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所有しているサイン本

 おはようございますこんにちはこんばんは、小萩です。

 ネットの海を淡々と漂い、毎週日曜日に停泊して店を出します、架空本屋「電子書房うみのふね」、今日はこちらの海岸線に辿り着きました。お元気でしたでしょうか。特に朝晩が随分冷えてきて、波も冷たくなってまいりました。体調管理に気をつけていきましょう。
 さて、今日のテーマは「所有しているサイン本」です。サイン本、書店側からすれば返品ができない諸刃の剣にもなりかねないでしょうが、やはり特別な本に成り得るものです。たいてい、値段も変わらないのがまた有難いところ。店頭で「サイン本」という表記を見つけると、それだけで、お、となってしまうのですが、買う予定にしていた本がそうでなければ基本的には手を出しません。好きな人のもとに渡って欲しいなあと思うのです。

 そんな私の本棚には、今、四冊のサイン本がありますので、紹介していきます。


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 さよなら、ニルヴァーナ/窪美澄

 懐かしい~大学二年あたりの一時期ものすごく窪美澄にはまっていて、そのきっかけは今でも大好きで当時散々号泣した「晴天の迷いクジラ」で、その後「ふがいない僕は空を見た」「雨のなまえ」など追っていったのですが、この「さよなら、ニルヴァーナ」はちょうどそのはまっていた時期の新刊で、当時パン屋でバイトしていて、昼の休憩時間に本屋に飛び込んだらまさかのサイン本が売られているのに興奮して躊躇いなく手に取りました。少年Aの手記が話題になった後に出た本で、小説家を目指す女性が、当時十四歳で七歳の女の子を殺した少年Aを取り憑かれたように追いかける小説です。

 窪美澄の何が良いかというと、苦しくなるほどの生々しさだと思います。苦しみを書くことや、嫌悪を嫌悪として書くこと、そういったことを躊躇わず直接的に書いてくるから、ストレートに響いてくる。それは優しさとも裏返しになっていて、細かな心理描写も、苦みがさっと流れていくあっさりとした表現も、また浮かび上がってくる。私は窪美澄がどんな作家か、というと、いつも生々しい、と言います。あらゆる意味で。多幸を書かない。女性らしい、の、らしい、がだんだんとタブーになってきている昨今だけれども、いわゆる女性らしいな、と思う。一つの憧れではある。最近の本を読めていないから、また違った姿になっているかもしれません。

「さよなら、ニルヴァーナ」は印象的な作品ではありましたが、しばらく開いていませんでした。ぱらぱらとではあるけれど、改めて読むと強烈な自意識を感じる小説で、それが苦々しくてつらくなったんだったなあ当時、と思います。窪美澄のこの生々しさに、潰されることもあれば、癒やされることもある。生々しさは深みとも言い換えられるのかもしれません。久しぶりに読んでもいいな、窪美澄。


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 永遠のおでかけ/益田ミリ

 作者の父が亡くなった前後の日々について、中心に書かれたエッセイ集。肉親を失う、というのは、子供が生きながらえていれば自然と訪れることです。その悲しみについて、あるいは笑ったことについても。日常と非日常が混ざり合う。深く潜っていくというよりも、悲しみを撫でていくような優しい印象は、益田ミリならではの強さであり穏やかさだと思います。それは決して軽い、という意味ではなくて。

「今日、新幹線から富士山見えたで」
 帰省したときに報告すると、父は「そうか」といつもうれしそうだった。
 新幹線は動き出した。死んだ父親に会いに行くという、人生最初で最後の帰省である。
 今夜、わたしが帰るまで、生きて待っていてほしかった。
 母からの電話を切ってすぐはそう思ったのだが、新幹線に揺られる頃には、それは違う、と感じた。これは父の死なのだ。父の人生だった。誰を待つとか、待たぬとか、そういうことではなく、父個人のとても尊い時間なのだ。わたしを待っていてほしかったというのは、おこがましいような気がした。
 悲しい。涙は次から次から溢れてくる。
 なのに、いろんなことを並行して考えているわたしもいた。
 昨日、早めに原稿を送っておいてよかった!
 お父さんの体調のこともあるから断るつもりだった旅行記の仕事、やってみようかなぁ、ちょっとおもしろそうだし。
 おっと、車内販売が来た、飲みたい、ホットコーヒー。
 悲しみには強弱があった。まるでピアノの調べのように、わたしの中で大きくなったり、小さくなったり。大きくなったときには泣いてしまう。時が過ぎれば、そんな波もなくなるだろうという予感とともに悲しんでいるのである。
 雲がかかっており、残念ながら新幹線から富士山は見られなかった。その代わり、オレンジ色の美しい夕焼けが広がっていた。
 窓に顔をくっつけて眺めていた。こんなにきれいな夕焼けも、もう父は見ることができない。死とはそういうものなのだと改めて思う。

 この部分が好きで、何度も読み返します。

 悲しみには強弱がある、という表現が好きです。そして、悲しみに全身全霊をかけて浸る場合もあれば余所見をしながらそれでも悲しんでいる時もあるのだということを、明白にしていて、強く共感します。


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 今日の人生2 世界がどんなに変わっても/益田ミリ

 また益田ミリか、と思われそうなものだがまた益田ミリです。こちらは漫画が中心となっています。ついこないだ出た新刊。感想や当時出会った時の衝撃については「朝の記録1008-1014」に書いてあるので、気になった方はそちらの10月11日の日記や、10月13日以降あたりを参照していただければ。

 前作の今日の人生以降の三年半について描かれたもので、出会ってきたちょっと不思議な日常だったり、お、と思った日常が連なる、ただそれだけ、と言ってしまえばそれだけなのですが、そのそれだけ、は忙しなく過ぎていく日々の中、どんどん孤立していきがちな日々の中で忘れがちなことで、ふと、深呼吸がしたくなったときに手をとりたくなる本です。


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 ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい/大前粟生

 つい先日読んだばかりの本です。本人の名前ではないし未だに公園Cがなんなのか分かってないのですが(知っている方おられたら教えてください)直筆ではあるのでサインという括りでいいだろうと思っています。実はこのサイン本に関しては、まさかサイン本だとは思っていなくて、というのも、まず試し読みしたときにああこれいいなあ気になってはいたけど読んでみたいなあと思っていたところ読んでみたら文体が心地よくてとても気になりながらも、買うかどうかをそのとき迷って一度戻して、それからやっぱり読もうと決心して、別のところから取り出した、というかポップアップコーナーからとったらそれはサイン本だったということでした。帰ってから開いてびっくり。チェーンの新刊書店では大抵サイン本はビニルに包まれていたりサイン本という表記がしてあるので、自然と置かれていたものがまさかそうだとは思わなかったのです。発売から少し時間が経っていることもあり。

 そうして読んだこちらの本は、今でも不思議な心地で、特に表題作に関しては、人を傷つけたくない誰かに言うことではない言葉をぬいぐるみに喋るサークル、という設定がとても面白くて、それぞれ孤独なようで、その一人の時間をとても大切にしている感じがとても良くて、その一方で人は人と繋がっていることで生きているから、ぬいぐるみではない人と人としての繋がり方というのも考えようとしているそのバランスが良かったのですが、ただ私は、麦戸ちゃんが七森くんを励ますそのあたりのシーンがやっぱり読み返してもなんで!!!なんでこういう形になった!!!と思ったりしました。この話は確かにジェンダー小説ではあるのですが、どこか、ジェンダーというくくりでなければまた違う良さが光ったのではないかなあと思ったりもして、でも、全体的な感性は良くて、人を選ぶだろうけどこうした優しさがきっと今の世にあって良いと思います。何よりも、最後の白城の締めがほんとうにいいんですね。ぬいぐるみと喋る人たちを巡る物語でこの締めが最高なんですね。好きと苦手が同時に発生した不思議な小説ではあるのですが、私にとってもまだきちんとした感想をはじき出せていないので、また改めてこの小説に関しては触れたいです。


 以上、四冊が、私の所有しているサイン本です。

 それぞれに書かれた、誰かの直接的な跡。それはどこかでこの人が生きている/生きていた証。遠いどこかに、出会うことが無いひとがいるということを時折不思議に思う、有難く思う、そういった良さがサインにはありますね。まあ、元も子もないことを言ってしまうと仮にこれを違う人が書いていたとしても気付くことはそうそうありませんが、まあそこは夢を持ちたいものです。

 今週の「うみのふね」はここまで。
 来週は「移動時間に気軽に読める作品」の予定です。もしも興味があれば、来週も遊びにきてください。
 ご縁があれば、またどこかの海岸線で会いましょう。ではでは、良い日々を。





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小萩うみ / 海
たいへん喜びます!本を読んで文にします。