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バンドのライブが決まった
あそびにきて!
■ここ数年悩んでいることがある。
僕はスランプじゃなかった時が1度もない。
デビューする前から今に至るまで、常にスランプだ。
スランプの定義は……なんとなく書けない。それに尽きる。なんとなく書けないのだ。だからこうして口述筆記などを試したりしている。とりとめのない空想を思いついた言葉などをつらつらとこうして文字列に起こしていくのは単純な言葉の浪費である。
小説を書くときの心持ちは、1行1行、まるで神に捧げる供物のように、すべてとの相関関係をイメージしながら1行1行丁寧に書いていく。しかしそういう書き方をしていると、流れや、グルーヴなどといったものは消える。
ちょうどリズムを色々と切り張りしたような、別撮りした楽器をつなぎ合わせたような、一見きれいには見えるのだが、どこかつながってない感覚が脳の中で無意識に感じられてしまう。
読者はそういったものに敏感だ。
そして読者であるところ私もそれに敏感である。
まるでラップのように畳み掛ける言葉の奔流に身をゆだねるのが快楽だとしたら、どん詰まりの切々の言葉は、不愉快。身を任せている自分の感覚と言うものを、信じられなくなってくる。
どうしても言葉に乗り切れないのである。こうした喋ってる間もなかなか行けていない。どうしてもリズムの良い言葉というのが出てこない。言葉のリズムは鍛えて伸ばせるものだが、いい言葉を真似なければいけない。
今日人前で喋ることがあったのだが気がつくと関西弁でしゃべっていることが多いことに気づいた。
関西弁で喋るとどことなく、知っているような言葉も独り言のような言葉もなんだか多少ユーモアがあるウィットの利いたニュアンスが言葉に備わるのである。そんなわけで私は何かを長く喋るときに、関西弁になってしまう時があるのである。
そうすると関西弁特有の「あきまへん」とか「あかんあかんもうあかんでー」とかそういった関西弁では到底効かないようなベタベタな関西のニュアンスを無理矢理出している自分に気づく。
関西が嫌で出てきたのにやはり関西にとらわれるのか。
あ、前にもこれ書いたな。
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