意思ってそんなに意味ないんですかね。


例えば、誰かを助けたいと思いながらも傷つけてしまった人と、誰かを傷つけたいと思いながらも助けてしまった人がいたとして。

その時、どっちが正しいんだろう。善と呼べるのだろう。

私たちは見えてるものしか視えてないし聞いているものしか聴こえない。つまり自分の感じたことを感じてる。その人の行為は見えるけど、心なんて見えない。

だから誰かがあなたをとても嫌っていてもそれを感じさせなければ、あなたにとってその人はただの友人として感じられるんだ。

逆にあなたを愛している人がいても、それを見せられなければその人はただの友人のまま。

意思の元の言葉。言葉の元の行動。意思がなければなにも始まらないのだろうか。

意思、心?これはなんなのだろうか。こういうことを考えている私は、この”思考”という現象はなんなのだろうか。思考は、言うなれば脳の電気信号による物理現象だ。しかしそれにしてはあまりにも無力だしあまりにも強力だ。

私が考えている。考えているから私の周りの物事は少しずつ影響されて少しだけど変化する。なにかが見えるか見えないかという違い。それは大きな違いだと、ずっと思っていたけれど…

心さえ見えれば、私たちはこんなにも苦しまなくても良かったのかもしれない。思考が行動なら良かった。多分、人間以外の動物はそうだ。偶然にも言葉を持ってしまった我々人類は、身体を支配する思考という心を嘘で隠せるようになってしまった。


言葉は人を救うか?それとも殺すのか?言葉は意思の元に生まれるのか?


誰かを救いたいと願いながらも、また私の今日は過ぎ去った。

誰かを傷つけたいと思いながらも行動に移していない人と、私はなにが違うんだろう。

高尚な意思を抱えていることで自分を慰めていても本質的には誰ともなにも変わらない。自分は特別だ、という自己暗示。カッコ悪すぎる。

私の意思に、願いに意味はないのだろうか。それはおそらく死ぬ前にしかわからない。

がんばるよ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。 あなたの心に何か残れば幸いです。