好きだったこと思い出す、ってなんだか薄情だけどやっぱり好きだ
気が向いたので日記を無料公開してみた。たまにこういうこととか書いたり、考えたりしてます、という感じで。
そういえば公式サイトを更新しようとしてPHP(サーバの中のなんか)を更新したらぶっこわれてアクセスできなくなってしまった。どうせあんまり使ってなかったので、この機会にノートに一本化して、日記も無料公開したほうが広告になるのもな、と思いつつ。
まあぼちぼちやっていこう、という日々です。
■愛のめんどう
友達といるほうが楽なのは、自分がなにもしなくても相手の人生が勝手に前に進んでいくからだ。足並みをそろえる必要もなければ、こちらがなにかをする必要もない。ただ、互いに別々のレールを併走する列車のように、どれほどちかくともそれは別の空間で、よりそいあってはいるが、ぶつかりもしない。さみしさをうめられる。ただし、それは互いが似たような速度で走っているときと、向かう先がおなじ場合だけだ。それがちがっているだけで容易にみえなくなってしまう。
■友人とあう
タイに行っていたらしくておみやげを貰った。
バナナにタマリンドと唐辛子がはさまっていて、辛くて甘くてあまり食べたことがない味だった。そういえばサワークリームとチリソースをかけたポテトフライが好きだったのを思い出す。好きだったことを思い出すって、なんか薄情な言葉だな。だけど、そういうことってよくある。そのたびに自分の薄情さにうっすらと自己嫌悪の膜がかかる。うすすぎてすぐにはがれるのでやっぱりすぐに忘れてしまう。
忘れてしまうという言葉はいい言葉だ。言い訳だけど、言い訳に聞こえないくらいちょっときれいなところがいい。
なんでも忘れてしまうけれど、忘れることなんて本当はなくて、なにかのたびにそれは生き返ってくる。
こないだ地方都市のシャッター商店街を朝歩いていたら20代のころに大阪で暮らしていたことと、その頃なにもなくて絶望していたときの気持ちまで生き返ってきて、びっくりした。今はどこにでもいけるけれど、あの頃はお金も時間もなくて、なにもできない閉塞感だけがあった。お金が自由って部分はあるんだよね。ロマンチックな話にはならない。
■魔法なんてないノート術
すごいノートが見つかった。
過去にライターズブロックが深刻だったときに使っていたものだ。ライターズブロックというたいそうな名前だが、要するになんか書けないスランプである。思えばずっとスランプじゃない時期がないので平常運転ともいえる。以前相談コーナーでこういう記事も書いたくらいだ。
結論はなんでもいいから書いておけだ。エンジンをアイドリング状態にしておくのは自分にとっては大切らしい。そのときに検閲や他人の目はきにしてはいけない。なんだっていいのだ。とにかく書いてればなんかが起こる。それでいいのである。だからこの文章もそのように書かれている。いまはブロックがない。でも垂れ流しになってあぶないから本当に危険なところはカットしています。全カットもある。
■8時前おき。
きをつけよう。遅くなってきた。洗濯、プリントアウト、事務をやってから10時すぎにガストでモーニング。クーポンをつかうと500円で食えるので財布に優しい。しかもスープバーとドリンクバーがついているのでありがてえ。今日は原稿をやる。
帰ってちょっと寝る。マンガ読む。
ヒメゴト全巻。これ……アビスのひとだと気づかなかった。アビスっていうとメイドインアビスのほうが浮かぶけど、少年のアビスのほう。この漫画、重力、あるいは磁力みたいなものがあってひきつけられてしまう。自分のなかの地方都市の青春経験やら暗い気分がまじって、そういうものとひきあってしまう。決して愉快な感情ではないけれど、どうしてずっと見たいと思ってしまうのだろう。そういえば、ちょうど仕事で読み返していた本があって、
その本のなかに「影」についての話がでてくる。ここで言う影は、自分のダークサイドの話だ。ゲド戦記とかスター・ウォーズとかに出てくるやつ。
河合隼雄なのでユング心理学のことなのだけれど、影は忌むものでありながらそれは本当の自分かもしれず、豊かなものをふくんでいる。それと合一して自己をひとつに統合することができれば、もしかすると新しい自分と出会えるのかもしれない。そういう話は魅力的だ。
ところが、『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』 (講談社選書メチエ) を読んでいると、まったく逆のことが主張されている。
あなたが「思っている」と思っていることは、全部でっちあげだった!
「心の奥底には何かが隠されている」と、誰もが思いたがる。
心理学者や精神分析学者たちは、暗がりに潜むものを暴き出そうと奮闘してきた。
だが、神経科学や行動心理学の驚くべき新発見の数々は、隠された深みなどそもそも存在しないことを明らかにしている。
「無意識の思考」などというのは、神話にすぎなかったのだ。
可能性として考えていなかったわけじゃない。自分がからっぽだという感覚は思い込みによって生まれるものなのだろう。深いところにはなにもなくて、表層の感情しかないのかもしれない。
けれど人がそういう表層的な気分や反応によって、そういう「深いところになにかがあるような」気持ちにさせられてしまう事実は消えない。好きな人といるときに心の奥になにかがあるきがして「それはおまえの脳内麻薬のせいだよ」と言われてもふつうは「はあ」としか思わないし、いきなり冷めたりもしないのとおなじだ。
ここで論じられることがそうなのだとしてもやはり人間は生きていかなくてはいけなくて、じゃあ自分の心をどうデザインしたいのかっていう問題は残る。及び腰で「まあこれはうそなんだけどね」と思うより、夢中で心奥の深いところにあるなにかの実在を信じるほうがおろかでも美しいと思ってしまうな。フィクションをつくるときに世界の味気なさとか、からっぽさに苦しめられているから、なおさらそういう気持ちになる。なんにせよこういう心のはなしってすきだな。心がないって話をふくめて。
そしてさらにネットで左利きのエレン全巻よむ。これは……ナメてた。この熱量はすごい……こちらにちゃんと届く。これはすごすぎる……。俺は何をやっているのだ……という気分になってくる。言い訳ばかりでやることをやっていない。凡人だとか天才だとか才能だとかそんなことよりもとにかくやらないとな。