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容姿
本日、YouTuberのそわさんのInstagramの投稿を読みました。
13時間前とかいてあったので、2024年3月5日の投稿です。
その投稿を読んでいて、涙がでてきました。
容姿。
私たちは人間で
人間には体といういれ物があって
いれ物にはそれぞれのかたちがあります。
小さく、大きく、短く、長く、低く、高く
細く、太く、さまざまな違い
そして、可愛く、美しく、醜い、そんな評価があります。
世の中には、
可愛いもの、
美しいものが溢れています
可愛くないとされるもの
美しくないとされるもの
醜いとされるものが非難されます。
私自身も、自分の容姿というものが好きではありません。
もっとこうだったら良かったのにと思うこともあります。
なんで、そう思うのだろう?と考えました。
世の中は、こうしたら可愛くなる!こうしたら痩せる!の情報が多い
実際、容姿が世間の可愛い、美しいに沿ったものになれば、こんなに人からの対応が違うであったり、服が楽しめるようになるそうです。
容姿に振り回されます。
可愛さ、美しさの基準に振り回されるのです。
街を普通に歩くことさえ、できなくなるほどに。
街を歩いているだけで、喋っているだけで、食べているだけで、選んでいるだけで、そこにいるだけで人は人を評価し採点しているのでしょう。
そこに幸せの基準があるかのように。
体型であったり容姿であったりの言葉は、蓄積毒のように自身に積もっていきます。
人からのこうした方がいいよ、もっと気にした方がいいよ、が呪いの言葉として、私の中に生きているんだろうなぁ。
だから、今日も世間から良しとされていない自分のパーツを私は良しとしてあげることができないんだ。
野菜だって、見た目の善し悪しで選ばれます。
同じ味なのに。
人間は同じ味ではないかもしれないけれど、見た目の善し悪しを大切にされます。
生きづらいなぁ。
人が人を生きづらくさせているんだろうなぁ。
ただ、なんでなんだろうなぁ、とぼんやりそう思います。
自信をもって!だとか
みんなそれぞれ美しさをもってる!だとか
すでにあなたは最高の人!だとか
そのようにあまり考えることはできそうにないけれど
心無い言葉への怒り・悲しみ、かといえば、そういうことではないのだけれど
悪意のような、善意のような、善意と見せかけた悪意のような、悪意と見せかけた善意のような、言葉たちがするっと無意識に無自覚に紡がれる世の中なんだなぁ、とただそう思います。
自分自身ことが好きか、と問われれば
あまり好きな方ではないと答えるかもしれません
でも、私はただ1人きりの私の自分の良さも悪さというものもまだまだ見つけきれていないし、見つめきれてもいません。
なのでこれからもいい塩梅でやっていけたらいいなぁとは思います。
みなさまもいい塩梅が見つかりますように。