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アート作品にはどのようにタイトルをつけるのか、アートの鑑賞について

みなさまおはようございます。
4410ARTの宍戸竜二です。
https://www.4410art.net/

今日は作品につけるタイトルについて、わたしがどのようにつけているのか、その辺りを書いてみようかと思います。

アート作品にはそれぞれタイトルというものが必ずあります。
題名ですね。
作家として制作を始めたての頃は、どこか気恥ずかしかったり、考えるのが億劫でどうしても「nontitle」としてしまいがちです。
新人作家さんなどにはよく見るブランクタイトルです。
しかしそれはとてももったいないことだなと思います。

かといってなんでもいいからつければいいというわけでもありません。
逆効果というものもあります。
よくあるタイトルでとても非常にもったいないのは、例えばりんごの素敵な静物画を描いたとして、それなのに
タイトル「りんご」
などとしてしまうことです。
せっかくの想いで描いたアートを、自らタイトルで説明してしまう。
そのビジュアルに引き込まれようとする心の動きを完全に阻害してしまいます、これ以上この世界に入ってほしくない、そのような思いにも受け取れてしまいます。
作品をタイトルで説明するのは一番残念だなと思うことであります。


私は、僕は、ビジュアルだけでその世界に引き込める力があると思うので、そのような意味でタイトルなどいらない。
と思う作家さんもいらっしゃるのかと思うのですが、ビジュアルで引き込みきれない「心のひだ」
というものがあるとわたしは考えております。
わたしはまだデビュー前からタイトルについてはしっかりと時間を使い考えてきました。
タイトルをつけるときは必ず、その絵を描いた時、その絵の中に自分がいるとした時、その絵を自分が見た時、
自分の思考のもっと奥の心の奥にある小さな動きやインスピレーション、その辺りをとても慎重に探ります。
その時に思い浮かぶインスピレーションをうまく捕まえて、それを言葉にし、タイトルとします。


この作品のタイトルは
「ある夏休みの朝に考えたこと」
No.La-022「ある夏休みの朝に考えたこと」ジクレープリント額装 L size

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そしてもう一つ、作品に対しては小さなストーリーをつけています。

《 ストーリー 》
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✦ある夏休みの朝に考えたこと

今日は友達と、海岸のそばの大きな松の木がたくさん生えている公園へ遊びに行こうと約束をしていた。
朝早く冷蔵庫を開け、お母さんには内緒で僕は自分でお弁当を詰めた。
卵焼きが3切れあって、あとは白いご飯にふりかけをかけた。
お母さんが作ったおかかとゴマがたっぷり入ったふりかけ。
そのお弁当をいつもの青いリュックサックに詰めて僕は家を出た。

近所の小さく盛り上がった土を集めた場所で待ち合わせた。
友達は少しだけ早足で歩いてきて、斜めに水筒を下げていた。
「やあ」
そう言った友達の表情はいつもとは少し違って、真剣な目をしていた。
「行こう」
そう言った僕の声は自分でも違う誰かの声のようだった。

僕らは小走りで公園へ向かった。
川に沿った道を歩き、神社の鳥居をくぐり、壁に彫刻のある家の角を曲がった。海岸はもうすぐだった。
大きな国道を渡らなければならなくて、歩道橋を渡った。歩道橋の上からは、もう既に海岸の波打ち際も見えるくらい近くて、僕の胸は高まった。

僕らは一気に階段を降り、いつもの細い道から公園に向かった。
見上げると、もうすぐそこに大きな松の木が見えていた。
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これがわたしがこの絵を描く時に思い描いた記憶のような情景です。
タイトルは、この絵を味わいながら、この世界に自分入ってみたり、または実際に自分の目でこの絵を鑑賞したり、その時に起こる心の内側の感覚を少しでも多く感じていきます。
そこで生まれる感覚を言葉にし、タイトルとしていきます。

ストーリーはフィクションでして、こんな風にリアルな光景が思い浮かぶわけではありません。
小さな断片を捕まえ、その小さな感覚のイメージを膨らまし、言葉にしていきます。
そのイメージを膨らませるという感覚は連想というのではなく、あくまでもその感覚からさらにインスピレーション、直観を感じていく。ということです。
しかし直観は適当なものではなく、一番自分の本心が隠れている大事な要素です。
そここそが人の真実だと思っています。




それでは、アートを鑑賞する人の側では何が起こるのか。それを解説していきます。
見る人ごとにアートの鑑賞方法はあると思いますが、こんなアートの鑑賞方法もある。という一つの方法としての意味で読んでいただければ幸いです。

自分が「ん?」と思った感覚が起きたアートの前に足を止めた時、そこで自分の内側では何が起こるのか。
その足を止めたという事実は、そのアートが何かした自分の忘れていた記憶の蓋をノックした。という意味でもあります。
その時、アートを見ながら、自分の胸の中の感覚など身体感覚に耳をすませながら、内側から湧いてくるインスピレーションを捉えます。
そのインスピレーションからはおそらく小さい頃など遠く昔の記憶が蘇ることが一番よく起きる現象だと思います。


そのように、アートには小さい頃などの忘れてしまった記憶などを読み起こさせる力がありますので、その辺りどのような記憶が蘇るのか、自分の胸の中の感情や身体感覚などを繊細に読み取ります。
その風景から感じられた想いは、自分の抱えきれないネガティブな苦しさを今の自分と統合してくれます。
統合というとわかりにくいかもしれませんが、解釈が変わる。と言った方がわかりやすいでしょうか。


どうしても今まで拭いきれなかった、抱えきれないネガティブな思い。
どうしてか、人とうまく接することができない、
どうしてか、仲良くなると自分から離れようとしてしまう。
どうしてか、他人から言われる共通の辛い言葉がある。
そのように原因はわからないけれど、自分を苦しめる現実を一つや二つは誰もが体験しているのではないでしょうか。


それは自分でも忘れてしまった記憶の中にその原因が隠されていたりすることがあります。
例えば、小さい頃いつも親にあんな言葉を言われ続けていた。
小さい頃親にこんな風にしなさいとしつけられていた。
などと、それらが自分が納得できないことであっても、徐々にそのような影響を受け続けると、いつの間にかそれを自分の価値観として自我を形成していってしまう。
それらも親が自分にかけてくれた愛情であることは確かなことなのですが、それが自分らしく生きていくことを阻害してしまうことは多々あるのです。


今は忘れてしまったけれど、その小さい頃親から受けたプログラムが今でも動いてしまっていて、
そのプログラムが、自分の価値をないものとしてしまったり、自分は何もできないと思い込んでしまっていたり。
するとその思いを反映させた現実を作り続けてしまうということが起こってきます。
そのプログラムは止めたくてもなかなか止めれません。
人はそいうして大人になっても自分の中の役に立たない信じ込みによって苦しみを作っていく。


しかし、アートによって、その小さい頃の原風景を思い出し、親から受けたその自分らしさを削ってしまうやり取りよりも、もっと楽しかった親とのできごとを思い出したり、忘れていた楽しかった記憶などを思い出したり、改めて小さい頃の自分の人生をやり直す。そのようなことができるのです。
すると自分の中に、ああ自分は親から愛されていたんだ、自分はあんなことやこんなことをして幸せだったんだな。という記憶を上書きできるのです。
その時自分の心の中を観察すると、胸の奥の方に、暖かいじんわりとする感覚が味わえるはずです。


そのように自分が心を奪われるアートに出会えれば、それは自分の力では到底降りていかれないような心の奥深くにまで降りていかれます。そしてタイトルがその作家がその作品を描く時に、自分の心と寄り添ったタイトルであれば、さらに奥深くの自分の記憶まで連れて行ってくれます。
そうしてアートを使い、自分の中の生き直しが行われたりするのはとても良くある話であります。



アートは自分の美術の技術を振る舞う場ではなく、人の心を動かす、これがアートだと思うのです。
人の心の問題を解決する最強のツール。それがアートの真髄だとわたしは思っています。


そしてわたしはもう一つ、作品に対して小さなストーリーをつけています。
これは単なる余興ではありますが、私はより、アートを見ていただく人に自分の心の奥まで旅をして欲しいと強く思っています。


この絵や言葉たちがどこまであなたの心の奥を見せてくれるのか、それは見たあなただけが経験できる素晴らしい体験です。
ショップには100点以上のアートがございます。
ぜひ自分だけの一枚のアートを探してみてはいかがでしょうか。
https://www.4410art.net/

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宍戸竜二
イラストレーターと塗装店勤務と二足のわらじ+気ままな執筆をしております。サポート頂けたものは全て大事に制作へと注ぎます!