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約束のティータイム
「おかあさん、見て」
幼子は母の薄い裾を引き、丸みを帯びた指を空へ向けた。
指された先では黒い鳥がゆるやかに旋回している。細長い笛のような鳴き声が彼方からあたりに拡散し、豊かな草原を揺らすそよ風に乗っていく。
「あれはなんのとり?」
「鳶ね」
独特な鳴き声がかの鳥と知らしめる。あの声の正体を知ったのはそういえばいつのことだったろうとうすらぼんやりと記憶に目配せするが、明確な答えは浮かんではこない。
「もしかしたら私たちの食事を盗もうと狙っているのかもしれない」
「ぬすむの?」
珠の瞳を更に丸くして尋ねる。かすかな怯えと好奇心が浮かんでいる表情が可笑しいのか、母は微笑む。
「そうかもね。注意しないとひゅっとやってきて」手元に用意しているサンドイッチをすっと取って頬張る。嚥下した後、いたずらに笑う。「ぱくっと食べてどこかに逃げちゃう」
「こわい」
反射的な恐れなのだろう、幼子は顔を顰める。
遙か下の地上からあの翼を眺めている分にはさほど巨大には見えないけれど、一瞬の隙を狙い急降下して肉薄する。獰猛な本能が翼となって襲いかかり、強靱な嘴や爪が獲物を狩っていく。声を抑え、翼の動きも最小限に、あまりに音もなく。平穏なしじまを保ったまま切り裂いてくるから、襲われた側はごく傍に接近するまで気付くことすら叶わない。刹那の襲撃について、幼子は想像を巡らせたのだろうか。あれほど遠い鳥の俊敏な動きについて。
なんだか愛らしくて、いじらしい。
「もしかしたら、こうやって」健気に裾を握りしめたままの幼子を唐突に抱き込んだ。「盗んでいっちゃうかも!」
「きゃーっ」
小さな悲鳴にも似た歓声が胸の中であがって、不安がどこかに吹き飛んで幼い顔に朗らかな笑みがぱっと咲いた。
草原に持ち込んだ小柄なガーデンテーブルには食べ残されたサンドイッチが転がっている。卵を挟んだもの、レタスとトマトを挟んだもの、瑞々しい果物と生クリームを挟んだもの、食べやすいように掌サイズに切り分けて弁当箱に詰めて持ってきたけれど、張り切りすぎたようだ。上空から見定めようとする鳶には、鮮やかな御馳走として映ってもおかしくはないだろう。本当にかの鳥が飛び降りてくる惨事を避けて、母は順に蓋をしていく。
鳶に興味津々の娘はぐるぐるとゆったり視線を動かし、彼方の翼の動きひとつひとつを焼き付けるように見つめている。
急降下のアクシデントが起こったとしても、この娘は恐怖と同時に大きな興味関心を掻き立てられる興奮を得るのかもしれない。そう想像すれば、鳶の邪魔も悪くはない。けれど、時を忘れた若草色の休日は、どうせならば穏やかなままで、お喋りに夢中で笑っていたら陽が傾いたり、安らかな寝顔を眺めていたら夜になっていたり、まじりけのない時間を過ごしていたいと思う。
こうした二人だけで過ごす時間ももう長くはない。
持参した水筒を開けると、ぬくもった湯気がもうもうとはみ出ていく。ティーポットとティーカップを用意すれば絵に描いたような理想的な午後のひとときになるだろうけど、子供との遠足にはちょっとした充分だ。気に入っている甘い紅茶を一口含んで、サンドイッチの詰め込まれた空間にあたたかなものが沁みていくのを実感する。腹部に意識を寄せると、自分と、自分でないものの繋がりに意識が向く。
娘が母の隣にちょこんとやってくる。いつのまにか鳶の声は遠くなっていた。
「どっかにいっちゃった」
恐ろしげに顔を歪めていたというのに、今はつまらなさそうである。
「恐くないの?」
「こわいけど、もっと見てみたい」
「そっか。家に帰ったら、図鑑でも出してみようか」
「もうかえるの?」
黒い瞳が見開かれた。
「もう帰りたい?」
「ううん」子供は慌てて首を横に振る。
「じゃあもうちょっといよう。お母さん、お腹いっぱいで動けないや」
そう言って、母は掌を腹部に乗せる。
娘は目をぱちぱちとまたたかせ、ゆったりとした洋服の下に心の視線を寄せる。
その表情は、鳶を眺めていた物静かな横顔とも、草原をはしゃぎ回る快活な笑顔とも異なる。彼女は大人への道を一歩一歩踏みしめていく。その過程で出逢うことになる存在を、心待ちにしているのだった。
「赤ちゃんうまれたら」母を見上げて、冴えた言葉を続ける。「みんなでまたこようね。おやつと、サンドイッチと、もってきて、たくさんあそぼう」
「そうね。楽しみだね」
「うん」
幼子は膨らみ始めたお腹を優しく包む。
「やくそくだよ」
了
「約束されたティータイム」
三題噺お題:そよ風、安らかな寝顔、甘い
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