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鍵のかかった部屋
瓦礫の重なる森のごく一端で、雪が降り始めていた。
褪せた緑の針葉樹の群衆が騒いでいるのを、私は耳で感じ取った。
亡き師匠から教わった魔法の決まりごとは一つ。相手を傷つけることを目的としない。
その規則に乗っ取って、師匠は私に魔術を教えた。則ち、万物に耳を傾けるということであった。無数の音と声を厳格に聞き分け、取捨し、ただひとつ語りかけるべきもののみに声をかけるように思考の欠片を渡す。魔力とも魂とも呼ばれるものを送り、対価として万物は動く。風は踊り、雲は太陽を遮り、水は川から引かれ、火は立ちのぼる。
雪を降らせているのは私ではない。
枯葉の敷かれたままになった地面がやがて雪道に変わる。感覚の変化を足裏に感じながら、森の奥に建てられた小屋に入る。中で、小猿が床に本を散らかして、そのうちの一冊のページに身を乗せてぶつぶつと何かを呟いているのがすぐに解った。
「雪を止めなさい。家が埋もれてしまうわ」
苦々しく咎めると小猿は振り返る。
「きれいな光景だぞ。あんたもきちんと視ればそんなことを言う気も起きなくなる」
「視なくても解る。寒いのは苦手なの」
「おれも苦手だ」
小猿はききっと笑い、窓にきょろりとした視線を遣ったのだろう。無音でちらつく雪の勢いがやんでいく。
私の瞳がその様子を掴んでいるわけではない。
森で打ち捨てられていた小猿に人の言葉を与えて以来、子が親の声を聞いて言語を憶えていくように、猿は魔法を見よう見まねで会得した。だが、耳を用いて語りかける私と、眼を用いて語りかける猿では魔法のやり方が異なる。猿まねというには独自的だ。視界による情報は耳の感度を下げるから、私はもう随分と昔から視界を布で遮っている。だから目前で本を捲る小猿の姿をそのまま視たことはない。空気の密度や声の質で猿の居場所も形も把握はしているが、色については及ばぬ領域だ。
部屋を暖める暖炉の前に置かれた椅子に腰掛け、紅茶の入ったカップを寄せる。細い銀があしらわれただけの無地の食器には、冷めた紅茶が淹れられている。炎にあてられた空気と茶に意識を寄せ、直後に湯気がふわりと昇る。
「疲れているな」小猿が本から離れ、煉瓦造りの暖炉に軽々と腰掛ける。「例の魔女狩りか?」
「ええ」
深く髪を隠した外套を捲る。銀の髪がさらりと垂れて肌に触れる。
「遠くで二人死んだと風の噂が聞こえたわ。一人は嘗ての同僚だった」
「お気の毒に」
「此の国はもう駄目ね。魔法は自然への問いかけだもの。魔法を狩るとは自然の淘汰だというのに、耳を貸そうともしない」
「あんたの魔法も人間には届かない。いっそこちらから殺してしまえばいいと何度も言っているじゃないか」
小猿は愉しげに足を揺らす。
「ルールなんて破るためにある。おれがそうだ。いっそおれが殺してやろうか」
「馬鹿なことを言わないで」即座に切り捨てる。「視覚による魔法はとりわけ危険なのだから、使い方を誤ってはならないの」
視覚は情報量が聴覚の比では無いが、五感のうち最もバイアスがかかりやすい。思い込みで物事を捉えやすいのだ。世界が狭く知識を持たぬ小猿は短絡的に考える傾向があり、ふとしたきっかけで暴発する可能性について私は随分前から危惧していた。
小猿は笑う。
「おれはあんたが殺されるくらいなら、国の人間が滅んだ方がずっといいと思うね」
「その忠誠心には感服するわ」
「忠誠じゃなく愛だ。何度も言ってるじゃないか」
小猿は大仰に両手を広げた。空気の流れや温度の動きが私に示してくれる。
愛なんてものを扱った本が果たしてこの家にあっただろうか。情愛だとか恋慕だとか、感覚を狂わせやすくするものは魔法を扱う上で邪魔だ。魔法の本質は万物のありのままの把握。それについても繰り返し説いているのだが、小猿曰く魔法とは愛であると。それが小猿の見出した本質らしい。思い込んだまま深掘りしないとは浅はかだ。聞く耳を持たないという意味では魔女を狩る町の人間と変わらない。
「あんたの喜ぶ顔を視てみたいと思ったら、いろいろとアイデアが浮かんでくる。片っ端から試したくなるのさ」
「純粋ね。哀れな程に」
溜息をつき紅茶を含む。小猿の直線的な情には慣れたものだが、時折間違ったものを拾ったのではないかと後悔に似た感情が胸を過る。だが、そのまじりけのなさ故に、彼はみずから魔法を習得している。私に褒められ、私が喜ぶことを求めて探求を続けているのだった。その純粋な向上心は特筆すべきだが、情熱は使いようだ。頭を悩ませながら、席を立つ。
「少し眠るわ。一人になりたいの」
カップを手元のテーブルに置く。
「……わかった」
小猿は物言いたげに口を開いたが、呑み込んだまま項垂れ、本のもとに戻っていった。
部屋を走る軽い音を聞き届けながら、私は本の散乱した居間を後にして奥の自室へと入る。本に埋もれた居間とは異なり、自室は机と椅子、それにベッドの他には何も置かれていない。
鍵をかける。同時に、完璧に魔法が編まれた部屋は音の一切を遮断する。
自然と耳に入ってくる音から解放されるための場所だった。つまりは一人になるための部屋である。
魔女狩りと呼ばれる恐ろしい迫害事件が各地で多発している。長引いた戦争の影響で民衆は疲弊しているのだ。明日の生活も危ういと嘆いた矛先を探す心理に無理も無いやもしれない。社会不安に煽られ、呪術や占術、悪魔といったことばやおこないが、世を攪乱し破壊しているのだと声高に叫ばれている。戦も、貧困も、天災も、魔女のせいなのではないか、と。それはあまりに極論だろうに、思い込みとは悍ましいものだ。極端に狭まった視界では見えるものしか信じなくなり、こころの貧しさは思考を制限する。実際に被害は広がっている。尋問を被った者の中には、本当のところの「魔女」や「魔法使い」でない人間も勿論含まれている。
森を歩き川のせせらぎに耳を傾けていたところ、遠くから同志の絶叫が聞こえてきた。
本当に鼓膜を揺らしているわけではないけれど、耳は感じ取った。掴んでからは早く、脳裏に燃えさかる炎や投擲される石や人々の怨念といった情景が照らされて、共鳴したこちらの全身が焼けてしまいそうだった。
聞こえなくなったはずの密室であるのに、鮮烈な亡霊の記憶はまるでその瞬間に再び立ったみたいだ。
頭を抱えながら、古いベッドに倒れ込む。
魔法使いは昔から粛々と生きている。自然の理解に傾倒するうち、魔法を知らぬ人間の生活から離れるようになった。ゆえに彼等は森の深くに住む。迫害を避けるためではない。世界の構造を解き明かし調和する、個々の研究者であり、はなから俗世に興味などない者が殆どだ。それが俗世から関与されようとしている。ころせ、ひとりのこらず、せかいをすくうため。彼等の思い描く正義のもと。
それに比べれば、小猿の言う愛とはなんと平和なことだろう。
あの愛が、ただしく平和で在り続ければ、きっと何も問題は無い。このまま小猿が魔法を極めようとすれば、存外、私たちに無い視点から魔法を扱い、過去にない発見をする可能性だってある。
しかしそれを期待するには世界が騒ぎすぎている。俗世から遠い森にいてもなお、自然の美しいしじまに呪われた雑音が入り込んでくる。それを完全に遮ることができないのだから、自分もまだまだ未熟だ。思い込みは小猿にばかり言えたものではない、不安というバイアスが聴覚を乱し、意識を不必要に広げて遠くへ向けて聞き耳を立てている。
うるさい。
もう何も聞きたくはない。
そうして、私は部屋に鍵をかける。
しかし、そうしてようやく音を忘れた頃に、微弱な歌が聞こえてくるのだった。
憶えてもいない記憶による錯覚なのか、魔法を擦り抜けてどこか近くか、あるいは遠くかからやってくる子守歌なのか。拙い子供のような声だけれど、どこか懸命で、優しく、純粋に透いた少年の声。誰かに向けて歌っている。ただ、その声を聴いていると、身体の奥底の、すっかり冷えていたとてもやわらかい部分があたたかく解されて、心に浮かぶ悲哀や恐怖が薄れていく、ひどく泣きたくなるような感覚に浸るのだった。
じっとその歌を聴いているうちに、穏やかな眠りにつく。
明日は己にふりかかるかもしれない恐怖を忘れて、本当の静寂へと誘われる。
固く閉ざされた扉を背に、膝をかかえた少年は口を閉じる。
部屋の中は何も掴めない。自分は未熟で、魔女の気持ちを少しも分け与えてもらうことができない。けれど、魔女が喜んだり、笑ったり、哀しんだり、そういった感情の細かな機微は不思議と解るような気がするのだ。それは彼の魔法なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。これが魔法なのだとすれば、魔法は愛情に由来するという彼なりの結論はきっと間違ってはいないのだと、彼は思う。
森の奥に置き去りにしていった人間たちなど少年にとっては蛮人であり、まさしく猿なのだ。そんな奴等が魔女を殺そうとするのなら、どんなことをしてでも魔女を守ってみせる。でも、そんなこと、ずっと来なければいい。ずっと、魔女が傍にいてくれれば、それでいい。
少年は瞳を閉じて、魔女に一番近い場所で眠りにつく。
夢に思い描くは、あまりにかたくなな漆黒の布に隠されたあのひとの双眸。
銀色の美しい、人離れした髪の下に覗くであろう二つの瞳は、どんな形をしていて、どんな色をしているのか。その顔を、すべての表情を視てみたい。いつか視てみたい。そしてどうか視てほしい。耳が感じるものではなく、隠されたその眼で、五体のすべてで以て視てほしい。猿の子である自分の、ありのままの姿を。
了
「鍵のかかった部屋」
三題噺お題:一人になりたい、子守歌、亡霊
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