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1/25-26街裏さんとの出会いその2・読書会・やすべえ・GQuuuuuuX・町田康「俺の文章修行」

1月25日

📕街裏ぴんくさんと対談します。2月5日。

イベントが迫っている。
何度も言うが、街裏さんとぼくは姫路に暮らしていたころにも出会っている。当時ぼくは20代で、アルバイトで徒歩暴走族(姫路名物)の誘導をしていた。暴走行為が禁止された姫路では、特攻服で練り歩く徒歩暴走族の存在はバイクよりも脅威だった。
その徒歩暴走族のなかにひときわ異彩を放つ少年がいた。特攻服に身を包んだ他のメンバーとは一線を画す存在感。彼の特異性は、その独特な表現方法にあった。口から発せられる「ブルンブルン」という擬音。まるで人間バイクのような彼の姿は暴走そのものを体現していたのである。
徒歩という制約のなかで、バイク暴走の本質を見事に表現していた街裏少年。他のメンバーが単に歩くだけの中、彼は魂そのものが暴走していた。エンジン音を模した口の動き、全身で表現される疾走感。規制では縛れない表現者の原点が、あの頃既に垣間見えていたのかもしれない。
イベント当日、街裏さんではなくバイクがやってくる可能性すらある。
みなさん、ぜひチケットを購入し、会場にお越しください。


赤坂・やすべえでつけ麺を食す。

この店、赤坂での最良の選択である。辛つけ麺の美味は既知のこと。今回は趣向を変えて味噌に挑戦。チャーシュー不在の代わりに野菜が豊富。健康的な錯覚に陥る。ラーメンで健康的などという矛盾。だが野菜の存在が不思議な安心感を与えるのだ。美味。しかし辛味つけ麺への愛は揺るがず。

読書会。梶井基次郎「檸檬」。参加者11名。さらなる参加希望者がいたものの、収容人数の関係で断念。満員御礼である。実に充実した会となった。

文学フリマのことが新聞に掲載される。

本誌には自分の名前は出ていないが、電話取材を何度か受けていた。良い記事になってよかった。

1月26日

だめだ……こんなゲームをやっていたら脳が死ぬ。


吉祥寺へ。子と二人で劇場でGQuuuuuuXを観賞。ネタバレ厳禁。ガノタではないのでむしろ楽しめた。ビートルズ、スターウォーズ、ディズニー、ジブリ、ガンダム……ドメジャーなタイトルはなるべく見ない。魂がマイナーだからである。
ポテトチップスとお茶を片手にゆっくりと余韻に浸る。味わい深い作品だ。特典の設定資料も入手。

井の頭公園での散策を経て帰路に。バーガーキングをテイクアウト。

町田康『俺の文章修行』よむ。


読書による文章力向上は周知の事実だが、その後の物語論が興味深い。「文章のいけず」と「物語の模型」。物語と文章、この相反する要素について。町田氏にとっての言葉とは、即興的な運動体のようなもの。現在進行形の連鎖ではなく、現在を紡ぐ行為なのだ。一方、筋書きは既に結末が定められている。この二項対立。小説における物語と言葉のコンフリクトを論じているように思われる。これは本当によくわかる。純文学は文体、エンタメは物語、そうした乱暴なカテゴライズも可能だが、ほとんどの作家はそのバランスを模索している。どちらか一方ではなく両方のバランスのうえに作品は成り立っている。その塩梅こそが作家性の一部になる。
自分は、最近のポッドキャスト制作を通じて、書き言葉と語り言葉の差異を考察していたところなのでそれとも関連している。これは時間編集という視点から解釈できるかもしれない。語り言葉は生の時間、今この瞬間を前へ前へと推進する力。対して書き言葉は編集された時間。尺取り虫のように前後に揺れ動く。作品内に二つの時間軸が存在し、音楽のように読み手の時間を編集していく。これもまた小説の本質ではないか。本質ってなんやねんあほんだらぁ……本質いうたら本質っぽくきこえるだけやんけ。そんなもんあらへんねん! って、なんか町田さんっぽく書きたくなるな。

深夜、突如として食欲が湧く。米を研ぎ、調味料と具材を投入。醤油、みりん、玉ねぎ、ツナ缶。炊き上がった米をほぐし、ごま油、塩胡椒で味を整える。即席の炊き込みご飯の完成である。納豆と共に摂取。体調は整うも、わずかな違和感が残る。

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試験的にやってみます。ひみつの日記とおなじなのでどっちに入ってもOK。 月10回くらい記事が更新され…

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