
わたがしだらけ
わんこがしきりに舐めてくる夢を見る。ほけっとした憎めない顔つきをして、はっはっはっと忙しなくあったかい湿った吐息を出し入れして、暖簾のような舌をだしっぱなしにしただらしなさ。ダックスフントであったりコーギーであったり、豆柴であったり、ゴールデンレトリーバーであったり、ダルメシアンであったり、パグであったりチワワであったり、種類は多岐に渡った。種名を記憶していない、テレビでしか見たことがない凜々しい立派なわんこも、その夢ではみんなだらしなかった。
俺はいつもそんなわんこの舌にもみくちゃにされている。べろべろん、くすぐったいだろ、ぺろぺろ、やめろっ、ああ、うふふ、もふもふ、ふわふわ、べろんべろん、きゃっきゃうふふ……よくわからない湿った、でもふわふわした甘い幸福にまみれて自意識も失われてフライアウェイした頃、頭部に強い衝撃が襲いかかり、ようやく目が覚める。それは寝相が悪すぎてベッドから落ちた場合であったり、母親に叩き起こされた場合であったり、枕元に置いた目覚まし時計が落ちてきた場合だったり、いろいろだった。そういった類の夢を見た日は、何かしらの物理的衝撃が無いと目覚めないのだった。
割と真面目に、自分にはわんこに興奮する性癖があるのではないかと内心悩む。
至ってノーマルな自己評価は間違っているのだろうか。
試しにどこかのおばさんが散歩しているブルドックをさりげなくまじまじと目で追ってみたのだが、幸福感だとか興奮だとかは一切発露せず、不審な視線を返されて逆にいたたまれなくなった。近日中に夢にはそのブルドックが登場してラブラブにダイヴして更にいたたまれない朝を迎えたので、そういった行為はやめた。
この情緒の正体が一体なにものか、意を決して彼女に相談した。そう、俺にはちゃんと彼女がいるのである。その彼女は怪訝な表情を浮かべ、絞りきった答えとして夢占いを勧めてきた。朝のめざまし占いみたいなおみくじ感覚のものは気にならないのだが、占い、それも夢占いという一層スピリチュアルなものは疑わしいし、どことなく恐ろしくて二の足を踏んでいる間に、彼女から別れ話が切り出された。気色悪い男としてカテゴライズされてしまったのだろう。解せない。
次に友人に相談した。クラス替えをして席が前後になって話すようになったが、テンポがちょうどよく合うのでなんとなくそのままつるむようになった奴だ。
彼女との失敗から学んだのであまりことこまかに話さずにざっくりと「わんこにもみくちゃにされる夢をよく見てなかなか起きれない」と話した。これだけでもなかなか頭おかしい字面である。一方友人は「ふうん」とこれ以上無い適当な相槌を打ちながらスマホゲームから視線を離さない。真剣さをそれとなくちりばめるとゲームを止めて、「それって何がやばいん?」と逆に尋ねてきた。
「朝起きれないこと以外は特に問題無くない?」
それだけでも充分大きな問題だとは思う。
「いや……俺、なんか変なんかなって」
「考えすぎだろ」なんでもないことのように笑った。「人間、ちょっと他人と違う部分なんてそれぞれあるもんだし」
どこか達観したことを解ったようにさらっと言うのだけど、それが鼻につかないのがこいつの人間としての特性である。
「わんこの夢に興奮することが?」
「そういう人もいるよ。大体、夢だろ。幸せな夢ならますますいいじゃん。なに、夢精して汚すから困ってんの?」
最後の質問は黙殺した。
「猫でも見たら? 猫カフェに行くとかさ、犬のイメージが相殺されるかもよ」
なんだその謎理論は、と思いながらも、悪くはない予感もした。多分夢占いよりはマシだ。
ついてきてくれるらしいので、放課後になってその友人と初めての猫カフェに向かった。気恥ずかしかったのだが、友人は気にも留めていないようにあっさりと可愛らしい女子向けっぽい木製のドアを開けた。男子高校生二人が猫カフェに来る光景を果たして店員はどう見たのだろう。考えすぎなのか。
猫は可愛かった。ちいさい子は両手にすんなり収まるような、かよわい、守ってやらなければならないような父性のような部分が刺激されるような気もした。猫はすましたいけすかない印象があるが、人慣れしているやつばかりだし、ちょっとしたでぶ猫なんて胸を覆うあったかさやもふもふ加減がたまらないような気もした。夢でのわんこたちの激しすぎるスキンシップとは真逆のおとなしさに純粋に癒やされるような気もした。でもそれって一般的な感覚だろう。同行した友人もそれなりに幸せそうだし、スマホで写真を撮りまくっててこっちが恥ずかしいくらいだった。
「つまり、考えすぎなんだよ」
猫の写真を待ち受けにして満足感を得た顔で猫派の友人は言った。こいつ俺をだしに使ったんじゃないだろうか。
制服に獣のにおいが沁みついただけであとは変わらなかった。翌日また夢を見た。にゃんこではなく一貫してわんこだった。休日だったこともあり延々と放っておかれ、夕食の時間になって落とされた母の雷でようやく気がついた。考えすぎと言われてしまえばそれまでだが、隠された性癖というより一種の病気ではないかと不安になる。生活に支障が出るのは困るが、決して夢の内容自体が嫌なわけではないし、夢を見ている間はむしろ底知れない多幸感に包まれるのが複雑なところである。
不安が拭われる前に、夏休みに入ろうとしていた。夏休みの途中では近所で花火大会という一大イベントが来る。元カノと一緒に歩くはずだったイベントである。代わりにかの友人を含めた数人と行くことになった。何故こうなった感は否めないが、花火大会だというのに家で過ごしたりましてや家族と行くなんて猫カフェ以上に恥ずかしい。
そして、もう一つ大きな問題として、これは学校という閉鎖空間だからこそ起きてしまう悲劇なのだろうが、元カノが僕の夢について漏らしてしまい、あることないこと膨らませながらおかしな噂になって、頭おかしいやつという不名誉なレッテルを貼られてしまった。所詮は夢の話であり、身近な友人達は笑い飛ばしてくれる。それにこんなつまらん噂話は退屈な学校生活における刺激の一環であり、時間と新たな話題が解決してくれるだろうとは思いながらも、意外に痛みを伴った。
当初は彼女が唯一になるはずだったが、結果的にこの友人がこの一連の恥ずかしい夢について相談できる相手になってしまったため、たまにその話をぼんやりとするようになった。聞いているようで全然聞いていなくて、聞いていないようでやっぱり全然聞いていないので、真剣に聞けよと言いたくなる時もあるが、徐々に俺の方も慣れてきて、仕方ないかもしれないと受け入れるようになっていた。普通を求める俺の実生活に影響が出ているというのに、何が仕方ないんだという話ではあるが。
夏期講習の地獄が終わってから、懐かしの駄菓子屋で安い棒アイスを食べる。コンビニは学校のやつがいる可能性があった。奇異な視線にも疲れるものだ。
「大変だなあ」
実に他人事として友人は言う。
直射日光に当たると秒でアイスが溶けるし、単純に暑いため、僅かに出来た軒下の影で頬張る。背後で扇風機のからから回る音がして、店主のばあちゃんが奥の畳であくびをしている。軒先では柴犬が気怠げにアスファルトに突っ伏していた。夢に出てくるわんこもあんな感じでだらしない体格をしている。いっそ俺もああなりたい。もしかしてわんこになりたい深層心理だったりするのだろうか。そんな暑さにやられた思いつきをふと言ってみると、
「おれも猫になりたい」アイスを噛み砕きながらぼやく。「夏期講習、面倒臭いから」
ものすごく適当なことを返された。
それはそうとして、アイスは美味い。きれいにたいらげた頃、隣で小さな声があがった。
「当たりだ」
「え?」
「意外と運がいいんだよな」
得意気に木の棒を見せびらかしてきた。確かにあたりと印字されている。都市伝説ではなかったのか。
そして、その小さな棒が差し出された。
「やるよ」
「え?」単純なロボットの一つ覚えみたいに同じことばかり繰り返した。
「おれの強運で、お前の不運が相殺されるかもしれない」
聞き覚えのある文句である。
正直に申せば唾液まみれであろうものを受け取るのもばっちいという思いも無いわけではなかったのだが、ちょっとまいっていたのだろう、おとなしく受け取った。扇風機を一身に浴びている奥のばあちゃんに見せると、無言で冷蔵庫を指差された。適当に取れ、という意らしい。慣れないことで少しおどおどとしながら、アイスをもう一本取り出す。おまけを食べている間に、友人はなんだかんだ英単語帳を開いて何かを出し抜こうとしていた。柴犬は鼻提灯でも浮かべる勢いで爆睡していた。
そしてその夜はそのだるだるとした柴犬が溌剌として俺に飛び込んできた。アスファルトに投げ出していた活力が無かった舌でこれでもかと舐め重ねてきて、もふもふで押しつぶしてくる。そして俺はかけられるわんこ圧にまみれて苦しいどころかなぜか途轍もなく幸せで、思考はわたがしのごとく中身がなくなって、トリップして、もうなんでもいいやとそのふわふわの幸福の渦に身を委ねているのだった。
やっぱり病気かもしれない。
ベッドから落ちて、花火大会の当日をそうした柴犬の夢と共に迎え、LINEで友人達が会話を重ねているスマホ画面を全然違う世界の出来事みたいに眺めた。窓から差し込む陽光は夕方のものだった。起きたばかりだというのに待ち合わせ時間が近い。目覚めたばかりの瞬間は、夢があまりにもはっきりとしすぎていて、リアルの方が現実感が無い。
特に大きなきっかけがあったわけでも興味があったわけでもないが、夢心地のまま「夢占い 犬」と検索をかけていた。生々しい傷を残していった元カノのアドバイスである。
一瞬で膨大な検索結果が出てくる。適当に上位に出てきたサイトに踏み込む。
急に意識が冴えてくる。
夢占い業界では、犬は親しい人を示し、更に区分すると犬は男性の象徴でもあるらしい。舐められる夢はそれをどう感じるかで意味が異なるようだが、幸福感を覚えていれば、恋愛的発展うんぬんかんぬん。
「え?」
咄嗟にかの友人が脳裏に浮かんで、コンマ数秒で打ち消した。
床の上で固まったまま、他のページも確認する。全部が全部同じではない。いろんな夢占い論理が展開されている。少しほっとした。あくまで占いである。そしてあくまでこれは女性目線での話である。冷静になってみると若干でも動揺した自分が恥ずかしい。
振り払うように身支度をして、待ち合わせ場所である駅前に向かった。家を飛び出して、息が切れそうになりながらも走った。驚いたのか、途中で吠える声が聞こえた。わん、と一声。無視した。夢のわたがしみたいなふわふわした多幸感をできるだけ打ち消そうとした。
駅前では既に人数分集まっていた。律儀な奴等なので、きちんと時間に合わせてきたのだ。
「また夢でも見たか?」
遅刻した俺をからかうように友人が言う。ひそひそと仄暗い、悪い意味での嗤いネタとして回ったこの話題をなんでもないように笑って言える奴は限られている。
いや、そっち?
と思わざるを得ない。わんこの方ではなくて?
あくまで夢の話だ。そう言い聞かせているのも束の間、よくつるむ奴等とわいわい、夏期講習がどうこう、宿題がどうこう、お盆がどうこう、口うるさい先生がどうこう、と話に話を咲かせていたら気が紛れた。
やがて現地に辿り着く。真昼の名残のような蒸し暑さが人波を包み込んでいた。夜といってもだらだらと汗が垂れていく。凄まじい人だかりで、見失わないようにするだけでも大変だった。
祭は地元での開催なので、知り合いとも擦れ違う。元カノの姿も見かけた。俺のことには気付かなかったようで、彼女もよくクラスで一緒に話している友達と祭を楽しんでいるようだった。結局噂なんて気にしているのは俺だけで、考えすぎで、本当にどうでもいいことだと実感する。当たり前みたいにカップルも見かけた。あいつらそうなんだとしげしげ眺めた。
花火の場所取りは別の友人がしてくれていた。それぞれお礼を言って、率先して交代要員を申告したのは猫派の友人だった。言葉に甘えて、夕食代わりの焼きそばや、たこ焼きや、きゅうりの浅漬けや、ベビーカステラなどそれぞれ両手に買い込んで随分なごちそうになった。祭の夜が創り出す非日常的な空気にすっかりほだされて晴れやかな凱旋気分で持ち帰ってみると、友人はしれっと単語カードを捲っていた。
「えーっ祭まできて何やってんだよ」
「勉強だよ」
極めて冷静に返され、信じられないと土砂降りのごとく非難が飛び交って、わかったわかったとポケットにしまわれて、買い込んだ食料を囲む。
「どんだけ食う気」
と友人は呆れながらも、焼きそばを啜った。その後は、見え隠れする歯に青のりが貼り付いていた。
周囲の賑わいは増していくが、水に薄めた藍はどんどん濃厚になっていき、空は既に暗くなっていた。
やがて、前触れもなく鮮やかな炎のきらめきが空を飛ぶ。軌跡が途切れ、間もなく大輪の光の花が炸裂し空を彩った。遅れて、おもたくみぞおちまで響く巨大で深い音。
分散していた人々の意識が一気に花火に集まる。おおとどよめきのような歓声があちらこちらであがった。つられて俺も声をあげた。空から見たら、無意識のうちに一致団結して顔が上向いて、面白い光景だっただろう。
花火が次々とあがる。最初から惜しみなく繰り出されて見入っていた。ぼうっとしている最中、ふと友人を見やった。視線を感じた予感がしたからだった。奴はやや驚いたようだったが、明滅する光に照らされて、いたずらに口を指差して笑っていた。なに、と問うと、口をあんぐりと開けているのが犬みたいだ、とのことだった。ただ馬鹿にされていることはよく解った。仕返しのつもりで歯に付いた青のりを指摘すると、すました顔をして、唇のあたりの皮膚がうごめいた。隠された場所で舌が青のりを払っているのだ。ふわふわしたなにかが意識を掠めた。
この情緒の正体がどういうかたちをしていたとしても、彼との関係性は良好でありたいと思った。
了
「わたがしだらけ」
三題噺お題:駄菓子屋、空を飛ぶ、くすぐったい
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