45歳狂う説、そして49歳、狂い続けてる
吉田松陰ならむしろ積極的に狂って行ったのに、なんなんだおまえらは。
ネットで話題になっている「45歳独身狂う説」だが、タイトル通りの現象だ。正確に云えば「狂う」というよりは「ずれる」に近い。「あれ?なんかおかしいな?うまくいかないぞ?」という違和感が日々積もり、気づけば自分でも説明のつかない場所に立っている。そんな状態だ。
まあいわゆるミッドクライシスでもある。
この話題がバズったため、現在いろいろなひとがいろいろなことを言っているが、どれもあまりピンとこない。
なのでさっき適当に記事を書いた。
タイトルのままだから別に読まなくていい。
実際、他人と会わず、静かに「老人プレイ」をするだけで、こうした問題はほとんど消える。社会的なズレも気にせずに済む。
「45歳独身狂う説」の実態
この説を掘り下げると、結局のところ「おっさんが自分たちだけのコミュニティにいる分には問題ない」という話になる。おっさん同士で閉じた世界にいれば、価値観や行動様式が似通っているため、違和感も生じにくい。しかし、若者と交わると状況が一変する。若者が一緒だと、彼らの感性や振る舞いが自分たちとは明らかに異なり、自分の「ズレ」が露呈するのだ。
逆に云えば、若い頃にいかにおっさんたちにチヤホヤされていたかを思い出すべきだ。そして、それに感謝する必要がある。親への感謝以上に普遍的な「おっさん恩」がそこに存在する。そして今度は、自分が若者をチヤホヤする番だ。それが大人としての責任というものだ。
責任を負いたくないというのもアリだ。
でもその場合は若者と交わらないほうがいいだろう。不幸の始まりだ。
ダサい大人にならない三箇条
この話題について考える際、水野しず氏の
この記事が参考になる。
「ダサい大人=狂ってるおじ」と考えていい。記事の中で挙げられた結論は非常に簡潔だ。
すぐ帰る
集まりでは長居せず、場の空気を読む。必要以上に存在感をアピールしない。自慢を(なるべく)しない
過去の栄光や武勇伝に固執しない。若者に対して「昔の俺」を押し付けるのは、ただの自己満足だ。対価を払う
金銭的にも時間的にも、相応の対価を惜しまない。対等な関係はここから生まれる。
これらを守るだけで「ダサいおっさん」としての振る舞いは回避できる。詳細は元記事を読むといいだろう。
とにかくこれを守れない者は、潔く人に会わない方が良い。俺がさっき云ったように、基本的に人付き合いが苦手な者は、同年代の友人と釣りや登山でもしていた方がよほど健全だ。
「45歳狂う説」の処方箋
結局のところ、「狂う」現象を防ぐには、自分にとって快適な環境を選び、無理をしないことが肝心だ。若者と張り合う必要もなければ、自分を過剰に卑下する必要もない。同世代の友人たちと、趣味や自然を通じて気の合う時間を共有する。それだけで十分だ。
友達がいないなら、それはきっとなにか理由がある。自分を見つめ直すいいきっかけになるだろう。この機会に内省してみるのもいいんじゃないだろうか。
俺たちができるのは、無理に若者と交わるのではなく、自分にとって心地良い生き方を見つけること。これが「45歳独身狂う説」に対する最も現実的な答えだろう。
ちなみに、この問題について言及しているのはほとんどが男性だ。
その理由はおそらく、これが「男性特有のコミュニケーションの問題」に起因しているからだ。
以前、45歳に関するこういう本を作った。
ここに寄稿している方々の意見はどれも興味深いので、読み比べてみるといろいろな発見があるだろう。
結論を述べると、「45歳狂う説」というのは、ネット上で特定の属性や価値観を持つクラスタに特有の現象だと考えられる。特に、海外で言われるミッドライフクライシスに関する本を読んでも、俺がいまひとつ共感できない理由は、その多くがアメリカの男性中心主義的な価値観に基づき、資本主義社会のビジネスパーソンをターゲットにしているからだ。俺自身、そのどれとも距離があり、共通する悩みもほとんど見当たらない。
しかし、だからといって俺に悩みがないということではない。俺の悩みはもっと個人的な性質のもので、自分なりに理解し、整理できているものだ。そして、それを背負って生きていく覚悟もできているため、他人に相談して軽くしたいとも思わないし、むしろ必要以上に干渉されたくもない。
人生の悩みや迷いは誰にでもあるが、その形は千差万別だ。それをどう捉え、どう対処するかは、それぞれが選ぶべきものだと思う。俺の場合、その道を一人で進むと決めている。それだけの話だ。自分の選択を受け入れられれば、意外と道は明るいものかもしれない。
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