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 第ゼロ章 バイアスという厄介な代物~ ある非モテ男たる小役人の遺言としての経済政策論 ~

 この記事をクリックした皆さんはそもそもなんで「経済政策論」を語るうえで「バイアスという厄介な代物」なんてものを読まなきゃならんのだと思うだろう。そういう人はとりあえず「第2章」から読んでもらいたい。そして気になったら戻ってきてもらいたい。

 経済政策論、すなわち「分配の問題を含めた経世在民論」を語るうえでは、基本的には自分の背景を語らないとそもそも語る際にどのようなバイアスがかかっているのかがわからない。

 そのような経済政策論は経済を語るうえで重要らしい「冷静な頭脳と温かい心lのうちの「温かい心」(ともすれば「感情」なるもの)のありか(これを「バイアス」ともいう)がわからない。

 バイアスのない議論は大概何も論じていないに等しく、人類の経済に何も貢献しない無味乾燥たる数字の上昇のみを扱うことになりがちである。

 となると、「経済」すなわち「経世在民」(読んで字のごとく、世の中を経営して「民」(別に国民でも市民でも世界民衆でも何でもいい)をあるべき姿にすること。)を論じていないということになる。

 つまり無意味である。
 
 一方、バイアスがかかった経済政策は一方の正義のみを主張することになり、プロパガンダとなりがちである。
 
 特に、「分配の問題」を扱う「経世在民」を語るうえで特定の連中の利益を促進していることになる。すなわち利益誘導である。
 
 バイアスがかからずになおかつ心の温かい経済政策論がありますよと言ってくる奴がいる。

 そういうやつはたいてい詐欺である。

 メディアの報道を見ればよくわかる。
 
 不偏不党だの公平だのと言っておきながら自分の都合のいい事実のみを拾っている。

 つまりバイアスがかかっていないといいながらバイアスがかかった報道をしているのだから詐欺である。

 当たり前だがSNSで自分は公平な立場からといいながら意見してくる奴がいたら当然詐欺であるため、最初から「利益誘導です」といっていたほうがいい。

 よって、バイアスがかかれば利益誘導であり、かからなければ無意味であり、バイアスがかかっていないと自称しているものは詐欺である。
 
 実にろくでもない。

 じゃあそんなもの論じるのやめちまえというが、なんでどいつもこいつも経済政策論(経世在民)を論じたがるかといえば、そもそも分配を考える必要がある程度にはありとあらゆるものが「有限」であり、かつ人間の欲望は常にそれを超えるため、どいつもこいつも必死になって奪ったり奪われないようにしたりするのである。

 たとえば、なぜ領土をめぐる戦争が起こるかといえば、領土が足りないからであり、そこから生まれるいろいろな「カネになるような物資」が足りないからである。(カネというものは何かということ自体まあいろいろあるが、とりあえず今のところは「仕組み上みんなが欲しがるようになっているもの。」とでもしておく。)

 SNSで日々非生産的な男女論が戦わされたりするのも、「我こそは道徳的である」という欲望を満たしたいからであったり「自己顕示欲」を満たしたいからである。

 筆者もカネは欲しく、自己顕示欲の塊であり、道徳的であると多少は思われたい人間である。そういう凡俗が経済政策論を論じたければ「自分はこういう人間ですよ」ということを言っておけばまあ「こういうバイアスがかかったやつだ」という読みはしやすくなるだろうということで、筆者の半生を先に書いてみる。

 そんなこともあり、経済政策論を論じてみるわけだが、バイアスという厄介な代物がどこにあるかを「あらかじめ示しておく」ために、まずは自分の半生を振り返ってみることにする。