見出し画像

「海へ」

 海へ向かう電車に乗っていた。アルミニウムの手すりに頬を寄せて、自分が手に入れた自由の冷たさを感じた。そのために引き換えにしたものたちを、窓の向こうにいくつも見つけた。家々の灯り。笑いあう親子。きっと作りかけの夕食の匂いが、換気扇から外へ流れている。
 それは私がずっと夢見てきたはずのものだった。けれど、結局手には入らなかった。人にはそれぞれ生まれ持った手のひらがあって、私の手のひらは小さくて、小石一つも捕らえておくことができないのだ。自分の手に入らないとわかった時、私はそれを投げ捨てた。
 結果がこれだ。着の身着のまま、預金通帳とハンドバッグだけ持って、電車の手すりを抱きしめている。携帯電話も解約して、予定の詰まった手帳も捨てて、大事な指輪も返してしまった。私は自分を泣かせてやりたかった。どうしておまえは、私を幸せにしてくれないの。けれど窓ガラスに映った私の顔は妙に落ち着いて、満ち足りていて、微笑みさえ浮かべているように見えた。

 子供の頃は、みんな理由があって生きているのだと思っていた。人生には何か、子供たちの知らない秘密の楽しみがあって、大人になればそれを享受できて、だから毎日がつまらなくても笑って生きていけるのだと思っていた。中学生になり、高校生になり、秘密を探し、秘密を暴いて、何も見つからなかった時、私は自分が大人になったことを知った。秘密の箱はからっぽで、からっぽであることが秘密だったのだ。

 私は電車の行く先を知らなかった。ただ海の方へ線路が続いているのを見て、ふらっと改札を通り抜け、階段の途中で急にベルが鳴って、気づいたら車両に飛び乗っていた。自動扉の上に掲げられた路線図は、遠くてよく見えない。そうだ、私は眼鏡も置いてきてしまった。
 車内に目を向けると、老人や学生たちでびっしり埋まっていた座席は、いつの間にか歯抜けになっていた。人と隣りあわない場所を選んで、小さな荷物を両手で抱えて座った。車両の揺れを体で感じるうちに、ほとんど自分自身のようになっていた重い重い疲れが、少しずつほどけていくのを感じた。もし、すっかりほどけてしまったら、私はこの世から消えてしまうんじゃなかろうか。そんなことを考えて、私は心の奥につくった小さな結び目をぎゅっと結び直した。まだ消えてしまいたくはなかった。
 外を流れる景色は、一斉に赤みを帯びはじめていた。海に着くころは、すっかり夜になるだろうと思った。

 海にはずっと憧れがあった。直接この目で見たことはあまりなかったけれど、頭のどこかでいつも波の音を聞いていた気がする。
 それは自由への憧れだったのかもしれない。父が自殺する前、いつも「海に行きたい」と言っていたことを覚えている。私と母は灰になった父を、遺言どおり海に撒いた。父はしばらく水にも溶け込めず、海面をゆらゆら揺れていたが、そのうちスクリューが起こす波に蹴立てられて散っていった。
 幾度かの裁判の末、過労が原因だったということになって、会社からはずいぶん慰謝料をもらったけれど、私は内心、会社のせいばかりではないと思っていた。たとえ他のどんな仕事をしていたとしても、父は結局いつか同じことをしていただろう。私や母といるときでさえ、父は早く逃げ出したくてたまらないような、落ち着かない顔をしていた。父が本当に安らいだ表情を見せたのは、電話機の上に掛けられた、水色のタペストリーを眺める時だけだった。
 母は最後までそのことに気がついていなかった。毎年父の命日になると、母はひどく落ち込んだ。
「大丈夫よ。私たち、もう二人でやっていけてるじゃない」
 背中をさすりながら、最初の年も、その次の年も私は同じことを言ったけれど、私の言葉は一度として彼女の助けにはならなくて、母の目からはぽつぽつ涙が落ちて止まらなかった。そのしずくは年ごとに一滴一滴、私の服に染み込んで、私は少しずつ、身動きがとれなくなっていった。

 寂しげな駅に停まったところで、しばらく待っても動き出す様子がないのを見て、私はやっと電車を降りた。
 ホームに出た途端、ぴゅっと夜風が吹き付けて髪を散らした。あちこち飛んでいく自分の毛をかき集めるうちに、鼻をつく潮の匂いに気付いて、私は指をほどき、風上に顔を向けた。放たれた髪は風に沿って、自然とまっすぐ後ろへ流れていった。
 暗闇の向こうに海を感じた途端、私は立ち止まっていられなくなっていた。足取りとともに、体も軽くなっていくような気がした。

 母が亡くなる前は、もしその時が来たら、やっと身軽になれるのかもしれないと想像していた。けれど、そうはならなかった。
 一人きりになった私は、もっと重い荷物を抱え込むことになった。何もしてあげられなかった後悔と、母一人分の欠落。欠落にさえ重みがあるということを、私はその時初めて知った。それらはきっと思い出や何かと同じように、生きていくかぎり降ろせない荷物なのだ。

 海には誰もいなかった。日が落ちて、吹き付ける風は涼しい。私は靴を脱いで、足の裏で砂の感触を確かめた。見上げると、すぐそこの防波堤の向こう側で、騒がしい立ち飲み屋がまだまだ音楽を流していたので、喧騒から遠ざかるようにしてずっと歩いていった。そのうち、音楽は聞こえなくなった。
 すっかり静かになった頃、私はふと立ち止まって沖を見つめた。黒々とした夜の海は、静けさの中でもどこか不穏で、眠りにつく巨大な動物の姿を思わせた。腹の皮をゆっくりと上下させながら、かすかな寝息を立てている。頬をつけてじっと耳を澄ませてみたら、心臓の鼓動が聞こえるだろうか。
(確かめてみればいいじゃない)
 波が爪先をなでていった。歩き出してからも、指先にまだ、生々しい感触が残っている気がした。

 幸福はいつも、触れられない遠くにあって、憧れるだけのものだった。けれど私はあきらめきれずに、何度も何度も手を伸ばし、その度に失望し、こうして逃げ出してきたのだ。今度こそ、存在しないものを探すのはやめようと、幻を追うのではなく、自分に与えられたものを愛さなくてはいけないと思いながら、私はまだ遠くを見つめる自分の瞳を動かすことが出来ずにいる。

 私はふと、浜辺を漂う自分の視線が、無意識に何かを探しているふうであることに気付いた。貝殻やごみの詰まったビニール袋を目で追って、これではないと目を逸らし、海を向き、また陸地を見る。私は何を探しているんだろうか。心当たりもないまま、ずっと歩き続けた。
 月がどんどん昇っていった。夜が更けていく。暗闇が濃くなっていく。帰り道が、見えなくなっていく。月を映した海面だけが、ぎらぎら輝きを増していった。
 私は何も探していないのかもしれない。ただ、陸へ戻らないために歩いているのかもしれない――そう思いかけた時、視界の端に灰色のものが見えた。それは岩陰にぽつんと横たわった、小さな舟だった。釣り用のものだろうか、ボートくらいの大きさの舟で、海を進むにはあまりに小さく見えたけれど、壊れてはいないようだった。
 舳先からだらり伸びた綱は、どこにもたどり着かぬまま砂の上で途切れていた。この舟は、どこにも繋がれていないのだ。

 私の瞳が見ていたものは、父が見ていたのと同じものだろうか。海の向こうに、彼は理想郷を見つけただろうか。ただ一つ言えるのは、今、私は再び一人っきりになって、誰かに縛られることもなく、誰に対する責任もなくて、私が永久にどこかへ逃げてしまったとしても、それを見咎める者はいないということだ。

 足を止めてじっと見ているうちに、突然、抑えのきかない衝動が私の背中を突いた。つまずくようにして舟の側に駆け寄り、後ろ側に両手をあてて、ぐっと腕の力を込めると、舟はほんの少しだけ揺れた。今度は両足を砂の上にしっかり踏ん張って、両手に体重をかける。舟はじゃっと砂を押し分けて数センチ進んだ。
 もう一押しした途端、舟は砂の上を勢いよく滑り出した。引っ張られて前のめりに倒れ込む寸前に、慌てて飛び乗った。ハンドバッグが腕からこぼれ落ちたのは分かっていたけれど、拾う暇はなかった。私は進んでいく舟の中に転げ落ちながら、どくどく音を立てる自分の心臓が破裂しないように祈った。
 しばらく瞼を閉じて、暗闇を見ていた。横たえた体の下から、波が何度も舟底を突き上げるのを感じた。心臓の高鳴りは止まなかった。
(このまま戻れなかったらどうする?)
 その問いは、胸の内に秘めていたもうひとつの問いの影法師だった。
(このまま戻ってどうするの?)
 どちらにも答えられないまま、私は暗闇にうずくまっていた。こんな小舟なんかで海に出られるはずがない。きっと潮に弾かれて浜辺に押し戻されているに違いない。私は祈った。そしてただじっと、取り返しがつかなくなるのを待っていた。

 私の人生を、どこかでやり直そうとしたら、どこまで戻ればいいのだろう。もし、どこまでも時間を巻き戻せたとしても、私はやはり全ての瞬間に同じ選択をして、またここにたどり着くような気がする。そして同じように膝を抱えて、同じことを祈るだろう。

 何分か、それとも何時間か経って、揺れが収まってきた頃、私はようやく体を起こした。恐る恐る瞼を開くと、視界の端から端まで、一杯に広がる海だけがあった。しばらく何も考えずに、混じりけのない景色の美しさに見とれた。それから徐々に、現実に起きてしまったこと、もう戻れないのだということを理解しはじめ、理解しきると同時に、ふつっと紐の途切れるのを感じた。私はもう、生きる心配をしなくてよいのだ。そう考えた瞬間、私は、生まれて初めて、ぞっとするような幸福を感じた。
 舟底に寝そべって、月を見上げた。世界のすべてがその白い円の中に収縮していくようだった。心も同じように、色と形を失って、一つの小さな塊になっていった。それから私は、そうして横になったまま、もう何も思わなかった。

(おわり)


いいなと思ったら応援しよう!