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縁木求魚同好会 ※BL/R18※

⒈樹上の魚

 栃木名産の丸夕顔ふくべじみた乳房ちぶさが、五五型の有機EL画面にゆれにゆれている。AV女優の煽情せんじょう的な騎乗位よりも、秋津あきつろくは先輩たちが気になった。半裸の男四人は、ぼんやりと口をあけたり、見せつけるようにあれをしごいたりしている。いや、それよりも、柳澤やなぎさわ蒼樹そうじゅが気になる。十帖のフローリングのすみ、蒼樹だけは服を着こんだまま小さくなっていた。ときおり、みんなの持ちものにちらちらと目を走らせる。ゲイなのか? と陸は思った。
「柳澤、ノリわりいぞ。見られたら恥ずかしいようなモンなのかよ」
 部屋の主である、三年生の名執なとりがせせら笑った。ほかの連中がバカうけした。蒼樹は膝をかかえて、そっぽを向くばかり。
 おもむろに名執が立ちあがり、蒼樹を羽交い絞めにする。四年生の石井いしいが手を貸して、蒼樹をシングルベッドへ放り投げた。完全に悪ノリだ。蒼樹は抵抗するも、二年生の深原ふかはら倉橋くらはしも加わり、寄ってたかって蒼樹のチノパンとブリーフをおろす。陸はつい覗いてしまった。股間の並サイズのそれはえていた。蒼樹の涙声。
「ほんま堪忍してください!」
「野郎のちんこ見てどうすんすか。みみみちゃんのおっぱい見ましょうよ。そういうの、いじめっていうんっすよ。先輩、かっこ悪いっすよ」
 陸はいった。一年生に意見され、名執は眉を動かした。その頬のニキビが若さを示してはいるものの、貫禄はまるで三十代だった。陸は固唾を飲んだ。名執は鷹揚おうようにいう。
「そうだな、粗チン見てもしょうがねえよな」
 名執がベッドを離れると、ほかの連中もしらけたようだった。陸はベッドを這って、蒼樹のブリーフを引きあげてやった。
「大丈夫?」
 蒼樹はチノパンをはいて体育座りした。小さな子みたいに、こっくりとうなずく。テレビばかり青白い薄闇に、双つの目が潤んで光る。にわかに胸の引き攣れるような痛みをおぼえ、陸は――まっすぐ恋に落ちた。

 横浜国立大学工学部第二食堂、通称ニショク。陸のバイトは十七時からだ。秋のフェア第二弾の目玉は、丼コーナーは秋サバ丼、麵コーナーは旨辛担々麵だった。
 棺桶になりそうな巨大な寸胴に、満杯の熱湯。小さな手鍋で、小ぶりの寸胴へお湯を移す。胸の名札にやなぎさわ・・・・・、蒼樹が茹でと湯切り担当だった。冷凍麵を専用の茹でかご(計九つ)に入れ、機械を押しこむと設定時間で熱湯に沈み、自動的に茹でてくれる。ふつうは麵一玉(半玉×二)、大盛りなら一玉半(半玉×三)。ラーメン・うどん・そばの茹で時間は一二〇秒だが、パスタは三〇秒。そのときの注文状況で時間設定を変えたり、茹であがりの時間差を考慮する必要がある。
 胸の名札にあきつ・・・、陸はトッピングと接客担当だった。札を受けとり、スープを調合し、蒼樹から麵をもらい、各種トッピングして、お客の学生たちに営業スマイルで提供する。
 学生たちの注文はすべからくかたよりがちだった。旨辛担々麵を連続で注文される。担々麵ばかりなら担々麵ばかりでいいものを、たまにカルボナーラ大盛りなど注文してくる変わり者がいて、変則的対応を求められる。二人はしゃがんで立って回って駆けて、ひとときも止まらない。そのうちオリンピックの新種目に採用されるかもしれない。寸胴と麵茹で機のお湯の熱気もあいまって、秋だろうが冬だろうが汗だくだ。
 ほうれん草とメンマが底を尽きそうだった。頼みのトランシーバーは電池切れなのか電波不良で、蒼樹が厨房へ走った。そのあいだにも続々とお客は押し寄せる。陸は茹でと湯切りもこなしつつトッピングと接客もする。絶対に笑顔が引きつってる、と思った。
「順番前後して申し訳ございません」
 丁重に断りを入れ、陸はカルボナーラ大盛りをお客に手渡した。待たされた担々麵の男子学生が、麵の沈んだ丼を指さす。
「おれのラーメン伸びん?」
「申し訳ございません。メンマとほうれん草、ただいまお持ちしますので、もう少々お待ちを」
「メンマもほうれん草もいらん。チャーシュー多めに乗せて」
 陸は迷ったものの、チャーシューを三枚追加し提供した。その学生は、パスタ用の粉チーズを、赤いスープが真っ白になるほどかけた。タダだからって限度があんだろボケ! 陸は胸のうちで悪態をついた。
 ラストオーダーは十九時半だった。駆けこみの客を笑顔でさばききり、陸はほっとため息をついた。残った食材を、日持ちするものは作業台の下の冷蔵室にしまい、そうでないものは四十五リットルのゴミ袋に放りこむ。丼コーナーの残飯ロスも一緒に捨てる。袋は生きているように温かい。秤に乗せる。八キロ、とファイルの表に記入する。コールドビュッフェは五キロ、ホットビュッフェは十キロ。もったいねー、と陸はいつも思う。
 蒼樹は麵茹で機を分解し洗っていた。昼から数百食分を茹でたそれはデンプンでぬめぬめだ。
「とうぶん麵類みたない」
「だな」
 陸も同意した。レジの望月もちづきさんがホールで声を張る。
「六五八!」
 夜の六百人台は並の客足だった。これが試験や論文の時期となると、二百三百ほど上乗せされる。望月さんはカウンターにやってきた。
「チャーシューしか載ってない担々麵が来たけど、あれは誰なの?」
「すいません、おれです」
 陸は正直に申告し、トッピングを切らし、お客に急かされたことを説明した。おばちゃんはいう。
「秋津くんは一年生だからまだ慣れてないんだろうけど、商品の単価が変わってきちゃうから、そういうのはナシね。お客さまにも、きちんと説明してね」
 すいません、気をつけます、と陸は頭をさげた。蒼樹がきこえよがしにいう。
「ただレジ打っとうだけの人にいわれてもな」
 望月さんの眉間に深いしわがきざまれた。すいません、と陸は再び頭をさげた。
 バックヤードの廊下で陸と蒼樹は着替えた。男子の更衣室は狭い。蒼樹は制服のシャツを洗濯袋に放りこむ。アンダーシャツの薄い胸。
「ロク、映画みる?」
「そんなに観ないけど、『ショーシャンクの空に』とかは好き」
「映画いこうや」
「デートに映画館は向かないんだよ」
「え?」
「ふたり別々にスクリーンを眺めるだけだろ。体験を共有するとはいいがたい。どうせなら釣りかキャンプがいい」
「いや、そもそもデートちゃう」
「あらゆる人間関係は恋愛だ。思うか思われるか思わないか思われないか。よって、おれにとっては全部デートなの。おわかり?」
 陸はびしっと指さした。性的指向をカムアウトこそしていないが、おのれの感性を曲げる気はさらさらなかった。蒼樹は首をひねる。
「わかるようでわからん」
「んで、おれと釣り堀デートする気ある?」
「釣り堀か」
 蒼樹はつぶやいた。名執がやってきた。食器洗い場の白ビニールエプロンに白長靴。
「秋津。土曜の飲み、来るよな?」
 行きます、と即答しながら、めんどくせえ、と陸は思った。名執は意地悪くいう。
「柳澤も呼んでやってもいいぜ」
「べつにええです、呼んでくれへんで」
 蒼樹はぶっきらぼうにいった。こいつはどうも建前と本音の使い分けが下手なのだ。
「人がせっかく誘ってんのに」
 仏頂づらの名執は割増しでオヤジくさかった。陸は相棒を指さす。
「ほら、蒼ちゃんはツンデレなんで」
 名執はバカうけした。蒼樹は心外そうだ。
「デレたことないけど」
「こんどふたりっきりのときにね♡」
 陸はウインクした。名執は呼吸困難に陥った。

 秋の風。住宅街の坂の上の釣り堀は、一時間八〇〇円だった。看板上の風見鶏が――いや、鯉の形なので風見うおだろうか――不気味に鳴く。不等辺多角形の堀の水は植物プランクトン色だ。コンクリの堀サイドの縁台で、陸は練りをちぎった。蒼樹がいう。
「釣り、好きなん?」
「いや、初めて」
「えぇ?」
「いっぺんしたかったのよ」
 やり方はYouTubeで学習ずみだ。よく練りこんで団子にしてからはりにかけ、さらに固める。蒼樹も見真似した。陸はレンタルのノベ竿を振ってキャスティングした。緑色の水に立つ赤い浮子うき。陸は口笛を吹く。
「こういうのって、ビギナーズラックあるだろ」
 十分、二十分……陸も蒼樹もアタリが来なかった。陸はあくびした。
「魚いないんじゃね?」
「あのおじさんは釣っとうもん」
 堀のむかいの鶴髪かくはつの紳士は、何匹目かの釣果を網袋フラシに入れていた。網ごしに灰色のうろこがたゆたう。蒼樹はいう。
「魚に初心者オーラ悟られとったりして」
「あれっ、引いてね?」
 蒼樹の浮子がぴくぴくとゆれて、沈む。え、え、え、と蒼樹はカオナシっぽくあわてて、仕掛けを寄せた。しかし、鈎には何もついていなかった。
「くそっ、エサだけ持ってかれた」
「沈んだら、すぐあげなきゃだめだな」
 魚の食いつきと、こちらの寄せるタイミングの合わせが難しかった。試行錯誤するうちに、ようやく陸が一匹を釣りあげた。三十センチほどの鯉が水面みなもで跳ねた。大物だ。たぶん、並サイズだけど、気分的に大物だ。蒼樹がたも網で獲物をすくった。二人はハイタッチした。
 一時間で陸の釣果は三匹、蒼樹は二匹だった。陸は水中のフラシで跳ねる五匹の鯉を動画撮影し、Twitterにあげた。大漁・・
 竿その他のレンタル品を返すとき、店主のおじさんがうまい棒をくれた。陸はコンポタ味、蒼樹はめんたい味。高校生にまちがわれたかな、と陸は思ったが、二人は遠慮なくもらった。蒼樹は頬笑んだ。
「意外と楽しかったな」
 陸はうなずいた。「ここで腕を磨いてさ、最終的に川や海で釣らね?」
「ほな、道具そろえな」
「シフト増やそうかな、おれ」
 二人はうまい棒をかじりつつ、風の坂をくだった。

 居酒屋チェーンの座敷の一画。教育学部の女子が五人、陸たち経済学部&工学部の男も五人。つまり、合コンだった。きいてないんだけど、と蒼樹がささやいた。陸だってそうだった。
「この柳澤は童貞くんなんで、よろしく頼むわ」
 名執がにやにやといった。合コンなのを伏せたのは、このためだったらしい。女子たちがドン引きしたのがわかった。童貞いじりなんて感性が平成・・だ。蒼樹はあからさまにむっとしている。陸はため息をついて、ウーロン茶のストローを吸った。
「それ、おれの」
 蒼樹がいった。あっ、ごめん、と陸はいった。わお、間接チューだ。
「おれのあげるから」
「飲みかけやんか」
「蒼樹って潔癖?」
 蒼樹は黙りこんで、陸のウーロン茶のストローをはずして飲んだ。悲しかった。
「ねえ、入江いりえくんに似てるっていわれない?」
 キャラメル色の髪の子が蒼樹にいった。あとで調べたら、入江洸平こうへいTeenberryティーンベリーの専属メンズモデルだった(ちょっと似ていた)。その子がいう。
「わたし、横浜が地元なの。父は美術商をしていて。柳澤くんは?」
「実家は神戸の酒蔵さかぐらです」
「じゃあ、将来はお家を継ぐの?」
「考えてないですね」
 蒼樹はそっけなかった。その子は蒼樹を標的に絞ったらしく、となりに陣どってあれこれ世話を焼きだした。蒼樹は顔を赤くして、だがうれしそうではなかった。
 名執は別の子に対し、実家の財力PR(山梨の宝飾店で、資本金は三億円、各界のセレブもよく利用する知る人ぞ知るハイジュエリーブランドで……うんぬん)を展開した。金で釣れると思っていることがそもそも失礼だ。だが、相手の子は前のめりになった。性欲と金銭欲のマッチング。陸は山盛りの鶏のから揚げをむしゃむしゃ食った。陸の家は、ただのサラリーマン家庭だった。
 陸の経験は、高校時代つきあった他校の女子ひとり。友達の友達だった。恋人らしいことのひととおりはこなしたが、受験期になると関係は自然消滅した。セックスしたあとで、何を話せばいいのかわからなかった。
 二次会の誘いを、陸はやんわりと断った。女の子と連絡手段を交換できなかったのは陸だけ。蒼樹も二次会は参加しなかった。宵の駅までの道、陸はいう。
「よかったな、モテモテで」
「べつに」
 蒼樹はそっけなくいった。
「好みじゃなかった?」
「いや、可愛い子ぉやったけど」
「けど?」
 うん、と蒼樹はうつむいて、答えなかった。秋の夜風が男の前髪を散らす。
「蒼樹、もしかして好きな子いる?」
「おらんよ」
 蒼樹の顔は目に見えて暗くなる。その表情の理由が気になって、陸は言葉を重ねた。
「好きだった子は?」
「忘れた」
 蒼樹は投げやりにいった。過去の恋で痛手を負ったのだろうか?
「ロクはおんの?」
「絶賛片想い中」
「ほうか」
 蒼樹は興味なさげだった。さみしかった。
 もし仮に蒼樹がゲイでも、陸を恋愛対象として好きかというのは、また別の問題だった。陸はぼやく。
「木にりてうおを求む」
「何それ?」
「木によじ登っても魚はいないぞ、ってこと」
「あたりまえやん」
 蒼樹はいった。陸は天をあおいだ。月も星もない都会の夜空だった。
 あーあ。

 入江洸平主演の深夜ドラマを、つい見てしまった。荒唐無稽な学園ラブコメ。でも、洸平くんだけはかっこいい、と陸は思った。ふとした瞬間の上目づかいや流し目が、蒼樹に似ていた。
 陸は検索した。洸平くんの画像を、片っぱしから保存していく。何やってるんだろうな、おれ。
 そういえば、蒼樹の写真ってないな。こんど撮らせてもらおう。陸はベッドに横たわった。有機ELの洸平くんを眺めて、目をつむった。浮かんでくる、潤んだ目と、並サイズのあれ。陸は枕を抱きしめ、悶えた。
 うおーっ、誰かどうにかしてくれ!

 冬の始まる週末、陸と蒼樹は風の坂をのぼった。釣り堀の店主のおじさんとは、すっかり顔なじみだった。たった二人の釣り同好会。堀サイドで陸はいう。
漁獲ぎょかくの少ないやつがおごりな」
「おお」
 心得た顔で蒼樹は竿を構えた。少しだけ離れて、それぞれ糸を水面に垂らす。釣れても釣れなくても、陸は蒼樹といられるだけでうれしかった。
 竿を握ったまま、陸はiPhoneを構えた。蒼樹は気づいてない。連写はシャッター音が小さい。三度、四度と撮影したけれど、ばれなかった。陸は満足した。
 三時間で陸が七匹、蒼樹が十匹だった。陸は気持ちよくおごってやった。おじさんはうまい棒をくれた。陸がサラミ味、蒼樹がたこやき味。
「あの子とは、どうよ?」
 駄菓子をかじりつつ陸はきいた。蒼樹はぽかんとしてから、ああ、というふうにうなずいた。
「べつに。しばらくLINEやりとりしたけど、もうなんもいうてこぉへん」
「トーク見ていい?」
 蒼樹は無警戒にiPhoneをよこした。弘中・・可乃・・というトークルームの更新は、十日以上前。相手は積極的なのに、蒼樹に会話をふくらませる気がまるでなかった。陸は可乃かのに同情した。
「おまえな、こんな塩対応じゃ、ふられるに決まってんだろ」
 蒼樹は困り顔をするばかりだった。
「あ、もしかしてこっち?」
 陸は顎に手の甲を添えた。オネエのジェスチャー。蒼樹は苦笑した。
「おれは乳あるほうがええな」
 力の抜けた口調だった。ああ、ゲイという線はないな、と思った。陸は茶化す。
「わー、蒼樹が、乳とかいったー」
 蒼樹は、ひどく悲しい顔をした。「人並みに性欲はあるよ。せやけど、つきおうてもしゃあないから」
「どうして?」
 蒼樹は答えなかった。うまい棒を二口で片づけた。

 冬のフェア第一弾の目玉は、丼コーナーは韓国料理の純豆腐スンドゥブ、麵コーナーは北海道バターラーメンだ。スンドゥブ三〇〇人前のために、陸は絹ごし豆腐一五〇丁を一つひとつ丁寧に四つ切りにした。カウンターの湯煎ゆせん機を利用し、豆腐とスープをあらかじめ加熱しておく。
 卒論の季節、夜の客足は平時の二割増しの七〇〇人台だった。丼コーナーへ来る学生たちの四割方がスンドゥブを注文した。専用の鉄鍋にスープを加え、IHヒーターで豆腐と豚肉を煮て、キムチと温泉玉子を乗せ、万能ネギを散らして提供する。下ごしらえや煮る時間のぶん、ほかの丼ものよりも手間がかかる。そのうえ鉄鍋の数にも限りがあった。陸は食器洗い場まで洗浄済みの鉄鍋を引きとりにいった。蒼樹に行かせなかったのは、洗い場で名執と顔を合わせたくないだろうという配慮からだ。
 だが、お客がさばけて、そろそろ……と陸が思ったとき、名執のほうから訪ねてきた。鉄鍋入りのステンレス籠を、湯煎機上のショーガラスに置く。鉄鍋を数個ずつ積みながらいう。
「秋津。釣り、始めたんだって?」
 陸は鉄鍋をカウンター内におろす。「え! どうして」
「ツイート見たぞ」
「フォローしてたんすか」
「渓流釣りつれてってやろうか。地元じゃよく釣ってたんだ」
 名執と行けば費用はタダだろう。だが、陸は嫌だった。最初に行く釣りは蒼樹と二人がよかった。
「なんかあんま向いてないみたいで。最近は行ってないんす」
「そっか、そりゃ残念」
 名執はあっさりといって、空の籠を手に洗い場へ帰る。蒼樹がいう。
「先輩になんかつれてかれたら、気ぃつこうて楽しめんよな」
「だよな」
 陸と蒼樹は笑った。いらっしゃいませ、と二人は声をそろえる。あ、と陸は漏らした。見おぼえあるキャラメル色の髪。弘中ひろなか可乃だった。むこうも驚いた顔。瞳もキャラメル色だ。
「ご注文はお決まりですか?」
 蒼樹がいった。初対面のような口ぶり。可乃の人相をおぼえていないのだ。可乃の顔がわずかにこわばる。陸は蒼樹を小突いた。
「何をかしこまってんだよ。ごめんね、弘中さん。こいつ鉄面皮っつうか朴念仁っつうか唐変木っつうか……」
「悪口が江戸時代やな」
 蒼樹がつっこんだ。可乃はほんのり笑った。陸は営業モードになる。
「スンドゥブが人気ですけど、今なら生姜焼き丼が出来立てでおいしいですよ」
「じゃあ、生姜焼き丼を大盛りで。それとお味噌汁」
 可乃は笑った。いい笑顔だ。かしこまりました、と応じつつ、大盛りかあ、と陸は思った。丼に定量のごはんとキャベツを盛って、生姜焼きをレードル一杯ぶん乗せて、マヨネーズをかけて万能ねぎを散らす。蒼樹が十リットルのスープジャーから味噌汁をくんだ。
 大盛りの丼とお椀を手に可乃が遠ざかってから、陸は低い声でいう。
「おまえさ、LINEやりとりした相手のことくらいおぼえてろよな」
「だって一回しか会うとらん」
 蒼樹は口を尖らせた。陸はため息をついた。一見やさしげなこの男は、意外と冷たいのかもしれなかった。

 春休みのまんなか、陸はレンタカーで遠出した。ハンドルを握るのは免許取得以来らしい蒼樹の運転はトリッキーというほかなく、助手席の陸は生きた心地がしなかった。駐車場に到着したときは、助かった……とため息がでた。
 渓流釣りが売りのキャンプ場だった。河原が十メートルごとに区分けされており、陸たちのサイトは下流寄りだ。二人は河原の石ころをよけて、レンタルの萌葱もえぎ色のテントを協力して張った。スリーブに蒼樹が通したポールを、陸が担いでテントを起ちあげた。フロアがぴんと張るよう、ピックを四十五度で打ちこむ。今夜の寝床の一丁あがりだ。
 帽子キャップに偏光グラス、ライフベストに長靴ニー・ブーツ――釣り装束の陸は、真新しいリール竿を手に口笛。四.五メートル、初心者でもあつかいやすい先調子だ。蒼樹がいう。
「それ、よう吹いとうけど、なんの曲?」
「サカナクションの『YES NO』」
 ああ、と蒼樹はうなずいた。「サカナクションて、どれきいてもおんなじやな。魚みたいに区別つかん」
「たしかにややこしいよな。とくにマス系は。アメマスの河川残留型がイワナで、イワナの降海型がアメマスで。ベニザケの河川残留型がヒメマスで、ヒメマスの降海型がベニザケで。サクラマスの河川残留型がヤマメで、ヤマメの降海型がサクラマスで。サツキマスの河川残留型がアマゴで……」
「おぼえる気ぃもせん」
「成長段階や地域によっても呼び名がちがってきたりな。とらえどころがなくて、ミステリアス。サカナ・・・クションって、そういこったろ。んでもって、サカナクションは徹夜明けにきくと最高なんだよ」
 へー、と蒼樹はきき流した。「ここ、何が釣れるん?」
「ヤマメとニジマス。養殖されて放流された咬ませうお。いわば釣り堀の川バージョンだよ」陸は仕掛けをチェックした。小魚型の疑似餌ルアーに一本鈎《シングル・フック》。「いつかほんまもんの大自然で野生の魚を釣りたいな」
「メコン川の大ナマズとか?」
 蒼樹も竿を準備する。陸はひゅうっと仕掛けをキャストした。YouTubeで学んだとおり、竿を立て、ゆっくりとリトリーブし、ルアーを泳がせる。ある釣り師はいっていた。関東の渓流釣りの解禁は三月だが、早春はまだ寒くて魚が動かない。梅雨は魚がスレる。夏は魚が水底に潜ってしまう。だから、川釣りのベストシーズンは四月五月だ、と。春の日差しは暖かく、だが川面かわもからの風は冷たかった。ひたすらキャストとリトリーブをくりかえすと、少年漫画のヒーロー修行でもしている気分だ。
 偏光グラスごしに、ルアーを魚が追ってくるのがくっきりと見えた。陸は気持ちがうわずって、リールを巻く手がこわばった。魚はくるりとUターンして、尾びれでルアーをぴしゃりとやった。陸は歯嚙みした。小賢こざかしいやつめ。
 となりのサイトに、どやどやと若い男の一団。知っている声。まさか、と思った。その、まさかだった。名執と深原と倉橋と、院生の石井。名執もすぐ気がついた。意地悪い笑みを浮かべる。
「向いてないんじゃなかったのか?」
「あ、いや、その……どうしても、って蒼樹がいうんで」
「はい、おれが無理いいました」
 蒼樹は調子を合わせた。名執は苦笑し、萌葱色のテントに目をやる。
「おまえら泊りか。おれらは日帰りなんだよ。気ぃ遣わなくていいぞ」
 気を遣うな・・・・・というのは、ようは気を遣え・・・・ということだった。
 陸は名執たちのかまどづくりを引き受けてやり、やつらの釣りあげた魚にくしを打った。火加減を見つつ蒼樹がぼそりという。
「気ぃ遣うなちゅうんやから、真ぁに受けたふりしたらよかったやんか」
「そうもいかないだろ。ニショクでやりづらくなる」
「おれ、きょう楽しみしとったのに」
 蒼樹はぷいっとそっぽを向いた。ガキっぽい態度が腹立たしくもあり、一方で今日この日を選んでしまったことが申し訳なくもあった。魚の油が火に落ちて、じゅうじゅうと煙をあげた。陸はむせこんだ。
 名執たちは夕方まで居座った。連中がさんざん食い散らかした後片づけまでやらされて、さすがに陸も閉口した。蒼樹は無の表情で手だけ動かした。
 夜釣りは禁止だった。日没までの少ない時間で、薄明りを頼りに釣った。陸は一匹、蒼樹は二匹だけ。串を打って、焚火であぶる。皮を剝いで、醤油をかけて、一匹ずつ食べた。余りの一匹は、蒼樹にゆずってやった。蒼樹は指を火傷しながら半分こにして、頭のほうを陸にくれた。こういうところはやさしいのだ。二人は淡白な魚肉を頬ばりつつ、目を見交わして笑った。
「こんどは名執がぜってえ来ねえとこ行こうぜ」
「ほんまもんの大自然な。メコン川とか」
 陸は笑った。「なんでメコン川?」
「ナマズの宝庫なんや。毎年のように新種が見つかるんやで。おまえ、いうとったやん。木に登って魚がなんちゃらて」
「木に縁りて魚を求む?」
「そう、それ。ナマズて木に登るんやて」
 陸はまばたきした。以前いったことを蒼樹がおぼえていたのが意外だった。
「どうして?」
「さあ。けど、ナマズて腹で這うて歩けるんよ。初めは上方にしかおらなんだのに、享保の水害に乗じて江戸に広まった。大正には北海道にまで上陸した。水海陸兼用で、どこへでも行ける。せやから、やつらは世界中におるんや。自由闊達、縦横無尽。んでもって、大地震を起こす」
「いや、それは迷信だろ」
 陸は笑った。キャンプ場に夜が来ていた。春の星座はぼんやりと淡かった。

 明け方の鳥の声。眠りと目覚めの狭間で、陸は股間の張りを感じた。朝勃ちだ。萌葱色のテントの外は薄明るかった。陸は暑いほどのシュラフをひらいて、下腹をぼりぼりと掻いてから、またうつらうつらする。
 股間を撫でる手の感触。夢かと思ったが、ぐいっとつかまれて現実だと悟った。陸は飛び起きた。蒼樹がさっと体を離す。沈黙にウグイスが鳴く。陸の声は裏返る。
「おまえ、そっちなの?」
「や、ちが、あの……ど、どんなもんや思て」
「どんなもんって?」
「……おれ、ずっと……その、勃たんで」
 消え入りそうな声。蒼樹はじわりとうつむいた。陸はまばたきする。
「勃たないって、インポってこと? いや、今はEDっつうのか」
 蒼樹はさらに下を向く。薄暗さで判然としないが、きっと顔は真っ赤だろう。名執の部屋でのAV観賞会のとき、人の持ちものを気にしていた蒼樹の姿を思いだす。萎えていた並サイズのあれも。あのとき、すでにEDだったのだろうか。
「ちょっと見してみ」
 えっ、と蒼樹は顔をあげた。「や、無理」
「ちんこ握ったろ。おれは高いんだぞ。はい、脱ぐ」
 相手に強くでられると拒めないタイプなのはわかっていた。蒼樹が泣きそうな顔でファスナーをさげるさまを、陸は凝視した。鼻息が荒くなるのを、意識して抑える。股間が痛いほどだった。
 蒼樹の並サイズのそれは、力なく垂れている。陸は両手でつつんだ。びくりと蒼樹が震えた。陸はやさしく刺激してみたが、やはり萎えたままだ。おれが相手だから勃たないんじゃないかと陸は一抹の不安をおぼえた。
「おまえの手ぇ、ぬくい」
 蒼樹の顔つきは穏やかだ。嫌がっているのではなさそうだった。陸は蒼樹の手を握った。白魚のように冷たい。
「手ぇ冷たいと、心はあったかいっていうけどな」
「迷信」
「ま、おれは心もホットだけどな」
 陸はにやりとした。蒼樹も笑った。陸はファスナーをさげた。
「見ていいよ」
 陸は冷たい手を、自身の股間へ導いた。手は熱いものにふれたように跳ねて、それから陸をそっと握りこんだ。
「硬い」
 驚きと興味の響き。蒼樹は無表情に、だが熱心にさわった。冷たい指。
「先っぽは、ふにゃっとしとうな」
「そこが硬かったら、相手が痛いだろ」
「あ、ほうか」蒼樹は手をひっこめた。泣くのをこらえたような目。「ええな、ロクは」
 せつなくなって、陸は蒼樹のあれにふれた。
「勃たなくても、気持ちはいいんだろ?」
 蒼樹はうなずく。陸は無言で揉みしだいた。さっきより張っている。けれど、挿入には強度がたりなそうだった。蒼樹の熱い吐息と、震える睫毛。この男を、どうにかしてしまいたくなる。陸は目を伏せて、指先の感覚だけに集中した。だんだんとぬるついてくる。
 蒼樹が呻いて、陸の手がどろりと濡れた。体液のぬくもりに胸がいっぱいになって、汚れた両手が潤んで見えた。
 蒼樹がザックを探った。ウエットティッシュを引きだす。怒ったような顔で陸の手をとって、丁寧にぬぐう。
「テキトーでいいよ」
「嫌や」
 蒼樹は意固地にいって、つぎのティッシュを引いた。陸にとっては今生こんじょうの思い出だったけれど、蒼樹にとっては単なる恥なのかもしれなかった。

⒉逃した鱗の光

 夏のフェア第一弾の目玉は、丼コーナーはタコライス、麵コーナーは冷やしチキンラーメンだった。秋津陸と柳澤蒼樹は昼のニショクの客の列に並んだ。蒼樹がいう。
「タコライスなんて原価やっすそうやな」
「写真より実物しょぼいしな」
 陸もうなずいた。二人は麵コーナーで冷やし・・・チキン・・・ラーメン・・・・ふだを置いた。昼のパートは近所の主婦が中心で、二人の知らない顔だ。胸の名札にうすい・・・白髪しらがのおばちゃんは金属のスコップで氷をすくって、麵冷却器に入れた。スイッチを入れると、噴泉ふんせんのように水が循環する。蒼樹はいう。
「おれ、夜のバイトなんですけど。氷のなかにそのスコップ入れとくのやめてくれますか。金属は熱伝導率高いから、氷が溶けてもったいないんで」
「そうなの、こんどからそうするね」
 うすいさんは固い笑顔をつくった。陸は小声で相棒にいう。
「もうちょいやさしめのいいかたをしようぜ」
「難しないやろ、小学校で習うやん」
「そうじゃなくてさ」
 あ、と蒼樹がいった。陸はふりかえった。キャラメル色の髪、弘中可乃は冷麵と大盛りの札を置いてから、二人に気づいた。三人はぎこちなく挨拶あいさつした。可乃がいう。
「冷やしチキンラーメンって、おいしいですか?」
 陸が答える。「きょう初めて食べるんで。でも、おれの勘だとうまいです」
「じゃあ、こんど頼んでみようっと」
「毎度ありがとうございます」
 陸はお辞儀した。可乃は笑った。お待たせしました、とうすいさんが蒸し鶏のたっぷり乗った冷やしラーメンを陸と蒼樹のトレイに置いた。可乃に会釈して、二人は先にレジへ向かった。
 二限目後、三五〇席のテーブルは、ほぼ満席だった。陸と蒼樹は二人で座れるところを探してうろついた。
 可乃が会計を終えて、やはりうろうろしていた。陸は話しかけた。
「混んでますね」
「はい、混んでますね」
 意味のない鸚鵡おうむ返しが、なんとなく心地よかった。蒼樹が指さした。向かい合わせで座れる席が空いたところだった。
 蒼樹と食べるつもりで、陸は座った。ところが、蒼樹は身ぶりで可乃に着席をうながした。可乃も身ぶりで遠慮したが、再度の蒼樹の勧めに結局は席についた。蒼樹は窓辺のカウンター席で背中を向けて、黙々と冷やしラーメンをすすった。陸と可乃は困り顔を見あわせた。陸は頭を掻いた。
「すいません。あいつ、コミュ障っぽくて」
「やさしいところもあったんですね」
 可乃はつぶやいた。この合席を不快には思っていないふうだ。陸は息を吸って、幼稚園児のように大きな声で手を合わせた。
「いただきますっ!」
「いただきます」
 可乃は噴きだしそうになりつつ真似した。いい子だった。初めてつきあった子に、少し似ていた。
 きっと、蒼樹は応援してくれるつもりなのだろう。可乃へのつぐないの意味も込めて。陸はせつなかった。陸と蒼樹の感情は、根本的にちがうのだ。
 蒼樹は五分でラーメンを平らげて、トレイを返却口へ運んでいた。

 油照り。陸はハンドタオルで汗をぬぐった。植物プランクトン色の釣り堀。看板上の風見魚が不気味に鳴く。陸と蒼樹は少しだけ離れて、それぞれ糸を水面に垂らす。釣り人が思うよりも魚は目も耳もいい。おしゃべりは厳禁だ。けれど、陸は話しかけた。
「その、そっちの具合は、その後どうなの?」
「そっち?」
「こっち」
 陸は腰の前で右の拳を構えた。ああ、というふうに蒼樹は苦笑した。
「どうもこうも、全然や」
「いつから勃たんの? 何かストレスになるようなことがあったとか……」
「ほうやのうて、最初から勃たん。勃つてどんな状態なんか、いまいちわからん」
 蒼樹は遠い目をした。陸が考えていたよりも事態は深刻そうだ。
「病院いった?」
「いや」
「恥ずかしいかもしんないけどさ、行ったほうがいいよ。案外あっさり解決するかも」
 せやな、と蒼樹はうなずいた。同じようなTシャツにジーンズという格好なのに、この男は汗ひとつかいていないふうに見えた。
 唐突に、近所んちの庭木でミンミンゼミが騒ぎだした。この夏一番乗りの蝉だ。鼓膜を打つ大音声だいおんじょう。蒼樹が片耳をふさぐ。
「じゃかあしい」
「嫁を探してんだ。大目に見てやれよ」
 陸は苦笑した。この男は、鳴けない蝉のようなものだろうか。悲しいほど透きとおったはね

 夏のフェア第三弾の目玉は、丼コーナーはうなとろ丼、麵コーナーは冷やし中華だった。前期試験期間、夜の客足は三割増しの八〇〇人台が続いていた。花火の夜じみた混雑に、冷房の効果は薄かった。額にじっとりと滲む汗を感じつつ、陸はひとときも手を止めずに客をさばいた。麵の注文の七割方が冷やし中華だった。蒼樹が麵冷却器で麵を締め、水切りしたものを丼で受け、できあいの中華スープをかけて、マニュアルどおりにトッピングする。ただでさえ忙しいのに、この冷やす工程が加わることで倍の時間がかかる。ときたまレギュラーメニューの温かい麵を頼むお客は、神様に見えた。
「痛った」
 蒼樹が叫んだ。陸は覗きこんだ。蒼樹の親指の爪が横に裂けていた。茹で籠にひっかけた、と蒼樹はいった。
「バンソコ貼ってこいよ」
「それどこちゃう」
 食堂の通路を津波のようにお客は押し寄せる。冷やし中華のスープが残り少なかった。蒼樹がトランシーバーで厨房に要請したものの、誰も応答しなかった。厨房もパニック状態なのかもしれない。ちょっと行ってくる、と蒼樹は駆けていった。
 陸は一人で客を相手した。蒼樹はなかなか戻らなかった。見かねた丼コーナーの深原がサポートに入ってくれた。何やってんだ、あいつ。陸はいらだった。
 一瞬、トランシーバーが通話状態になった。業務連絡ではない。男の怒鳴り声。トランシーバーをつけた全員がきいたはず。深原と陸は顔を見あわせた。陸は厨房へ走った。
 やめてー、とパートの若林わかばやしさんの悲鳴。厨房の床にホテルパンが散乱していた。蒼樹と名執がつかみあっている。仲裁しようとしたのか、倉橋が蒼樹を羽交い絞めにした。名執が蒼樹の腹を殴った。陸は割って入って倉橋に怒鳴る。
「バカ! でかいほうを止めなさいよ」
 四人で揉みあっているところに、店長が駆けつけた。さすがに名執と蒼樹もおとなしくなった。
「何があったの?」
 しかし、神保じんぼ店長の腰はひけ気味だった。バイト生は生協組員であると同時に、学生さん・・・・という保護者からの預かりものなのだ。名執がいう。
「こいつが先に殴ってきたんです」
「あんたが人をバカにするからやろっ、ダボ!」
 蒼樹は食ってかかった。喧嘩が再燃しそうな気配に、陸はさりげなく両者のあいだに立った。トランシーバーに深原のせっぱ詰まった声。
『至急、至急! 冷やし中華のスープが切れましたっ‼』
 とにかくお客を待たせるわけにいかず、事情聴取はラストオーダー後に改めてということになった。仕事のあいだ、ときおり蒼樹は腹を押さえていた。
「九三九!」
 ラストオーダー後に、望月さんが声を張った。

 結論からいうと、先に手をだした蒼樹が悪者になった。店長は丸く収めたかったようだが、パートのおばちゃんたちが黙っていなかった。名執はニショクのマルチプレイヤーで、おばちゃんたちのアイドルだ。まるで針のむしろで、蒼樹は逃げるようにニショクを辞めた。
 階段教室のまんなか、長机に突っ伏した蒼樹の寝顔。先週から新たに倉庫管理のバイトを始めたという。だが、もともと体力のあるほうではない。すっかり困憊こんぱいし、授業中もこのありさまだ。陸はため息をついて、せめて自分だけでもまじめに板書を写そうとPCのキーを叩いた。あとで蒼樹に見せてやらないと。
 二限目終業のチャイムが鳴っても、蒼樹は目を覚まさなかった。生徒はまもなく出払って、遠くざわめいた。陸はPCをたたんで、頬づえをついた。息を詰めて、眠る男を見つめる。右の親指の絆創膏。
 そんな爪をしてるから童貞なんだ、と名執はいったのだという。爪を伸ばしていた蒼樹もよくなかった。けれど……。
 窓辺の夏の光がまぶしいのか、蒼樹はしかめつらだ。濃い眉と睫毛、かたちのいい鼻梁びりょう、色の薄い唇、わずかに覗いた濡れた前歯。陸は魅入られたようにiPhoneを握った。カメラを起動し、撮影ボタンを押した。シャッター音。
 蒼樹ががばりと身を起こした。目を擦りつつ睨む。
「撮っとうやろ」
「撮った」
「消せ」
「Twitterにさらしたりしない」
「ほうやのうて、おれが嫌や」
 蒼樹はiPhoneを奪った。写真のアプリをひらいて、撮影したての寝顔を削除する。蒼樹は眉をしかめた。
「なんか、おれの写真ようけあんですけど」
 去年から撮りためたものだった。教室で、校庭で、ニショクで、釣り堀で、キャンプ場で……。いつだってぜんぜん気づかなかったくせに。
「だって、蒼樹かっこいいじゃん」
「なんや、ホモか?」
「バイだけど?」
 腹立ちまぎれのカムアウトに、蒼樹は固まった。その目の奥を、さまざまな感情が流れたように思った。いつもの無表情で蒼樹は告げる。
「本人に無断で撮るんは、盗撮やぞ。ぜんぶ消すから」
「えぇっ」
「えぇっ、ちゃうわ」
 盗撮という点に関しては、反論の余地がなかった。蒼樹は容赦なく自分の画像をすべて削除した。入江洸平の写真ばかりが残った。蒼樹はいう。
「こいつ、誰?」
「洸平くん。Teenberryのモデル」
「こういうんが趣味なん?」
「おまえに似てたから」
 蒼樹は困り顔をした。陸は腹をくくった。
「勝手に撮ったのは、ごめん。もう一度いうけど、おれバイなのよ。おまえのこと好きだった。でも、おまえはおれを純粋に友達って考えてるのは理解してるよ。無理してくれとはいわない。おまえが嫌なら離れればいいし、そうじゃないなら続ければいい。それだけのこと」
 もし蒼樹が気味悪がったり茶化したりしたら、こちらから願下げだと思っていた。蒼樹はぽつんという。
「おまえと釣りすんの、好きやし」
 ああ、と思った。薄々わかっていた。蒼樹が好きなのは、けっして陸自身ではないのだ。泣きたいような気持ちを隠して、陸は頬笑んだ。
「釣り堀いこうぜ」

 臨海部の小さな美術館。可乃の目当ては、没後六〇周年を記念した北大路魯山人展だった。陸には書道も陶芸もさっぱりだったが、魯山人の書や器にはしみじみとした、だが、どこかきびしい美が感じられた。
「こういうの、わびさびっていうのかな」
「秋津くんは、わびさびを説明できる?」
 可乃に尋ねられて、陸は首を振った。キャラメル色の瞳で可乃は笑った。
「わたしも留学生の友達にきかれて、説明できなかったの。日本人なのに知らないの? って。ちょっと悔しくて、勉強したの。侘びしい、寂びしい、そういう落ちついた風情のことをいうの」
「ありがとう。いっこ賢くなった」
 可乃は頬笑んだ。「魯山人ってね、すごく可哀そうな生い立ちの人なの。魯山人は母親の不倫相手の子でね、それで父親が――魯山人にとっては義理の父だけど――抗議のために割腹自殺しちゃうの」
「いきなりハードな人生だね」
「そう、すごいハードモード。魯山人は生まれてすぐ里子にだされて――っていえばきこえはいいけど、ようは捨てられたのね――貧しい家を転々として、飯炊きや使い走りや丁稚でっち奉公ぼうこうに追いまわされて。大きくなってから母親に会いに行ったけど、母親のトメはすごく冷淡にあしらったの。魯山人は六回結婚したけど、ぜんぶ破綻はたんした。生まれた男の子二人も夭折わかじにしちゃって。可愛がってた娘も、大人になってから魯山人の骨董を勝手に持ちだしたりしたの。魯山人は激怒して勘当して、晩年の病床にも呼ばなかった。でもね、魯山人は家庭の愛情にすごく飢えていたのね。ホームドラマなんかの何気ない家族のシーンを見て、いつも号泣してたんだって」
「ただただ、すげえ可哀そう」
「そうだよね。でも、きっと、こういう芸術は、そういう役回りの人にしか創りだせなかったんだって思ったりするの」
「役回り」
「誰でも役目を持って生まれてくるの。その役目が終わらないと死ねないの。わたしにも、秋津くんにも、役目があるんだ。どんな役かは、まだわからないけどね」
「平凡な役でいいから、幸せなほうがいいな」
「わたしも」
 二人は笑った。可乃はいう。
「秋津くん。ロクって呼んでもいい?」
 ロク――蒼樹の声で呼ばれるその名を思った。陸は息を吸って、可乃の手をとった。展示の順路の終わりまで、二人は手を握っていた。可乃はあめふくんだように頬笑んだ。

 濁った波が、あらい砂浜を洗う。秋の湖畔、陸と蒼樹は竿を構えていた。ランダムな速さでリールを巻き、ルアーを泳がせる。魚は不規則な動きを好む、と釣り入門書にはあった。不規則な動きは、獲物が弱っていることを示すからだ。リールを巻きつつ、陸は相棒をうかがった。蒼樹の横顔は釣りに夢中だ。
 泊りで行こう、といいだしたのは蒼樹。意外だった。陸の性的指向も気持ちも知っているのに、危機感をおぼえないのだろうか。いや、おれのことなど、こいつはなんとも思っていないのか。意識しているのがバカバカしくなり、陸も純粋に釣りを楽しむことにした。
 魚がルアーを追ってきた。陸は興奮し手もとが狂った。竿の先がぶれて、ルアーがついっと素早く動いた。魚はあせったように食いついた。アタリだ。陸はリールを巻きあげた。勝負に勝ったよろこびと、釣れた魚への愛しさ。じたばたと暴れるブルーギルを鈎からはずして、小さな額をちろっと撫でてからリリースしてやった。同じ要領で、立てつづけに五匹も釣れた。陸は息を深くついた。
「なんかつかんだわ、おれ」
「やっとか」
 蒼樹はにやりと笑った。
 食いつくのはブラックバスやブルーギルばかり。北米原産の指定外来種だ。陸はいう。
「この湖は、もともと魚がいなかったんだってさ」
「ほな、こいつらも放流か。大自然ちゃう」
「今どき、人の手の入ってない自然なんて、ほぼねえよ。しょうがねえって」
「メコン川に行くしかないな」
「ていうか、メコン川ってどこよ?」
「知らん」
「どうせメコン川も環境破壊が進んでるさ」
「けど、SDGsちゅうの? 地球温暖化防止のためにCO2削減いうけど、なんで温暖化したらあかんのやろ。環境が変化するなんて、あたりまえやんか。人間が住みにくなるからちゅうんはわかるよ。けど、人類が滅んで困るん、人間だけちゃうん? 恐竜みたいに人類が滅んだあとに、また別の生きものが栄えてけば、それはそれでええやん」
「ええやんっつわれても、ほかの大多数の人はええやんって思ってねえんだよ」
「結局、多数決なんや世の中は」
 蒼樹は無表情にリールを動かした。陸はいう。
「人類が滅んだとして、次に何が栄える?」
「ほうやな。海面上昇するし、魚の天下になるんちゃう? メコン川のナマズが」
「ナマズ推しか?」
「そのうちナマズが進化して、魚人類がでてきて。魚人類のおまえみたいなやつと、おれみたいなやつが、地上の生き残りの哺乳類をハンティングして、地球環境がどうちゃらこうちゃらいいだすんや」
「おまえ、SF作家んなったら?」
「星新一には敵わん。おっ、来た来た来た!」
 蒼樹は目をきらきらさせてリールを巻きあげた。陸は笑った。
「楽しそうで何より」

 今回の泊りはログハウスだった。二段ベッドの上に蒼樹が、下に陸が寝た。このおもてに蒼樹がいる、と思うだけで気もそぞろになる。今晩は眠れないかもしれない。陸は覚悟した。
 それでも目をとじてつらつらと瞑想めいそうしているうちに、つかのま眠ったようだった。ふと瞼をあげると、横から蒼樹が覗きこんでいた。間接照明のほの白さ。どうした? と陸は尋ねる。
「ちょお、端よって」
 いわれるままに陸は奥へと引っこんだ。蒼樹が柵を越えて、掛布団に転がった。ぎょっとした。布団一枚へだてて、蒼樹の重みを感じた。逃げようにも後ろは壁だ。陸は内心パニックだった。蒼樹はいう。
「あかんかったよ」
「あ?」
「原発性勃起障害いわれた。ようは奇形や。根本的治療には、手術しかないんやて。海綿体の中にバネの支柱を入れるんや。けど、バネ仕掛けのちんぽなんて、おれは嫌や」
「それ、いつのこと?」
「夏。病院ておまえにいわれてすぐ」
 蒼樹がニショクを辞める前だ。陸はわかった気がした。童貞、という名執に蒼樹が過剰に攻撃的になったのは、その宣告のせいだったのだ。蒼樹は睫毛を震わせて、かすれ声でいう。
「気分だけ味わいたい……んやけど」
 陸は息を飲んだ。「あの、おれ……」
「何?」
「いま彼女いるから、ごめん」
「もしかして、弘中さん?」
「うん、可乃だよ」
「ほうか……」
 蒼樹の目が潤んだかと思うと、ぼたぼたと大粒のしみが布団にできた。……ああ、この男を拒んではいけなかった。陸は掛布団を抜けでて、蒼樹を抱きすくめた。男にしては花奢な肩と、泣いているせいか高い体温。陸は勃起した。腰をひいて、つぶやく。
「なんか、ごめんな」
 蒼樹は泣いた顔を陸の胸にごしごしと擦りつけ、ぎゅっとしがみついた。
「彼女とやっとう?」
「まだだよ」
「まえの彼女とは?」
「何回か」
「ええなあ、いしこい」
 蒼樹は陸の股間を撫でて、ぐいっとつかんだ。陸は叫びそうになった。
「今の彼女ともやるんや?」
「まあ、いずれは」
「中学のとき、彼女できたんや。初めての彼女。手ぇつないで、キスして。でも、そこまでなんや。その子が次を期待しとうのが、わかるんよ。けど、死ぬほどしようても、どうにもできひんし。結局、その子は、ほかに好きな人できたいうて離れてった。おまえは、ええよな」
 蒼樹はぼろぼろと泣いた。髪を撫でて、陸はいう。
「あのな、蒼樹。たしかに、おまえは普通のセックスはできないよ。でも、愛したり愛されたりができないわけじゃねんだよ。その子だって、きちんと事情を話せば、理解してくれたかもしれないだろ」
「翌日に学校中が知っとう可能性もあったけどな」
「まあ、リスクはあるよな。でも、おまえがバカでもツンデレでもインポでもいいって子が、絶対いるからさ。だから、自棄やけになるなよ。おれがついててやるし」
 蒼樹は嗚咽おえつした。男が泣きやむまで、陸は根気強く背中をさすった。窓に晩秋の夜明けが来ていた。

 冬の街路樹の青い電飾。世間が大騒ぎするほどイルミネーションがきれいだとは陸は思えなかった。ただ寒々しくて噓くさい。けれど、可乃はiPhoneを通行人に渡して写真を依頼した。会社員風の初老紳士は、イルミネーションを背にした陸と可乃を撮影し、去っていった。メリークリスマース! と挨拶までして。
「いい人だったね」
 陸はうなずいて、キスした。可乃がしてほしそうだったから。
 高層ホテルのラウンジでフランス料理を食べて、そのまま下階の部屋へ。エレベーターの降下につれ、陸はうつむきがちになった。二人で計画した、納得ずくのことだった。どうして、こんなに気が重いのか。
 十二階の部屋の窓から、夜の港の光。可乃はまた写真を撮った。水が飲みたい、と陸は思った。
 キスするときも、服を脱がすときも、陸の頭のなかは醒めていた。昼のイルミネーションじみた寒々しさ。動いている自分も、応えている可乃も他人のようだった。蒼樹とのふれるだけの行為のほうが興奮したし、充足感があった。ああ、おれは……いや、ちがう。女を抱けないわけじゃないのだ。ほんの少し努力さえすれば。
 でも、陸はわかってしまった。そのほんの少しの努力が積み重なれば、いつか金属疲労のように自分は折れるだろう。おれは、バイじゃない。ゲイだ――気づいたとたん、涙が頬をくすぐった。
「ロク? どうしたの、大丈夫」
 不安げなキャラメル色の瞳。こんなにいい子なのに。陸は泣きながら頬笑んだ。可乃が望むような平凡な役・・・・は、自分には不可能だった。演じきれるならば、どんなによかっただろう。陸は頬笑みながら泣きつづけた。

 年が明けてから、学内で蒼樹を見かけなかった。まさか、大学まで辞めてしまったのだろうか。連絡にも応答がなかった。あいつはもう、おれに会う気はないのかもしれない。そう思えた。
 蒼樹から電話があったのは、春休みになってからだった。坂の上の釣り堀で、二人は落ちあった。看板上の風見魚が不気味に鳴く。いつものように陸と蒼樹は糸を水面に垂らした。
「徹夜明けにきいたら確かによかったわ、サカナクション」横顔のまま蒼樹はいった。「神戸の親父が、ステージフォーで余命三ヶ月とかいうから、つき添っとった。最後の親孝行のつもりで。やなさんの息子なら強いでしょういわれるけどな、親父は家では一杯飲むとべろべろなるんや。飲めへんくせに、商売のために、よそでは無理して」
「それで、お父さんは」
「葬式は、うちうちですませた。けど、親父としゃべりよううちに、気ぃ変わったんや。家業つぐことにした」
「大学は?」
「辞める。もう届けは教務課にだしてん。ほんで、結婚する」
 陸は竿をとり落としかけた。「だ、誰と?」
「親が決めた許嫁いいなずけみたいな、幼馴染がおる。妹みたいな感じやし、たぶん、うまくやれるよ。大丈夫」
 晩春の光のなか、蒼樹の横顔ははかなく見えた。陸はいいたかった。行くな、と。
 トウガラシ浮子がゆれて、沈んだ。蒼樹はすかさず合わせて、仕掛けを寄せた。四十センチを超える鯉がしぶきを撥ねあげる。正真正銘の大物だ。蒼樹はたも網で受けて、笑った。
「大丈夫や、きっと」
 陸は言葉を呑みこんだ。この男を引きとめる資格も覚悟も自分にはなかった。陸は九官鳥のようにうつろにいう。
「きっと、大丈夫だな」
 蒼樹は行ってしまった。春とともに。

⒊禁漁区の青に非ず

 三月はまだシーズンではない。秋津陸は釣竿片手にうろついた。実家そばの田園。用水路に、いい感じの流れこみ。いそうだ。陸はトップルアーを装着し、ちゃぷちゃぷと水につけてみた。いきなりしぶきがあがって、ぎょっとした。黒い魚影、ナマズだ。大きい。
 だが、手ごたえなくルアーが戻ってきた。鈎がうまくかかっていなかったのだ。あいつはもう釣れないな。陸はため息をついて、別のポイントを探した。
 下流の小さな橋の下だった。陸はトップルアーのまま、様子を探った。濁った水に、うっすら黒い魚影。しかし、反応がない。陸はソフトルアーにつけかえて、再び様子をうかがった。
 竿がしなって、水しぶきがあがる。アタリだ。だが、手ごたえが軽い。陸は寄せて、たも網ですくった。そのナマズは、十センチあるかないか。笑ってしまうほど小さかった。若魚だ。
 小さなナマズの額を、陸は撫でた。リリースしてやろうとして、左右に離れたつぶらな目と克ちあった。不釣り合いに長いヒゲ。よく見たら、可愛い顔をしているもんだ。
 陸はバケツに用水路の水をくんで、ナマズを沈めた。ゆらん、と漂って小さなナマズはヒゲを動かした。

 自分の送別会とはいえ、準備するのは陸自身だった。七面鳥の丸焼き、魚介類たっぷりのパエリア、宝石めくカットフルーツ、あとは食堂の残りものエトセトラ。陸はウエイターよろしく料理を席へ運んだ。学生バイトと、パートのおばちゃんたちが歓声をあげる。てんでお客さま気分だった。手伝ってくれたのは柏崎かしわざき店長と、パートの別役べつやくさんと、バイトの羽柴はしばさんだけ。
 陸はビール片手にマイクをつかんだ。「えー、このたび新年度から、わたくし秋津は神大じんだい生協食堂に異動となりました。ここほど大きな店舗ではないですが、一応は店長というあつかいです。……ありがとうございます。このニショクでの十二年間の恩と汗は忘れません。生協つながりで、また関わることもあるでしょう。さよならではなく、新たなはじまりです。それでは、わたくしの門出とニショクのみなさんの健康を祝して……」
 乾杯‼ と数十人の声がそろった。おばちゃんの代表として、ベテランの望月さんが明るい花束とプレゼントを陸に渡す。
「わたしたち、秋津くんの活躍を祈ってるから。あなたなら、どこへ行っても大丈夫よ」
 陸は涙腺に来てしまった。不覚。
 飲んで、食べて、しゃべって、また飲んだ。二次会でカラオケを歌って、また飲んだ。
 解散したときは深夜。人数は半分以下になっていた。
「あの、秋津さん」
 カラオケ店の外で、羽柴さんに声をかけられた。学生で唯一、最後まで残っていた。栗色のベリーショートが、陸が生まれる前に流行ったお猿のおもちゃに似ていた。羽柴さんは手づくりカバーのついた本を差しだした。
「秋津さん、釣りが趣味ってきいたから。この本、きっと楽しいと思うよ」
 ありがとう、と陸は受けとった。ロスマリン・フィッシャー『砂漠の釣り師』――翻訳物の小説のようだった。羽柴さんはまっすぐにいう。
「それで、わたし、秋津さんが好きでした」
 過去形の告白。薄々、そんな気はしていた。陸はうなずく。
「つたえてくれて、ありがとう。でも、おれ、ゲイなんだ」
 羽柴さんは頬笑んだ。「知ってる。彼氏いるんでしょ。パートさんが話してた。でも、いっておきたかっただけだから。神大でも元気でね」
 陸はまたしても涙腺に来てしまった。不覚。
 ひとり乗りこんだタクシーの後部座席。iPhoneの表示で、二十代の最後の日が過ぎてしまったことに気づいた。陸はひっそりと苦笑した。

 ドアをあけた。がらんとした暗いワンルーム。薄青い水槽に濾過ろか装置の泡。人工水草のあいだを稚魚や雑魚がすり抜ける。陸は電気をつけた。水槽の主は、飼い主の帰宅を察したらしい。素焼きの陶器の家から滑りでる、小さなナマズ。笑ったようなユーモラスな顔。頬の長いヒゲ一対と、顎の短いヒゲ一対がてんでに動く。陸は専用のエサを三粒落とした。ナマズは大きな口で、水面のエサを素早く食んだ。ふふ、と陸は頬笑んだ。
 本が歯抜け状態になった棚と、置き去りの趣味じゃないメンズコート。陸は見ないふりして、ウォーターベッドへ倒れこんだ。手探りでリモコンを拾って、テレビをつける。テロップばかり派手ばでしい深夜番組。
 サカナクションをiPhoneが奏でた。陸は顔をしかめ、応答した。
「はい。……あゞん? 知らねえよ。てめえが好きで乗りえたんだろうが。自業自得だろ。くたばれバーカ」
 通話を切った。初めての同性の恋人だった。五年つきあって、半同棲状態だった。けれど、相手に若い(同性の)愛人がいるのがわかった。修羅場の果てに、相手と荷物を追いだした。やれやれと思っていたら、戻りたいだなんていいだしやがる。くそったれ。
 相手をブロックし削除した。引っ越そう、と陸は決意した。そして、意識を失った。
 ふと気づくと、有機EL画面に知った顔がいた。柳澤蒼樹……いや、ちがう。入江洸平だ。近ごろ見かけないと思っていたが、演劇を中心に活躍しているらしかった。こんど、イギリス人作家のベストセラー小説の舞台化作品を演じるのだという。『砂漠の釣り師』――しくも、羽柴さんがくれた小説だった。ただ可愛いばかりだった十代のころよりも、いい顔になっていた。陸はうれしかった。
 最後に会った日の蒼樹を思った。光に消えそうな儚い横顔。あの春、蒼樹も陸も二十歳だった。若かった。浅はかだった。もし、あのとき、行くなといっていたら……いや、それでも結果は同じだっただろうか。
 蒼樹に会いたかった。会って、一つだけ確かめたかった。今、幸せか? と。もちろん、と三十歳の蒼樹が笑うなら、心の底の蒼樹の面影おもかげを手放せる気がした。

 となりの市の探偵事務所を訪れるのは、これで二度目だった。奥の応接室で、陸は写真に釘づけになった。新進・・気鋭の・・・イケメン・・・・蔵元・・杜氏・・! と題された雑誌の記事、作務衣さむえ姿の三十歳の蒼樹と、その三つ下の楚々そそとした妻。そして、その妻が、使用人の若い衆とラブホテルからでてくる写真。スーツの探偵はいう。
「ご覧のとおり、柳澤さんは妻の琴子ことこさんに浮気されています。ご本人が気づいているかは、現段階ではなんとも申せませんが。調査を続けますか?」
 やはり蒼樹のEDが原因なのだろうか。よそごととはいえ、陸は許せなかった。北大路魯山人の不幸な生い立ちを思いだした。もし、この妻にほかの男の子供ができたら……? 陸は顔をあげる。
「では、この写真を……」

 春の終わりの夕暮れ。部屋のベランダで、陸はタオルケットを干した。サカナクションをiPhoneが奏でた。息を飲んだ。ずっと消せなかった連絡先からだった。はい、と応答する。
『秋津?』柳澤蒼樹の声は、当時よりも低くなっていた。『近々、そっち行くんや。会えへん?』

 青い夕闇のなか、中ジョッキと中ジョッキがぶつかる。初夏の屋上ビアガーデン。白いジャケットを脱いだ蒼樹は、ビールを半分ほど飲み干した。大学生のころと同じ髪型のせいか、イメージが変わらなかった。けれど、もう大学生には見えず、それが不思議だった。浮かべた笑みに、大人特有の疲労感が滲む。
「おまえが店長なあ。出世したな」
「おまえこそ、賞をもらったんだってな。雑誌、読んだぞ。こんど飲ませてくれよ」
 全国新酒鑑評会――明治四十四年に第一回が開催された由緒ある大会は、いわば日本酒のコンテストだった。蒼樹の開発した酒は、一昨年の鑑評会で金賞を受け、翌年も受賞を重ねていた。
「ほう思て、持ってきとうよ」
 蒼樹は笑って、細長い紙袋を掲げた。一升瓶のサイズだった。
 ビアガーデンはそこそこに切りあげて、二人は陸の部屋へ向かった。途中、魚屋でマグロのぶつ切りを買った。
「散らかってるけど」
 荷造り中の段ボール。蒼樹はいう。
「引っ越すん?」
「新しい職場が遠くてさ」
 陸は苦笑した。恋愛が破綻したことは、いっても詮せんないだろう。
 蒼樹は水槽を覗きこんだ。陶器の家から、水槽の主の尾びれ。陸はいう。
「ナマズだよ」
「メコン川の?」
「まさか。栃木の用水路で釣ったんだ。なんか可愛くなっちゃって」
 陸は金魚鉢の雑魚を素手ですくって、水槽へ放った。陶器の家から滑りでたナマズは、小魚にかぶりついた。おののいたように蒼樹は見つめていた。
 ローテーブルに一升瓶が置かれた。魚水・・という酒だった。蒼樹が真っ青な琉球グラスに注ぐ。華やかさはなく、流行りの味でもない。けれど、すっきりとして、絹糸のような芯があった。どこまでも透明で、飲んだあとにキラキラとした余韻が残った。
「うまい」
「やろ?」蒼樹は誇らしげだった。「初めておれが造りよう酒が発酵はっこうしようときは気が気でなかった。よう見ようとタンクに顔つっこんで、えらいむせたりな。誰もおらん蔵で、酒しぼって、両手で猪口ちょこもったまま、動けんかった。匂いだけ嗅いだら、とくにインパクトも華やかさものうて、しぼりたてらしい香りものうて。これ大丈夫なん? てプレッシャーで飲めんかった。せやけど、いつまでもこうしようわけにいかんし。おそるおそるの一口や。ええ意味で地味で、おれらしい酒ができとう」
「うん。すごく、おまえらしい」
「たとえ同じ品種の米でも、生産者によって明確に味がちごうとる。一口に兵庫産山田錦ちゅうても、さまざまな味がある。産地よりも、誰がどんな思いでつくったんかが大きいんや。酒もおんなじや。けど、山田錦の生産者と話すと、品質が年々落ちとうちゅう声をよおきく」
「どうして?」
「地球温暖化や。今、世界的な気候変動の影響で、農作物の産地まで変動しとう。たとえば、イギリス南部では近年、フランスのシャンパーニュと肩を並べるほどのスパークリングワインが造られだした。温暖化でイギリス南部の昼夜の気温が上昇して、従来のシャンパーニュ地方ほどになったことで、高品質のブドウの栽培が可能になったんや。逆に、冷涼やったシャンパーニュ地方は平均気温の上昇で、ブドウ品質の確保に懸念が生じとう。同じことは日本でも起きとって、昔は北海道では酒造りは難しかったけど、今はたくさん日本酒が造られて、老舗の酒蔵が北海道に移転するようにもなっとう。うちの社は今、カーボンゼロ日本酒造りにとりくんどる。地球環境を守らんと、理想の酒造りが近い将来、不可能になってまうからや。それに環境に配慮した酒造りをせんと、これからは世界で勝負できひん」
 ああ、蒼樹は大人になってしまったのだな、と陸は思った。
 マグロをさかなに、二人は飲んだ。蒼樹は酒の仕込みの繊細さと、年嵩の蔵人くらびとを使う苦労を語った。妻の話はいっさいしなかった。陸はどうしても気になった。
「おまえ、その、うまくやれてるのか、奥さんと?」
 蒼樹の顔から笑みが失せた。その表情の変化が、すべてを物語っていた。陸は質問を後悔した。
 インターフォンが鳴った。嫌な予感がした。モニターを覗くと、追いだした元彼だった。陸は無言で席に戻った。
「どしたん?」
「なんかのセールスだ」
 再度、インターフォンが鳴る。三度、四度と鳴り、こんどはドアを叩く音が響いた。
「ロク、いるんだろ。あけろよ」
 ノックが執拗にくりかえされる。蒼樹のけげんな顔がいたたまれなかった。陸は腹をくくって、ドアを薄くあけた。元彼はドアを引きあけようとして、チェーンにはばまれた。玄関の男物の革靴を目ざとくめる。
「もう新しい男ひっぱりこんだのかよ。人のこといえねえじゃねえか」
 狭い部屋だ。蒼樹に丸ぎこえだろう。陸はこの場でドライアイスのように溶けて消えたかった。
「大学んときの友達だよ。てめえの腐れちんぽと一緒にすんじゃねえ。だいたい、おまえとは終わってんだよ。帰れ」
「ロク。おれがまちがってた。チャンスをくれ」
「裏切るやつは何度でも裏切るんだよ。帰らねえと通報すんぞ」
 陸はドアをしめて、鍵をかけた。通報という言葉が効いたのか、外は静かになった。震える手で陸は顔を覆って、ため息を深々とつく。
「大丈夫なん?」
 蒼樹が覗きこんでいた。陸は無理やりに笑った。
「なんか、ごめんな」
「せやから、引っ越すんや」
 蒼樹はぼそりといった。陸は否定もできず、うつむいた。蒼樹はいう。
「飲もうや」
 二人して席へ戻った。蒼樹は刺身を口に運び、陸は酒ばかりあおった。
「おれも離婚調停中でな」
 蒼樹がいった。そうか、と陸はうなずいた。きっと、探偵に匿名とくめいで送らせた写真のせいだ。あのときは不倫する妻への怒りが先走ったが、今は本当にこれでよかったのか自信がなかった。蒼樹の家庭を壊してしまった。嫉妬の感情が一滴もなかったといえるだろうか?
「どうして、て、きかんのやな」
 蒼樹の顔を、陸は見られなかった。
「あの写真、おまえやろ?」
 陸は唾液を飲みこんで、酒の味の唇をなめた。蒼樹はいびつに笑った。
「やっぱな。おまえ、昔から盗撮が趣味やったもんなあ」
 なじる響きに、陸は胸が詰まった。
「おれが役立たずでもええ、琴子はいうてくれたんや。その代わり、わたしが遊んでも、蒼ちゃんは大目に見てよね、ほかの人と遊んでも、遊びは遊び、わたしの旦那さまはあなただけ、て。世間からはそうは見えへんやろけど、おれらはうまくやっとった。けど、あの写真の封筒は、おふくろがあけたんや。蔵人らのまえで、写真を琴子に投げつけて。約束とちゃう、琴子は泣いとったよ」
 雨夜の木のように蒼樹は涙を流していた。陸はその場に三つ指ついて、額を床に擦りつけた。
「ごめん、ごめんなさい」
「謝っても許せん。なんで、よりによって、おまえが壊すんじゃ」
 蒼樹の拳が、背中を打った。陸は頭をあげなかった。甘んじて受けようと思った。蒼樹は殴って、殴って、殴って、蹴った。蹴った拍子に、派手に尻もちをついた。陸はおもてをあげた。蒼樹が頬を張った。次を覚悟して、陸は目をつむった。
 ばしゃりと水音がした、水槽から。次の瞬間、気味の悪い眩暈めまい……いや、地震だ。がら空きの棚から本が落ちる。陸はとっさに蒼樹をかかえこんだ。掛時計が床で音を立て、電池が転げた。このまま死ぬのか、と思った。不思議と安らかな気持ちだった。蒼樹と一緒なら……。
 ゆれが弱くなり、やんだ。陸は腕をほどいた。蒼樹は呆然とへたりこんでいる。陸は何もいわなかった。蒼樹はじっと床を見つめて、何かを拾いあげる。コンドームの空き袋。ぼそりという。
「なあ。ほんなにええんか、セックスて?」
 どう返事したものか。つかのま悩んで、陸はうなずく。
「うん」
「ほうかよ」
「でも、なかったら楽なのにとも思うよ」
「おれには、わからん」
 双つの潤んだ目。十二年前、恋に落ちた、その目。胸の引き攣れるような痛み。陸は再び、花奢な肩をやわらかく抱いた。
 肩をつかまれ、引きはがされた。蒼樹の顔が、ゆっくりと近づく。唇にしめった唇と、ぬるい舌。魚水の味がした。

 ウォーターベッドが静かに軋む。陸が押し入るとき、蒼樹は掠れた悲鳴をあげた。仰臥の腰をつかんで、やさしく突きあげる。とろりと絡む粘膜の熱。蒼樹は苦悶を浮かべて、切れ切れの息をした。萎えた並サイズのあれ、先端が潤んで糸を引く。陸はつかまえて、腰の動きに合わせて揉みしだいた。
「どう?」
 蒼樹は目をつむって、むずかるみたいにかぶりを振った。濡れた前歯。蒼樹の体を折りたたんで、陸はじっくりとキスする。蒼樹は子犬のように鼻音で鳴いた。
 突く角度を微妙に変えつつ、陸は反応を探る。蒼樹の腰が、かくんと跳ねた。アタリだ。その角度でしつこく擦りあげた。蒼樹の頬が紅潮して、目がゼラチンのようにとろける。ごまかせない嬌声の甘さ。さまよう腕を、陸は自分の首にかけた。
「……ろく、ロクぅ」
 耳もとで呼ばれ、陸は震えた。腰に溜まった熱があふれたとき、陸は男の名前を叫んだ。
 夜明け前、夜の最も深いとき。蒼樹の疲れた寝顔。朝になれば、この男は帰ってしまう。陸は男の手を握って、祈りのように思っている。けれど、今は、今だけは……。
 薄青い水槽の底、小さなナマズは笑ったような顔で陶器の家にはべっている。

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