市同盟を結成していきました。
この連帯体制を「ハンザ同盟」と呼びます。
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《メフメト2世とコンスタンティノープル陥落》
ティムールがいなくなった後のイスラーム世界では、オスマン帝国が勢力を拡大していました。
1453年にはメフメト2世によって、コンスタンティノープルが陥落し、2200年近い歴史を誇るローマ帝国は、遂に滅亡を迎えます。
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ローマ帝国が滅亡した瞬間であった
メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブールに改称し、イスラーム都市に作り替え、遷都を決定します。
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コンスタンティノープル総主教座の元所在地
ローマ滅亡後はイスラームのモスク(礼拝堂)として繰り返し改築されている
コンスタンティノープルは東ヨーロッパにおける大都市であり、キリスト教世界の学者や芸術家が多く住んでいました。
彼らはイタリアのフィレンツェなどに亡命することになります。
また、オスマン帝国はキリスト教世界との通商に制限をかけていたため、コンスタンティノープル陥落によって欧州の人々はアジアとの交易路を断たれることになりました。
よって、ヨーロッパ社会はアジアへの新航路開拓を目指し、大西洋へと漕ぎ出すことになるのです。
⑭オスマン・ハプスブルク時代
(1453~1644)
《ルネサンス》
東ローマの滅亡により、古代ギリシアや古代ローマの文化が逆輸入された形となり、イタリアではキリスト教が浸透する以前の文芸などが注目され始めます。
そうした文芸復興などの運動を「ルネサンス(再生)」と呼びます。
ルネサンスは封建社会とキリスト教による、閉塞感のある束縛された世界観からの解放が表現されていきました。
代表的なものを紹介します。
レオナルド・ダ・ヴィンチ:「モナ・リザ」「最後の晩餐」
ミケランジェロ:「ダヴィデ像」「最後の審判」
ラファエロ:「聖母子像」「アテネの学堂」
トスカネリ:地球球体説
コペルニクス:地動説
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このような活動はイタリアのみならずヨーロッパ各地にも波及していきました。
イングランドではチョーサーの書いた『カンタベリ物語』が流行し、後にはシェークスピアが登場します。
シェークスピアは『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』『ベニスの商人』『ロミオとジュリエット』のような、様々な有名作品を残しています。
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ドイツではグーテンベルクが活版印刷を実用化し、欧州でも印刷業が普及するようになりました。
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《アステカ帝国とインカ帝国》
旧世界において、明やオスマン帝国が繁栄し、ルネサンスが興っていた頃、アメリカ大陸では、二つの帝国が建国されていました。
ラテンアメリカに成立したのがアステカ帝国、南アメリカの西岸に成立したのがインカ帝国です。
なお、インカ帝国の皇帝のことを「サパ・インカ」と呼びます。
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両国家は欧州諸国よりも広域を支配する大帝国であり、繁栄を謳歌していました。
《新航路の開拓》
1488年、キリスト教世界でいち早くアジアへの新航路開拓を開始したポルトガル王国は、バルトロメウ=ディアスの航海によりアフリカ南端に到達しました。
ポルトガル王ジョアン2世はインド到達への可能性を感じ取り、この岬を「喜望峰(希望の岬)」と名付けました。
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1492年、イベリア半島のスペイン王国はレコンキスタを達成し、同年にジェノヴァ人のコロンブスの航海支援を行います。
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コロンブスはトスカネリの地球球体説を信じ、大西洋を西に進めばインドに到達できると考え、3隻の船、87人でアジアを目指しました。
彼は未知の島(西インド諸島)に到達し、そこをインドだと認識しました。
当時の旧世界の人々にとって、新世界など存在しないものだったのです。
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1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマの3隻60人船団がインドのカリカットに到達しました。
これにより、ポルトガルがアジアとの新航路の開拓に成功することとなります。
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1503年、アメリゴ・ヴェスプッチは大西洋の先の大陸がアジアではなく「新世界」なのではないかと提唱します。
彼の名前から、新大陸は「アメリカ」と呼ばれるようになります。
1519年にはマゼラン艦隊が世界周航を開始し、1522年に帰還しました。
その結果、地球球体説が実証されることとなります。
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《ルターの宗教改革》
マゼラン艦隊が世界周航をしていた頃、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れていました。
ローマ教皇による贖宥状(免罪符)の売り捌きを発端に、ドイツではローマ教会に対する批判が発生します。
その原動力となったのがルターという神学者でした。
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ルターは1517年に「九十五カ条の論題」を発表し、ローマ教皇への批判を開始しました。
しかし、当時の聖書はラテン語で書かれており、民衆の中にそれを読めるものはいませんでした。
教会の司祭が読み聞かせにより布教していた時代であり、民衆に聖書との矛盾のなど指摘出来なかったのです。
その状況を打開するため、ルターは聖書のドイツ語訳を行いました。
それはグーテンベルクの活版印刷術によって普及し、彼に賛同する者たちは「プロテスタント(抗議者)」と呼ばれるようになります。
《カルヴァン派とイングランド国教会》
このようなキリスト教の改革運動はドイツ以外でも起こりました。
スイスではカルヴァンが『キリスト教綱要』を発表し、キリスト教の改革派を形成します。
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イングランドでは国王ヘンリ8世がローマ教皇と対立し、1534年に国王至上法(首長法)を発布しました。
これにより、イングランド国教会が設立されました。
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イギリス国教会では国王が教会の首長となることが定められました。
このため、これまでラテン語の機密文書に関してなど、ローマ教会の内政干渉が発生していましたが、これを排除することが可能になります。
イングランド国教会は1559年、エリザベス1世の統一法によって確立することになりました。
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イングランド国教会はカンタベリ大聖堂を総本山としています。
また、イングランド国教会の系統に属する世界の教派を聖公会と呼び、聖公会の集まりをアングリカン・コミュニオンと言います。
《ハプスブルク帝国とオスマン帝国》
神聖ローマ皇帝は選帝侯による選挙により決められていましたが、この頃になるとオーストリアに領地を持つハプスブルク家によって世襲されるようになります。
ハプスブルク家はこの時代、欧州で最の格式高い一族となっていました。
また、同家は欧州で最も勢力の大きな家であるため、「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがあります。
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婚姻政策により数多の王位、爵位を兼任し、欧州に大帝国を築いた
神聖ローマ皇帝カール5世は、東西に敵を抱えていました。
東にはオスマン帝国のスレイマン1世(大帝)、西にはフランス王国のフランソワ1世です。
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スペイン王、カルロス1世(西語)
その他、王位爵位多数
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スレイマン1世はオスマン帝国の最盛期を創出したスルタンであり、第一次ウィーン包囲によってヨーロッパ中を震撼させました。
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フランソワ1世とはイタリアの権益を巡ってイタリア戦争が発生しており、更には内部ではルターによる宗教問題が発生しています。
このような情勢の中、カール5世はスペインの王位も継承しており、そちらではカルロス1世とも呼ばれます。
カルロス1世の時代、スペインはアメリカ大陸に進出し、1521年にはアステカ帝国を、1533年にはインカ帝国を滅ぼしました。
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スペイン軍人のピサロにより処刑された
これらは軍事的優位性よりも、アメリカ大陸の人々に免疫のない感染症の影響が大きく影響しました。
《銀の流通と経済》
スペインが占領したペルーのポトシ銀山から大量の銀が採掘されるようになり、ヨーロッパでも大量の銀が流通しました。
そのため、欧州では通過の価値暴落が起き、物価が上昇していきました。
これを「価格革命」と呼びます。
また、商業の中心がイタリアから大西洋沿岸に移っていきました。
これを「商業革命」と呼びます。
また、銀の流通はアジアの経済にも影響を与え、明では税制を銀納にする一条鞭法が制定され、日本でも石見銀山での採掘が活発化しました。
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石見銀山の開発により財の成した
なお、インドに到達したポルトガルはマラッカ王国を占領し、1543年には種子島に到達して日本に鉄砲を伝来させました。
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《豊臣政権と明の滅亡》
鉄砲が伝来した日本では、室町幕府が弱体化しており、戦国時代が訪れていました。
室町幕府を滅ぼした織田信長が台頭し、その後は豊臣秀吉によって、日本列島が統一されます。
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豊臣秀吉は朝鮮侵攻を実施し、明はこれに応戦した結果、両者痛み分けに終わります。
その結果、豊臣政権は徳川家康によって滅ぼされ、明は1644年に李自成によって滅ぼされることとなりました。
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なお、豊臣秀吉の朝鮮侵攻に関しては、各国で様々な呼称があります。
ここでは代表的なものを紹介しておきます。
・朝鮮出兵(日本)
・文禄・慶長の役(日本)
・唐入り(日本)
・壬辰・丁酉の倭乱(韓国)
・壬辰祖国戦争(北朝鮮)
・万暦朝鮮の役(中国)
・抗倭援朝(中国)
また、中央アジアではモンゴル・ウルスのアルタン・ハーンによってチベット仏教の信仰が広がり、チベット仏教の指導者は「ダライ・ラマ」と呼ばれるようになります。
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ダライ・ラマの称号を用いた最初の人物である
先代および先々代に追諡したため3世と呼ばれる
《コロンブス交換》
旧世界と新世界の接続により、これまで片方の世界にしかなかった様々なものが相互に流入していきました。
これを「コロンブス交換」と呼びます。
新世界から旧世界へは、トウモロコシ、ジャガイモ、七面鳥、梅毒などが流入しました。
旧世界から新世界へは、馬、牛、羊、小麦、車輪、鉄器、天然痘、インフルエンザ、ペスト、キリスト教などが流入しました。
《ムガル帝国とサファヴィー朝》
1526年、インドではティムールの子孫であるバーブルがインドに侵攻し、ムガル帝国(モンゴル帝国)を建国しました。
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ムガル帝国はイスラーム王朝でしたが、インドの民衆の多くはヒンドゥー教徒であり、宗教的に難しい国家運営を強いられることになります。
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非ムスリムへのジズヤ(人頭税)を廃止するなど、宥和策をとった
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なお、1632年には有名なタージ・マハル廟が造営開始されています。
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イラン高原ではシーア派のサファヴィー朝が台頭しており、首都となったイスファハーンは政治や文化の中心として栄えました。
「イスファハーンは世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と言われており、「北海道はでっかいどう」のようなものであったと考えられています。
なお、サファヴィー朝ではイランの君主号である「シャー」が使用されました。
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イスファハーンに遷都し、最盛期を築いた
《ユグノー戦争とオランダ独立戦争》
宗教改革が進んだ西ヨーロッパでは、改革により生まれた新教徒と旧教徒との間で宗教戦争が勃発するようになっていました。
「プロテスタント(新教徒)」と「カトリック(旧教徒)」という構図は単純なものではなく、プロテスタントには様々な宗派が存在しました。
・ルター派:ドイツが中心
・カルヴァン派:フランス、オランダ、イングランド
・国教会:イングランドが中心
カルヴァン派のことを、フランスではユグノー、ネーデルラント(オランダ)ではゴイセン、イングランドではピューリタンと呼びます。
フランスではユグノー戦争が発生し、血みどろの争いになった結果、ヴァロワ朝が断絶してブルボン朝となったことで収束しました。
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フランスのカトリックによるユグノー(カルヴァン派)虐殺事件
ネーデルラントはスペインに支配されており、スペイン王はカール5世の以後、ハプスブルク家世襲によるハプスブルク朝となっていました。
スペイン・ハプスブルク朝のフェリペ2世に対し、ネーデルラントのゴイセン(カルヴァン派)はオランダ独立戦争を起こし、1581年には独立宣言を出しました。
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これにより、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が建国されました。
これ以降、アムステルダムは国際金融と貿易の中心都市として繁栄していきます。
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《スペイン王国の盛衰》
スペイン王国は新大陸経営で繁栄し、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれます。
フェリペ2世は1571年に、レパントの海戦でオスマン帝国の無敗神話を破ることにも成功しました。
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しかし、オランダ独立戦争に加え、イングランドとのアルマダの海戦で無敵艦隊を喪失してしまったことで海上覇権を失い、以後は衰退していくことになります。
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実際には嵐による沈没が多数を占めた
《モスクワ大公国》
1453年に東ローマは滅びましたが、ローマの火はまだ途絶えていませんでした。
1472年、モンゴルのジョチ・ウルスの支配を受けていたモスクワ大公国において、大公イヴァン3世は滅んだ東ローマの皇族と結婚します。
これにより、都のモスクワは、ローマ、コンスタンティノープルを継承する「第三のローマ」と呼ばれるようになります。
こうして、ローマの血脈とギリシア正教は新たな展開を見せていくのです。
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1480年にはモンゴルからの独立を果たし、後のイヴァン4世の時代からは君主号として「ツァーリ」の使用を始めます。
ツァーリとは、「カエサル」に由来する称号です。
以後、モスクワ大公国は「ロシア・ツァーリ国」とも呼ばれるようになります。
《ピューリタン革命》
イングランドでは百年戦争の後、テューダー朝が成立し、ヘンリ8世やエリザベス1世を輩出していましたが、テューダー家も断絶してしまいます。
そうして、スコットランド王国との同君連合が成立することになり、スチュアート朝が誕生しました。
しかし、イングランド国教会とピューリタン(カルヴァン派)の対立の激化から、内乱へと発展していきます。
この内乱を「ピューリタン革命」と呼びます。
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議会派(貴族派)の王党派(国王派)に対する優勢が確定した
《三十年戦争》
ドイツにおいても宗教対立は収束しておらず、1618年にプロテスタントの反乱が起こり、それにプロテスタント諸国(英・蘭・デンマーク・スウェーデン)が介入したことで大戦争に発展しました。
この戦争は三十年続いたため、「三十年戦争」と呼びます。
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黄色:スペイン・ハプスブルク家
ピンク:プロテスタント派
この戦争は欧州の広範囲を巻き込んだ戦役であり、宗教戦争であると同時に欧州の覇権を決める戦争でもありました。
また、神聖ローマ皇帝に反発するドイツ諸侯の存在もあり、神聖ローマ帝国の内部崩壊を引き起こすことにもなります。
この戦争を決定づけたのは、カトリック国家フランスの、プロテスタント側での参戦でした。
フランスは宗教的動機より、政治的利益を優先した結果、欧州覇権のライバルである神聖ローマ皇帝のハプスブルク家を弱体化させる選択をしたのです。
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三十年戦争にプロテスタント側で参戦した
この戦争は長期にわたって行われたこともあり、常備軍および官僚制の整備が重要視されるようになりました。
《主権国家体制》
ペストの流行、価格革命、火砲による騎馬戦術の衰退などの結果、西ヨーロッパでは領主貴族の行政能力と権勢は格段に衰えました。
また、宗教改革を受けてローマ教会も以前ほどの影響力を持つことが出来なくなりました。
そうして、西ヨーロッパでは国王が行政権を中央主権化し、地方政府は外交権を持たない状態が構築されていきます。
そのうえで、中央政府が互いの国の内政に干渉せず、共通のルールを整備し、欧州の秩序を安定させる仕組みが作り上げられていきました。
このような国際情勢を「主権国家体制」と呼びます。
⑮清・ウェストファリア時代(1644~1789)
《ウェストファリア条約》
1648年、三十年戦争が終結を迎えました。
この大戦争の戦後処理として、ウェストファリア条約が締結されます。
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この条約において決定した重要項目を紹介します。
①プロテスタントの承認
②スイスとオランダの独立承認
③フランスがドイツからアルザス・ロレーヌ地方を獲得
④神聖ローマ帝国の諸侯(地方政府)はそれぞれが外交権を持つ
プロテスタントの承認は、戦争の発端となった宗教戦争の部分です。
そして、②~④は全てハプスブルク家の弱体化を図る内容です。
スイスとオランダはハプスブルク家の影響力の強い地域だったので、ハプスブルク家の力を削ぐ目的があります。
アルザス・ロレーヌとは、仏独国境の地域であり、農業にも鉱業にも適した土地であったために両国で紛争になっていた場所です。
アルザス・ロレーヌはフランス語であり、ドイツ語ではエルザス・ロートリンゲンとなります。
この条約で、各王家が管轄する地方政府の棲み分けがなされ、領土と国境が明確になりました。
しかし、神聖ローマ帝国においては条約により中央集権が禁止されたため、神聖ローマ皇帝の地位は有名無実化することになりました。
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諸侯による領邦がそれぞれ独立して主権を持つことになった
東側の黄土色部分は、神聖ローマ皇帝のオーストリア・ハプスブルク家の領地
そのため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれることがあります。
《ウェストファリア体制》
ウェストファリア条約において重要視されたのは、このような大戦争を引き起こさないような国際秩序の構築でした。
そのために行われたのが、領土の明確化、ルールの明確化、相互監視体制の確立です。
外交や戦争に関するルールのことを、「国際法」と呼びます。
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ヨーロッパ流の国際秩序の理論を創り上げた
ただし、当時はまだキリスト教文化圏の内輪ルールに過ぎません。
実際に、東アジアには「華夷秩序」という別種の「国際法」が存在していました。
また、複数国による相互監視体制のことを「勢力均衡」と呼びます。
ウェストファリア条約により以下の五大国による勢力均衡が整備されました。
・フランス王国
・神聖ローマ帝国
・スウェーデン王国
・イングランド王国
・ネーデルラント連邦共和国(オランダ)
このようなキリスト教世界の秩序を「ウェストファリア体制」と呼びます。
《英国と立憲君主政》
ピューリタン革命が起こっていたイングランドでは、国王が処刑される事態にまで発展し、王政から共和政へと移行していました。
共和政ではクロムウェルによる独裁化が進んだほか、オランダとの間に戦争が勃発しました。
この戦争を英蘭戦争と呼び、今後複数回にわたり発生します。
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結局、クロムウェルの死後は亡命していた王族が帰還し、スチュアート朝による王政復古が実現することになりました。
その後、国王と議会貴族の対立による無血クーデターが発生し、イングランドでは王権が法律によって制限される「立憲君主制」が確立されました。
この1688年のクーデターを「名誉革命」と呼びます。
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名誉革命を受けてイングランド王ウィリアム3世になる
オランダとイングランドは一時的に同君連合となった
また、イングランドはスコットランドを連合王国化し、更には既にウェールズの宗主権も獲得していたため、1707年に「グレート・ブリテン王国(大ブリテン王国)」が成立しました。
そして、この国は「連合王国(The United Kingdom)」と呼ばれます。
※以後、この国家のことを「英国」と表記します。
《ハノーヴァー朝と責任内閣制》
名誉革命の後の1714年にスチュアート朝が断絶すると、血縁のあるドイツ貴族のハノーヴァー家が王族として英国に迎えられます。
よって、これ以降をハノーヴァー朝と呼びます。
ハノーヴァー朝英国王となったジョージ1世でしたが、彼はドイツ貴族であったため英語を話せず、政務もほとんど行いませんでした。
そのため、国王の補佐機関が政務を代行するようになり、財政や内政、外交などの権限が移譲されていきました。
国王の補佐機関のことを、「内閣」と呼びます。
内閣は国王の代理として、議会で政策の説明をし、議員の質問に答えるようになりました。
議会にはいくつかの派閥があり、国王が一派閥のみから内閣を作るため、政党政治が生まれていました。
内閣で第一大蔵卿(財務大臣)を務めていたウォルポールは、ジョージ1世からの信任が厚かったため、「プライム・ミニスター(閣僚の第一人者)」と呼ばれるようになります。
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最初の英国首相と言われる
ウォルポールは政党の指導者でもあったため、議会への対応にも困っていませんでしたが、1742年には反対派が多数を占めることになります。
これを受け、ウォルポールは潔く辞任し、その後新たな内閣が組織されました。
ここに、「内閣は議会の多数派の代表が構成し、国王ではなく議会に対して責任を負う」という先例が生まれました。
このような体制を「責任内閣制」と呼びます。
そして、ウォルポールの「プライム・ミニスター(閣僚の第一人者)」という呼び名は、後に「内閣総理大臣(首相)」を意味するようになるのです。
《ロマノフ朝ロシア帝国》
東ローマから「ローマ」を継承したモスクワ大公国は、ツァーリ継承の内戦の後、ロマノフ家によって世襲されることになります。
したがって、これ以降はロマノフ朝となります。
ロマノフ朝において、最も偉大な人物とされるのがピョートル1世です。
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ピョートル1世は西ヨーロッパの技術や制度を積極的に導入しました。
また、1700年から発生したスウェーデンとの大北方戦争に勝利しバルト海の覇権を獲得します。
そして、自らの名を冠した首都サンクト・ペテルブルクを建設しました。
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彼の在位期間には、東アジアに成立した清との間にも1689年にネルチンスク条約が結ばれ、国境の画定が行われました。
なお、ピョートル1世は「インペラートル」の称号も冠しており、このことから「ピョートル大帝」とも呼ばれます。
また、このピョートル大帝以降を「ロシア帝国」と呼ぶことが多いです。
「インペラートル」はローマ帝国の「インぺラトル」が由来です。
《清とイエズス会》
1644年に明が滅亡していた東アジアでは、満州族(女真族)が再び台頭していました。
明の滅亡を受けて満州族は北京に入城し、彼らによる清が新たな中華統一王朝となります。
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ローマ教会では、プロテスタントに対抗するために、アジアやアメリカ大陸に布教する修道会が創設されました。
このカトリック修道会を「イエズス会」と呼びます。
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日本にカトリックを伝えた
イエズス会は清や日本にも宣教師の派遣活動を推進していましたが、日本では江戸幕府による鎖国政策が執られ、清でも布教への規制が時代を経るにつれ厳しくなりました。
清では四代皇帝として康熙帝が即位し、続く雍正帝、乾隆帝の時代は清の全盛期を創り上げました。
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台湾・ジュンガル・チベットを制圧
ロシアとの間にネルチンスク条約を締結した
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キリスト教の布教を禁止した
なお、清の皇帝は遊牧民に対する支配も強めており、中央アジアにまで進出する大帝国となります。
そのため、漢民族にとっては中華皇帝ですが、満州人にとってはハン、モンゴル人にとっては大ハーンなど、様々な民族をそれぞれの文化で統治していました。
更には、チベット仏教やイスラームの保護者としての側面もありました。
《ムガル帝国の斜陽》
インドのムガル帝国では、アウラングゼーブにより最大版図が創出されていました。
しかし、彼はヒンドゥー教徒などの非ムスリムに対して、厳しい政策を執っていきます。
それにより、ムガル帝国は崩壊へと向かっていくのでした。
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《植民活動と黒人奴隷貿易》
勢力均衡によりあヨーロッパ本国で睨み合いが続く中、各国は海外植民地への競争へと目標を移します。
アメリカ大陸については、衰退したスペインが保有する中南米に代わって、英仏蘭が北米進出を激化させました。
オランダによりニューアムステルダムが建設されましたが、英蘭戦争の結果、イングランドに引き渡され、ニューヨークとなりました。
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青:フランス
緑:スペイン
紫:ポルトガル
茶:ロシア
植民地でヨーロッパ人は先住民(ネイティブ・アメリカン)に強制労働をさせていましたが、感染症などで労働力が不足すると、アフリカから黒人奴隷を供給するようになります。
そして、このような奴隷供給権を「アシエント」と呼びます。
アジア方面では、当初は新航路開拓が目的でしたが、徐々に原材料の採れる土地を直接占領して支配する方針へと変化していきます。
オランダとイングランドが東南アジアを巡り対立しましたが、1623年のアンボイナ事件を受け、東南アジアはオランダの勢力圏となりました。
以降、イングランドはインドへの進出を加速させていき、フランスとの争いが過熱していきます。
《ルイ14世と英国の三角貿易》
ウェストファリア条約で多くの利益を得たフランスでは、太陽王と呼ばれたルイ14世により、「絶対王政」とも呼ばれる中央集権体制が構築されていました。
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ルイ14世の時代にはヴェルサイユ宮殿が造営され、またスペインの王位を巡るスペイン継承戦争が勃発しました。
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これにより、スペイン・ブルボン朝が誕生した一方、スペインが所有していたアシエント(奴隷供給権)は英国に譲渡されることになります。
アシエントの獲得以降、英国は大西洋三角貿易と呼ばれる大規模な黒人奴隷貿易により、巨万の富を蓄えていきました。
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この流れに従って、三角貿易が形成された
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ヨーロッパ→西アフリカ:武器(西アフリカの戦争に使われる)
西アフリカ→アメリカ大陸:奴隷(敗戦した黒人奴隷が売却される)
アメリカ大陸→ヨーロッパ:砂糖・綿(奴隷による商品作物の生産)
《オーストリアとプロイセン》
ウェストファリア体制はフランス、神聖ローマ、スウェーデン、イングランド、オランダの五頭体制で成り立っていました。
しかし、オーストリアにおいてマリア・テレジアが台頭する1740年以降、この五頭体制は新たな局面を迎えていきます。
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実質的な「女帝」として君臨した
オランダが英蘭戦争で衰退し、スウェーデンは大北方戦争で衰退、神聖ローマも諸侯の纏まりを保てずに有名無実化しました。
それに対し、イングランドはグレートブリテン王国となり、大北方戦争に勝利したロシア帝国も台頭しています。
更に、神聖ローマ帝国の諸侯では、皇帝を世襲するオーストリアのハプスブルク家と、ドイツ騎士団をルーツとする選帝侯のプロイセン王国が台頭していました。
こうして、ウェストファリア体制は新たな五頭体制へと移行しました。
・フランス王国(ブルボン朝)
・オーストリア帝国(ハプスブルク朝/神聖ローマ皇帝)
・グレートブリテン王国(スチュアート朝→ハノーヴァー朝)
・ロシア帝国(ロマノフ朝/東ローマ皇帝継承)
・プロイセン王国(ホーエンツォレルン朝)
オーストリアのマリア・テレジアは、長年の宿敵であったフランスとの同盟を行いました。
これは、長く対立していたハプスブルク家とブルボン家が同盟したという衝撃から、「外交革命」と呼ばれます。
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オーストリアとプロイセンが対立状態にある
そして、犬猿の仲だったフランスとオーストリアが同盟を締結した
その延長線上として、娘のマリー・アントワネットがフランスのルイ16世に嫁ぐことになりました。
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オーストリアの出身であった
《自然科学と政治経済思想》
この時代のヨーロッパでは、ニュートンによる万有引力の法則、ラヴォワジェによる質量保存の法則、ジェンナーによる種痘法など、様々な自然科学分野の発展がみられました。
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また、グロティウスの『戦争と平和の法』、ロックの『統治二論』、ルソーの『社会契約論』、アダム・スミスの『諸国民の富』など、政治経済分野での理論構築も進みました。
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《英国の財政難とアメリカ独立戦争》
清の乾隆帝の時代、英国は紅茶による貿易赤字に苦しみ、「アヘン」という麻薬を密輸し始めました。
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清の最大版図を築いた
また英国は、北米やインドを巡るフランスとの戦争にも多額の戦費を使っており、戦争には勝利したものの、財政難に陥っていました。
なお、海外植民地を巡る英仏の対立を「第二次英仏百年戦争」と呼ぶことがあります。
そのため、英国は北米植民地に対して課税を掛ける動きを強めていき、アメリカ大陸で生活している英国人はこれに対し反発しました。
こうして発生したのがアメリカ独立戦争です。
英国本国とアメリカ植民地の英国人との間で決定的対立が生じ、1776年にはアメリカ独立宣言が採択されました。
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この戦争に対し、フランスやスペイン、オランダなどは英国と対立していたため植民地側で参戦、ロシアも植民地側を支援したため、独立は成功しました。
そして、大西洋沿岸の13州によりアメリカ合衆国が建国されました。
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《アメリカ合衆国と共和政ローマ》
アメリカ合衆国の建国後、植民地軍総司令官のジョージ・ワシントンは、その職を辞任しました。
ワシントンが自らの軍事力を放棄したことで、アメリカ合衆国では文民統制が形作られていきます。
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アメリカ独立後、初代アメリカ大統領となる
アメリカ合衆国は君主のいない政体、すなわち「共和政」を建国の理念としました。
そして、彼らが建国において理想としたのが、共和政ローマだったのです。
アメリカ合衆国では、ローマの「元老院」が取り入れられました。
日本ではこれを上院と呼びます。
アメリカ合衆国では、任期4年の大統領制という制度が考案されました。
大統領は議会に対する拒否権を持っており、この権利は共和政ローマにおいては「ヴェトー」と呼ばれる極めて強力なものでした。
1787年、アメリカ合衆国憲法が制定され、初代大統領にはワシントンが就任しました。
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大統領と、選挙王制の君主には大きな違いはありません。
特に大統領が絶対的な信任を得ている場合には、任期など簡単に無くせてしまいます。
実際に、アメリカ議会の有力者の多くは、ワシントンが君主になることを想定していました。
世襲により、私的な利益を追求する独裁者となるか。
それとも、アメリカ国民の代表として公共の利益を追求するか。
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人類史上初の大統領となったワシントンは、ついに独裁者にはならなかったのです。
その事実は、アメリカ大統領の在り方、そしてアメリカという国家の在り方を決定づけたのでした。
アメリカ合衆国が手本とした共和政ローマにおいて、軍事的英雄となったカエサルは独裁者となり、そしてローマは帝政へと移行しました。
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アメリカ合衆国は、共和政ローマが冒した失敗を徹底的に学んだことで、世界初の近代的共和制国家として、現在までその政体を維持し続けています。
そして、歴史から学んだがゆえに、アメリカは21世紀の覇権国となる道を歩み始めるのです。
全ての道はローマに通ず。
現在世界に存在する、あらゆる国家の法律や制度は、共和政ローマから脈々と受け継がれているのです。