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傘を閉じる

あゝ、もしかしたら、私は無価値ではないのかもしれない。ひとつの反応が私の心を、私の根本的な部分を、こうして揺さぶるとは。自分が空虚であるという確認作業を繰り返す日々。このまま尽きてしまえばどれだけ幸運か。時間が過ぎていくことへの焦りは凍結を求めていた。24年をカプセルに入れて、可能性を残したままで、希望がまだ見えるうちに、終わらせることを。

文章を書いていると、自分が正しい道にいると錯覚する。実のところは単なる現実逃避で、消えゆく可能性と弱る光を見るのが怖いだけだ。目を背け続けた末に錆びついたそれらを見て、「ほら、もう手遅れだよ」と私は言うだろう。

呟きと共に物語の幕が閉じることはなく、そのまま人生は続行する。本のように、夢の終りを告げる奥付が現れることもない。ページ数の明かされない本。そう考えると私は参ってしまう。

人間というキャリアに就いてしばらく経つ。色々と学ぶし目も肥える。良いものとあまり良くないものの見分けもつくようになる。完璧主義がいちばん完璧から程遠いこともわかった。でもまだそれで失敗する。人生が長いことを忘れてしまう。

短期集中的に没入することは効率が良いが、立ち止まっても全てが無くなる訳じゃない。好きなことなら、また出会う時がくる。がっかりしなくても大丈夫。もう私の中に種は埋められているのだから。

たとえば、文章が枯れてしまう時がくる。かつては降りしきる大粒の雨の中、ビニール傘の縁から滴り落ちる雨垂れを眺めていたというのに、今ではすっかり天井が渇いてしまった。雲なんて見当たらないし別に空も青くない。どうしようもないのだ。このどうしようもなさを描写することのほか、できることは何ひとつない。静かに傘を閉じて、遠く耳を澄ませるだけ。


ー2022年3月11日、14日の日記から

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