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マゼンタ色の海
心中を決心し、僕はそのひとと共に宇宙に身を投げた。
しかし、どんな危機的環境においても瞬時に対応するように組み替えられた遺伝子は、無重力空間にすら適応してしまった。
僕たちはそうなると予想できなかった。誰も挑戦しなかったからだ。あるいは、誰かが試みたけれど結果が伏せられているのか、それともたまたま僕たちが突然変異種だったのか。
永久機関銀河ステーションを小さなスペースシャトルで脱出した僕たちは、恐怖で滲んだ手をお互いしっかりと握りしめ、会話を試みた。暫く、ぼんやりと、他愛も無い話をした。あれが好きだとか、あれが嫌いだとか、うっとりするほど美味しかったものの話だとか、吐きそうなほど不味いものの話だとか、つまらない本の話だとか、掃いては捨てる、薬にも毒にもならないものを積み重ねてそのたびに忘れていった。話が尽きると沈黙が訪れる。その苦しい沈黙を受け入れるまでには少し時間を要した。僕たちの計画では、スペースシャトルに詰め込んだ燃料が尽きる地点がゴールだった。コンピュータの自動操縦機能に任せているだけで、安全に航行できる。だから僕たちは、僕たちの間のことがらだけに集中していれば良かった。それでも生まれる沈黙、すなわち宇宙に投げ出された沈黙、二人で選択した孤独を、心のどこかがまだ拒否しているようだった。どうにもならない空白を埋めるように、消えた言葉の代わりに身体を寄せて、重ねて、一つであれば何も恐くないと、ひたりと合わさるかたちを確かめた。濡れる睫毛のきらめきや、発露するぬくもりをじっと見つめた。優しく撫で、時に傷つけあった。穏やかなひとときであり、同時に慟哭でもあった。幾度も繰り返していくうちに、本来の動物としての姿に変化していくような錯覚を抱いていた。
いきどまりの場所は何もなかった。あらゆる営みを語り尽くした僕たちは恐怖を克服していた。僕たちは、僕たちというかたちを保ったまま、一種の宇宙の最果てまでやってこれたのだった。
スペースシャトルの全ての機能を停止させた。しごく穏やかな顔で、無音の動力室にある緊急脱出用ハッチに取り付けられていたアナログの鍵を解錠する。抱き合い、最後は手を繋ぐ。
そして僕たちは宇宙に身を投げた。
酸素が枯渇していく苦しみではなく、強く握りしめた掌に意識の矛先を集中させた。放っておけば勝手に生命は途切れる。そのはずだった。
一向に苦痛がやってこなかった。時間という概念から切り離されて随分だったが、あまりにも長いので流石に違和感を抱いた。お互い、そうだったのだろう。遙か何億光年分も向こう側の星光に照らされた僕たちは、互いの顔を見合わせ、死ねない事実を知った。僕たちは動物などではなかった。得体の知れない生物的ななにかだった。
よるべはお互いの掌だけである。
僕たちは失意を胸に、宇宙を静かに遊泳した。
標は無い。誰かが連れて行ってくれるわけでもない。無限というのは果てのない孤独だった。
その間、僕たちはいくつかの星に辿り着く。近付くこともできない激しい嵐を纏う星もあれば、高密度のガスで出来た星もあり、毒の雨が降る星に、何もない星もあった。それぞれ、その環境に合った生物がいた。奇妙な環境ばかりだったが、あちらからしてみれば僕たちの方がよほど異端であったろうし、僕たちも、自分たちの異物感を自覚し、何度も宇宙に旅立った。
やがてやってきた星。銀河ステーションを出発してから一体どれだけ経ったのか定かではないけれど、気の遠くなる距離を泳いできたことは確かだった。
そこは朽ちた星だった。真っ暗で、誰も居なかった。しかし、僕たちはさざなみを聞く。初めはそれがなんなのか解らなかったが、胸を妙に掻き乱す、ひどく懐かしい音だった。引いては寄せる音に呼び寄せられるように辿り着いた場所で、波打ち際の変化を見つめた。これが水であり、ひいては海にあたるのだと、ゆっくりと理解する。
僕たちは一つになったままの掌を離さずに、じっとそのさざなみに包まれながら日々を過ごした。眠り、起きて、ぽつりぽつりと忘れかけていた言葉を吐き出すようになった。
やがて、その海、水平線を照らす僅かな光が、星の向こう側、ずっと遠くの恒星によってもたらされた。
無色の僕たちを照らす、色鮮やかな光。あれがなんの光なのか、そもそも星なのか、ここはどこなのか、少しも解らない。だが、僕は、国に戻ってきたのだと唐突に思った。とわに活動する身体で生まれてきた僕たちは、どこか遠い国を求めてずっと旅をしていたのだ。自らに浮かんだうたかたのような気持ちをきみに伝えると、光に照らされた笑みを滲ませて静かに頷いた。
恐る恐る手をほどく。音も無く肌がこすれあって、離れた。立ち上がった僕は、凪いだマゼンタ色の海を前にして、胸の奥底から込み上げてくる感情がそのまま形になった、一筋の涙を流した。
了
「マゼンタ色の海」
三題噺お題:懐かしい、心中、どこか遠い国
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