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ザッハトルテ

 おとといの深夜のひとときが胸に過る。
 胸に過る、とはどういう感覚だろう、と女は思考する。しかし、思い返した瞬間、脳というよりも胸を貫いたような感覚があった。胸には何の刺激も無いはずだ。いや。女は長く丸めた睫毛をまたたかせる。今まさに背後から摑まれているのだけれど、あまりにも表面的で情報としてきちんと処理されていない。
 おとといの男は女と外観年齢が近かった。随分老いた人間を相手にすることもあるため、妙な親近感を覚えたのは嘘ではない。明治維新を経て急速に欧米化が進み、近頃洋装も流行ってきたものだが、庶民にはまだ江戸の記憶が強い。身分は明らかでないが、示し合わせたように互いに和装であった。鴨川を渡す橋に寄りかかる立ち姿を見ただけで、この男が今夜の相手なのだと確信を持った。
 日が落ちてから久しく、夜は既に更けていた。さっさと寝台にもつれこむと思い込んでいたが、男と顔を合わせてまず大きな布袋を渡された。中を覗けば紺の布と赫の布が一枚ずつ丁寧に畳まれていた。折られた部分に白百合のような絵柄の欠片がある。上等な浴衣だと女は察したが、何故このようなものを自分に渡されたのか理解に至らなかった。
 以前遠くから女の姿を見て、きっと似合うと確信したのだと男は言った。女は襤褸布の浴衣しか持ち合わせておらず、この日もただ肌を浅く隠すためだけの衣を着ていた。
 夜が更に深くなりゆく最中に女は己の帯を解いた。
 ごく薄地の下着の上に着られた、深く染め上げられた紺は白い光に当てられるほどその深さが浮き彫りになり、逆に大柄の白百合は華々しくも艶やかであった。いやな主張ではなく、堂々とそこにいるべきだから咲き誇っているだけのすました迫力を発していた。たった一枚の布を帯で締める。原色的な赫ではなく仄暗い色合いをしている。静脈血に似た色をしており、白百合を挟み込まれる。髪を透明で地味な簪で留め、女は振り返った。
 衣替えの間も彼は手出しをしなかった。
 男は満足げな表情を浮かべた。その後は下駄の音を鳴らしながら石畳の道をゆっくりと歩いた。女は特に急かさなかった。どうせ最後は決まっているのにまどろっこしいことだと内心呆れていたが、品のある衣には少しだけ心が揺れた。
 会話は殆ど無かった。なんだかあまりにも空虚だったので女は不安を覚えた。男の意図が理解できない。金さえあればどれだけ時間を過ごそうと構わないだろう、と何の気なしに言った。温もりも冷たさもない平坦な声である。
 静まりかえる鴨川のほとりをずっと歩いて行く。男が持つ小さな提灯が傍を照らしていた。ほのかな淡い炎の光は蝋燭の発するもので、ほんの僅か足下を浮かび上がらせる程度であった。水流が遠いとも近いとも知れず、川から離れた遠景で夜通し点いている建物のあかりがぽつんぽつんと浮かんでいるばかりで、京は重い闇にうずもれていた。女の纏う紺も闇と同化しているが、白百合はごく細い三日月の光を吸い込んで僅かに発光しているかのようだった。
「何故金が必要か」男は問うた。
「生きるため」女は応えた。普段なら軽々しく馬鹿げた言葉を選ぶが、夜気にあてられて本心が疼いた。
「あなたは生きるのに金が必要か」男は問うた。
 何故同じ問いを繰り返すのか疑問を感じながら、女は当然だと返した。だってわたしはにんげんだもの。
「そうか、あなたはにんげんか」
「ええ、そうよ。そう言うあなたは?」
 尋ねると、男は微笑んだ。「わたしも人間だ」
 時間感覚がすっかり失われて気の遠くなる長い砂利道を歩いて行く間に、ふと浮かんでは消える泡沫のような会話を重ねた。脳を通過していないかのような口先だけの対話である。どこか俗世離れした風格を纏った男は異国から帰って間もないのだと打ち明けた。
「それは良いわ」女は目尻を下げた。「異国には興味があるの。最近が青い眼をした異国をした殿方が増えたわ。みな京で見覚えの無い美しい瞳で、たまらない」
「あなたにとって、瞳は好ましいか」
「瞳はすべてを語るわ。魂が宿っているもの」
 男は提灯を少し上げる。ぼやけた灯火が女の顔を僅かに映せば漆黒の瞳に光が淡くちらつく。朧気な光を纏いながら、這い寄るような艶やかな視線を向ける。男は無表情のまま視線を絡ませた。男の眼もまた夜の色をしていた。つまらない色だと女は思った。宿るいのちを掴めない。男の心を引き寄せられない。
「あなたには魂が無いのね」
「隠しているだけさ」
 提灯をもとの高さに戻せば、再び四つの眼は闇に溶けた。
「瞳以外にも興味深いものは多い。異国には上品な茶菓子がある。女性の好む味だ。わたしの舌には合わなかったがね。チョコレイトをご存じか」
「耳にしたことだけ」
「甘怠い味をしている。其れを使った焼き菓子をよく出された。あなたに合いそうだ」
「なんという名前かしら」
 返ってきたが、女には聞き覚えが無かった。
「眼球よりも菓子にでも興味を抱くが良いだろう。その方が余程にんげんらしい」
 女の中にある凪いだ水面に小石が投げ入れられ、奇妙な波紋が広がった。
「忠告をどうも有り難う」
 薄い微笑みを浮かべ、女は男の提灯を持つ手に指を重ねた。二人を闇の中で確かにしていた極小の炎が揺れて消えていった。
 輪郭を僅かに浮かび上がらせるのは、三日月の光である。白百合が静かに咲き誇り、男は女ではなくその大輪の絵柄を見ていた。
「時間稼ぎのつもりかしら」
 波紋の沸いた水底にある苛立ちをわざとらしくちらつかせながら女が問いかける。
「いいや」男は静かに否定する。「美しいものはそれだけで肯定されるべきだろう。あなたにその衣は似合う。暫し傍に置いてみたかった」
「へんなひと」
 女は呟いた。
「惚れてはいるのさ」
「そうかしら」
 女は簪を引いて黒い長髪をするりと解き、真っ黒な川面に向けさりげなく簪を投げた。透いた硝子はあっけない音を立てて水流に呑まれていく。昏い瞳で男の顔を覗き込み、純白の細い指で男の正された襟元に伸ばした。実に男性的な首元に指の腹が触れ、僅かに衣を引く。普通の男は肌に触れた部分からほだされていく。唇を寄せた。しかし男はゆっくりと女を押し返した。
「にんげんであるあなたには興味がない」男は細い三日月と同様に目を細めて笑む。「満月の真夜中、再び相見えよう」
 女は何も言わなかった。ものを語らぬ男の瞳すら見えない。
 あまりに薄い月明かりすらも雲に隠れてしまえば本当にあたりは暗闇になり、二人の間を裂いた。女は白百合の浴衣を身に着けたまま、暗闇に紛れて男の前から姿を消した。

 背後から男のたましいを感じて、女は目を閉じた。
 まだ幾分細い月が満ちて煌々と天頂に辿り着いた頃、あの男はまた現れるだろう。
 たとえば肌を重ねることがあれば、あの男はどのように自分を扱うのだろう。美しい白百合の浴衣をほどいてなにもかもあらわになった姿を前に、舌の上に何を転がすだろう。弱くいたぶるように。あるいは強くこわすように。あの人間になら、自分の洞に広がる深みへ誘ってもいいかもしれない。そうなってどう変容するかは見物だ。或いは、彼であればこの身が殺されるとしてもいいかもしれない。きっと苦しいだろう。その時は男の首を絞めて道連れにすればいい。そこに光を失った瞳が向かい合わせで転がることになるだろう。口にしたこともない焼き菓子などより余程甘いひとときになる。それもまた格別か。
 揺すられる空虚な営みが成される中、女はしんとおとといの男のことを考え続けていた。思考の邪魔なので、ほどなくして、すっかり女に見惚れた双眼をさっさと抉ってしまった。


 了

「ザッハトルテ」
三題噺お題:苦しい、舌の上で、真夜中

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小萩うみ / 海
たいへん喜びます!本を読んで文にします。