『TOKYOHEAD -NONFIX-』まえがき
INTRODUCTION
「『トウキョウヘッド2』を書いてくれないか」
ミカドの店長、池田稔からそんな相談があったのは二〇二〇年の冬だった。
一九九五年に、二十代の若きライターによって書かれた『バーチャファイター』をめぐるノンフィクション『トウキョウヘッド』。
それは、新宿のゲームセンター「GAME SPOT21」を舞台に、初代『バーチャ』稼働後、一九九三年~一九九五年のシーンを、「鉄人」と呼ばれたプレイヤーたちの視点で群像劇風に描いたルポタージュだった。
ドラマパートとインタビューパートが交互に配置される特殊な構成と、情緒あふれる文体は、発売後にプレイヤーたちの賛否を浴びつつ、カルト的人気を獲得し、様々なメディアで話題となった。
作者の名前は大塚ギチ。
大塚は『トウキョウヘッド』刊行後、「UNDERSELL」を設立。多岐にわたる仕事をこなし、多くの人材を育てたが、二〇一〇年代には個人で裏方仕事にまわるようになる。高田馬場ゲーセンミカドのアドバイザーとしての活躍も、そのひとつだ。
二〇一八年七月十三日深夜、大塚は不運に見舞われる。
若い頃からアルコールに耽溺していた大塚は、帰宅中の飲酒事故で頭部を損傷、生死の境を彷徨う。辛うじて生還するも、記憶の混濁をはじめとする、様々な後遺症に悩まされるようになっていた。
彼から連絡を受けたのはその頃だ。
久しぶりに会った大塚は痩せこけ、ひと目見ただけで、とても仕事ができる状態ではないことがわかった。状況を聞いた僕は自社「RAMCLEAR」の弁護士と相談し、大塚個人と「UNDER SELL」の事務整理をすすめた。とは言え遠方に住んでいる僕にはできることが少なく、ほとんどを池田店長に頼ることになった。
数カ月後、なんとか一段落したある日。大塚は新宿の自宅マンションで亡くなっているところを、ミカド関係者に発見された。
享年四十五歳。
ちょうど時代が令和を迎えた、二〇一九年五月一日のことだった。
その一年後、冒頭で述べたようにミカドの店長、池田稔から相談があった。
話を聞くと、大塚は『トウキョウヘッド』の続編を書くため、ミカドとも縁の深いバーチャプレイヤー「SHU」のアテンドでプレイヤーへの取材を進めていたという。
ひとまずテープ起こしの終わった原稿を送ってもらい、目を通してみた。
残されていたインタビューは、二〇一二年~二〇一三年に行われたもので、今となっては彼の意図を汲み取るのは難しかったが、それでも、何度か読むうちに大塚のプランがわずかに見えてきた。
たとえばインタビュー中のこんな発言だ。
〝―俺は『バーチャファイターマニアックス』に対してXコードを最後に渡したい気持ちがあるので、『ノンフィックス』ってタイトルにしたい。『トウキョウヘッド』ではなくて。『バーチャファイター』冠でやりたい。今度やるのは『バーチャファイターノンフィックス』……ってついたら全部やるしかないでしょ?(笑)”
どうやら大塚は、関係者一〇〇人にインタビューを行い、バーチャファイターシーンのすべてを総括することを目論んでいたらしい。
だが、その夢は果たされなかった。大塚のことをある程度理解している人間ならわかるだろうが、生きていたとしても、数十年がかりのライフワークになっていただろう。
さらに、インタビュー原稿を読むにつれて、大塚がまったく別のプランを考えていた形跡も見えてきた。それは、バーチャ神と呼ばれるプレイヤー「ちび太」を中心にしたバーチャ史を描くというものだった。
しかし、それもやはり今となってはひとつの可能性にすぎない。
いずれせによ、彼の仕事は志半ばに終わった。
これから僕は残された原稿と、新しい取材をもとに『バーチャファイター』の物語を作り上げる。それは『トウキョウヘッド』を継承しつつも、大塚が考えていたものではない、別の『トウキョウヘッド』になるだろう。
そろそろはじめよう。
「e-sports」という言葉が生まれる以前、ストリートに存在した幾多のプレイヤーたちの伝説、戦いの歴史、彼らの想い―そのすべてが記憶の彼方に消えてしまう前に。
(このつづきは本編でお読みください)
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