
にせものラヴァーズ
その告白は罰ゲームだった。
超絶地味な昆虫類系男子、と区分していたその人に、明日の放課後告白することとなった。男女入り交じったカラオケで盛り上がっていて、一番点数が高かった人が低かった人に命令する、という王様ゲームのようなことをしていた。王様の命令は絶対で逆らってはならない。たかがゲームだがされどゲームで、破れば空気が読めない奴として認定されるのだった。
憂鬱でならなかった彼女は、しかし規則に乗っ取り彼を呼んだ。仲間が歓喜と悲鳴の入り交じったような噂話をしているのが耳に入っていた。
「好きなんだ」と彼女は伝えた。「あんたのこと、実は好きだった」
彼の顔はあまり変化していないように見える。髪が多くて長くて、全体としては細い白葱のような印象を持たせる。猫背で、とりえなんてどこにもないというのをそのまま体現しているような、それを隠してもいないような雰囲気が彼女を苛立たせる要素だった。昆虫系、というのは言うまでもなく揶揄であり、こういった機会が無ければ接触することはなかっただろう。
恥で満たされた告白に対し、彼は顔を顰めた。
「……それだけ。別に、どうしたいとか無いし」
踵を返そうとしたところ、すぐに呼び止められた。
「返事はいらないわけ?」
「いらないよ。これ、罰ゲームだから」
さっさとネタばらしをする。罰ゲームの的にするとは非道い話だが、そうした方が相手を黙らせられるだろうと考えたからだった。うっかり本気だと思われても迷惑なだけである。
「罰ゲームか」
なるほどな、と彼は視線を流した。
「随分失礼なことをするもんだな」
「いいじゃん。別に」
「俺の大事な時間をお前らのしょうもない罰ゲームで無駄にしたことについて、何も思わないわけ」
「大事な時間? たかだか数分じゃん」
吹き出すと、彼は首を振る。
「その時間で出来たことを考えるとやりきれない。こんな不快感を味わうことになったのも解せない」
滲み出る嫌悪感に、彼女は少なからずたじろいだ。
「わかったわかった、ごめんってば」
「謝るつもりが一ミリでもあるのなら、その罰ゲーム、延長してみないか」
「え?」
彼は真顔のままだった。延長、という意味を彼女は一瞬理解できなかったが、彼はどうやら真剣らしい。随分と悪い空気だというのに、気にも留めていないかのようだった。
*
ちょうど彼氏はいない期間だった。数ヶ月前に別れてそれっきり。たくさん泣いて、友人に愚痴をこぼした。やわらかで鮮烈な青い傷心も癒えてきた頃合いだったから、その傷も含めて過去は過ぎ去ってもう笑えるものになったから、こういう罰ゲームがやってきたのだろう。
手は繋がなかった。彼女は内心気持ち悪い、と思っていた。一緒に歩いている姿を誰かに見られることも恥ずかしかった。彼曰く、恥を上塗りしていかないと本当の罰ゲームにはならない、と、勝手にいいように使われたことについて開き直っている部分すらある。
おしゃれなカフェに連れて行かれても、暇な隙間時間を埋めるようなカラオケに連れて行かれても、不釣り合いだった。向かったのは、駅から少し離れたところにある本屋だった。
「本なんて読まなさそうだよな」
入り口で目を瞬かせている彼女に向けて彼は言う。
「読まない。漫画も読まない」
「本気か? 人生損してるな。少女漫画とか女子は読んでるもんじゃないの」
「文字自体が嫌い。すぐ飽きるし」
「重症」
本気で彼は驚いていた。心底呆れているようでもある。
中に入ってからは、別行動をとった。好きに回りたいらしく、何も言わずにさっさと歩みを進めた。その背が明らかに同行を拒否していたので、彼女はすぐに諦めた。なにあいつ。今日一日だけ、とか言っておきながら、さっさと放置? 何様?
仕方がないのでゆっくりと本棚を見て回る。文芸書や実用書などの活字しか書いていないようなコーナーは興味が持てなかった。学習書の棚には、友人からたまに貸してもらう教科書ガイドなどが並んでいて、目に痛い朱い参考書がずらりと数段埋めている様など見ると、まだ先に控えている受験が過って嫌になった。きらきらしたキャンパスライフには好奇心が湧くが、そこに至るための過程を考えれば憂鬱だ。推薦でさくっと合格してしまいたい。
参考書にも背を向けて結局漫画の棚へ向かった。読まないとはいえ、イラスト表紙の方がまだ親近感が湧く気もしたけれど、なんだか居心地が悪い。きっと自分と本屋は相性が悪いし、ここを好む彼はまったく人種が異なる。
ぼんやりと歩いていると、奥に彼の姿が見えた。数冊の文庫本を抱えて、一冊漫画を引き抜いたところだった。こんな居辛い場所に連れてきた張本人だというのに、この異世界では唯一の仲間のように見える。引き寄せられるように近付くと、彼は怪訝な表情を浮かべた。
「買うの?」
「まあ」
内容を見てみると、知らないものばかりだった。難しくて真面目そうな本の上に、可愛らしい女の子のイラストが目をきらきらさせている文庫本が乗っている。教室の夕方のひとときを切り取ったような表紙である。
「やっぱ、こういうの好きなんだ」
「馬鹿にしてるよな」
「馬鹿にしてるっていうか、あーやっぱり、っていう。オタクって感じ」
「どうせオタクだよ。ラノベは読みやすいから、きみみたいなのにもいいんじゃない」
きみ、という二人称で呼ばれるのは彼女には新鮮だった。
「ラノベって、これ?」女の子の表紙を指す。
「そう」
「やだよ。こんないかにもオタクっぽいの」
「否定はしないけど作者に謝ってほしいわ。形だけで断定するのはやめた方がいい」彼は静かに怒りを滲ませながらも、鈍感な彼女が気付く前にすぐにその表面的な感情を隠す。「昔から読んでるんだけど、最近は結構人気あるんだよ、きみが知らないだけで。普通に良い青春ストーリーだし」
「ええー、青春とか好きそうなタイプに見えないのに」
彼女は素直に驚く。
「興味が無かったらこんなしょうもないごっこ遊びなんて絶対しない」
「ごっこ遊び?」
「恋人ごっこ」
やたらと花畑のような単語が出てきたので、彼女は複雑な感情に晒された。可愛らしさと気持ち悪さは紙一重なのかもしれない。
「俺、彼女なんていたことないから」
「だろうね」
基本的に放っている空気が暗く、人を寄せ付けない雰囲気に塗れているのだ。付き合っている友人を見ても、教室の一角で勝手に盛り上がっている、その素振りなどがどことなくイケてない。運動神経が悪そうというか、あらゆることに関して不器用な集まり。そのグループについて、彼女は積極的に関わろうとは露とも考えたことがない。そうであるにも関わらず、奇妙な繋がりが生まれている。
「たぶん、卒業するまで出来ないだろうし、制服デートを経験しておけるのなら利用してやろうと」
制服デート、と顔に不釣り合いな単語に驚愕しながら、彼女は心に収めた。
「本が好きなくせにもっと言葉を選べないの? そういう風に言うから彼女出来ないんだよ」
「本気で彼女作ろうなんて思ってないんだよ。ていうか、出来るわけないし」
肯定も否定もできず、彼女は黙りこみ代わりに溜息をついた。この人は言葉はよく知っているだろうが、その使い方が上手ではないのかもしれない。あえて刺々しくして寄せ付けない雰囲気は、哀れですらある。
「解った。なんでもいいよ。あんたの夢にちょっとだけ付き合うけど、今日で終わりだからね。でも、ごっこであって、本当の彼女じゃないんだから、カウントしないように」
「きみの沽券に関わるもんな」
それから彼は抱えていた本を一通り買った。彼女は何一つ買わなかったけれど、彼が好きだという文庫本の名前はなんとなく記憶した。
本屋を出てからも手すら繋がなかった。彼女から誘うことも彼から誘うこともなかった。彼女は落ち着かず、ひょろりと痩せたまま伸びた彼の横顔を見やる。建物に切り取られた町の向こうで、夕焼けが雲に滲むひとときを目に焼き付けているようだった。黒くてぼやけていた、それまでまともに視界に入れてすらいなかった人間が、確かな輪郭をもっている。どうでもよかった人間が、少しだけどうでもよくなくなっている。
罰ゲームを提案した友人たちは面白がってこの光景を見ているだろうか。
結局、その後駅で別れた。特別な別れ文句も無かったけれど、ただひとつ、彼は「ありがとう」と伝えた。また、とは言わなかったし、彼女も言わなかった。にせものの恋人は、恋人らしい特別なことはしなかった。そんなことをしても空虚だと思い知ったのか、充分解っていたのか。結局彼の本心は何一つ理解できなかった。試しに一度、教室で擦れ違った時に彼女の方から挨拶をしてみたけれど、何事も無かったように知らんぷりをされてしまった。結局、また彼と彼女の間は一切何も無い関係に戻った。
*
推薦で通ったほどほどの大学で、彼女は思わぬアクシデントに見舞われた。
妹が漫画にはまり始めた影響で、少しだけ彼女は文字を摂取するようになった。その過程で、それまで完全に忘れていたのに、あの青年が好んでいた小説のことを思い出した。淡い夕陽の色と女の子。いかにもオタクなイラストだけれどきれいな表紙。妹につれられて本屋に行くようになって、彼女は本屋にいることで生じていた蕁麻疹が浮かぶような居心地の悪さからは脱していた。
記憶の引き出しの、ずっと奥、勉強や恋愛や音楽やドラマや友人関係や、そういったものの更に奥深くにしまったままになっていたタイトルを、何故かするりと取り出すことができた。妹に気付かれないように静かに遂行する。ライトノベルの棚に足を運ぶだけでも勇気が必要だったし、一秒でも早く見つけることに必死になり、十数巻も並ぶ長編に圧倒されつつも、一冊抜き出した。レジでどう思われているかどうか気になりながらも、ブックカバーで守られた文庫本を鞄に潜ませた。
部屋でしんと読み始め、不思議と引き込まれる。彼女にとっても今は過ぎ去った、高校生活を描いたもので多少の親近感が湧いた。ただの青春物語ではなく不穏なミステリ要素がある。オタクイラストと馬鹿にしていた挿絵はさほど活字慣れしていない彼女にとってマラソンにおける給水ゾーンのようなものだった。個性的なキャラのやりとりに没入しているうちに一巻が終わってしまった。
二巻以降は、通販で購入した。実店舗で続きを買うのには気恥ずかしさがあった。
けれど、自分がこの本に魅了されているのは自覚していた。大学で新しくできた友達も、高校以前の友達にも言えない。オタクな人間というラベルを貼られるのは心外だった。
彼女自身想像してもいない速度で無自覚のうちに物語の世界にのめり込み、やがて二次創作というものが世にあることを知り、元々学校の友達と繋がるために作ったツイッターのアカウントとは別のアカウントを作成し、そのライトノベルに関する情報を集めた。プロが描いた美麗なイラストや漫画をスマートフォンの画面上で眺め、小説も少しだけ読んだ。長期連載の末にアニメ化が決定し、その界隈は大いに盛り上がっている頃であり、毎日新しい情報が入ってきた。ネット上のみで繋がる関係性もできた。それは彼女にとって新鮮だった。そして画面の向こう側にいる人たちが、時に自分で本を作っていることも知った。本を自作するなど、彼女の感覚からすれば異次元の行為だった。もともと製本を仕事としている人が延長戦上でしているのかと思えば、ただの趣味としてやっているらしい。
いろんな作品を囓ったが、その中で好ましいものを何人か見つけた。「あさ」という二次創作作家に出会ったのは、最中である。「あさ」さんは、活動はさほど活発ではないが、たまに思い出したように浮上して短い小説をぽつんと更新する。短いため、彼女でも読みやすかった。しかし、キャラクターの内面性がこまかに描かれていて、元の作品の穴埋めをするような物語に妙に惹かれた。きっとこの人は本当にこの小説が好きなのだろうと解るような書き方だった。世界観を壊さずにきれいに生かして、公式のカップリングを掘り下げていく。驕らず、誇張せず、静かな敬意を思わせる書き方。彼女は更新を見つけるたびに短い更新を送って、少し遅れて返信が来る、その繋がりに小さな喜びを感じていた。作品を通じたものも、直接の言葉のやりとりも、実際に声を出して直接出会っているわけではないのに繋がる感覚は、テレパシーの一種のようでもある。本当に繋がっているわけではないけれど、確かに繋がっているような錯覚である。
妹にばれるのにそう時間はかからなかった。妹は彼女よりもディープだったため踏み込むのを躊躇われたが、妹につれられて、同人誌即売会に足を運ぶこととなった。
妹以外には誰にも自分の秘密の趣味を漏らしていないため、誰かに会ったらと思うと足が竦むようだった。けれど自作の本を売っている現場には興味があった。これまでネット上でしか繋がらなかった人が、本当に人間であることがどこか信じられずにいた。向かう先には「あさ」さんもいる。
天井の高い会場は、強烈な熱気に包まれていた。
オタクだと蔑んでいた人間の集まりだというのに、そこに自分もいるということも、どこか魅力的に思われるのも、彼女には不思議だった。
大まかに作品毎でジャンルが分かれており、妹は彼女とは別のジャンルに用があった。まっすぐ目的地へ向かう間に、あらゆる意味でびっくりするような世界が各地で展開されていた。異次元だが、以前よりも近しさを抱いている。
「あさ」さんは、並べられた机の最中にいた。
ひとつひとつ机と地図を挙動不審で見比べながら、そこだと解った瞬間に、硬直する。
黒くて長かった髪をさっぱりと切っているが、あのひょろながい白葱のような細い体格は一切変わっていない。
途轍もなく、彼女には見覚えがあった。別人と言うには、あまりに似通っている。そんな偶然が果たしてあるだろうかと驚くが、そもそもこの小説を教えたのは彼なのだ。昔から好きだと言っていた。話さなくなってもずっと好きだったとすれば、繋がる可能性は零ではない。
なんということだろう。呆然としている間に、彼の方から気付いた。滲む夕陽を克明に映していたあの黒い瞳を丸くした。
「……朝比奈さん?」
彼は彼女の苗字を呼んだ。どうして、こんなことが。彼女は、緊張と混乱と、罰ゲームで恋人ごっこをした過去の記憶と、「あさ」さんの書いた小説や小さなやりとりが一気にいっしょくたになって、顔が真っ赤になった。一番会いたい人だった。けれど、一番会いたくない人だった。
彼女はその場を翻し、迷惑にならない速度で逃げる。
解っていれば絶対に来なかった。知りたくもない正体を知ってしまったら、もうおしまいだ。
早く妹に会いたい。そしてもうさっさと帰ってしまおう。収縮を繰り返す胸を抑え、巨大な柱の傍と指定した集合場所に辿り着く。しかし、案の定まだ妹は居ない。当然だ。分かれてまだ時間としては間もないのだ。
ちょっとした絶望に上塗りするように、しばらくして背後から声をかけられた。聞き覚えのある男声に、振り返りたくなかった。
「なんで」
彼も明らかに動揺していた。疑問を投げかけたいのは彼女の方だったが、彼の戸惑いも最もだった。
「……あんたが、買ってた本が」背中を向けたまま、彼女は言う。こんなのは罰ゲームの延長戦だ。泣きたい気分だった。「面白かったから」
絶句してしまった彼から返答は無い。周囲はそれぞれで熱中していて、彼等の思わぬアクシデントを気に留める人間など誰もいなかった。明るい喧噪が余計に大きく聞こえてくる、寄る辺の無い沈黙である。
「……信じられないな」彼はようやく言葉を思い出したようにぽつりと呟く。「あの朝比奈さんが」
「うるさい。こんなことだと解ってれば、来なかった」
「いや、なんというか……良いと思う、別に。そういうこともあるってことで」
「励まさないでよ。余計恥ずかしい」
「そんな風に言うなよ。小説、面白かったんだろ。ちょっと信じ難いけど、それで二次創作にも手を出したと。その感情は、きみの沽券とはなんの関わりも無い」
おもむろに振り返る。
こんな場所で再会するとも、あの小説をきっかけに再会するとも、お互いに微塵も予感していなかったことだ。ネットは世界に開かれているはずなのに、なんて世間は狭いのだろう。
「あんたが、あささん」
「……そうだよ」
彼も彼で恥ずかしさはあるようで、上擦った声を出す。彼が世に出してきた小説を既に彼女は読了しているのだと認知した瞬間である。
「読んでくれてたんだ」
黙って彼女は頷く。
「俺、あの時本屋に行ったこと、流石に後悔していたんだけど」口許で微笑んだ。「間違ってなかったのかも」
彼女は顔を上げる。頭一つ分も違う彼の顔は、髪に隠されておらず、きちんとその表情が分かる。混乱は隠せないけれど、歓びを噛み締めているような穏やかな表情である。昆虫だった頃からは想像できない、本心を露わにした顔である。
その後、彼女の鞄には「あさ」さんの小説が入り、なんだかんだと、また会う約束をつけた。彼等はかつてお互いの人間性を好きだったわけではないけれど、同じ好きになったものを通じて、繋がりあう。罰ゲームでもなんでもなく、そうしてみたいと思ったから選択した。それは、表面上の付き合いであった恋人ごっこよりもずっと深く、心の深淵で通った瞬間であった。
了
「にせものラヴァーズ」
三題噺お題:恋人ごっこ、知らんぷり、テレパシー
いいなと思ったら応援しよう!
