「集団」になっちゃだめじゃない?
青年海外協力隊を経て、アメリカ暮らしをしたのちシルク・ドゥ・ソレイユで世界各国を10年ほど働きながら旅してきた経験から、日本の記事を比較・考察し、つぶやいているUmiです。
カナダが国全体で使い捨てプラスティックの制限を始める動きを見せた。この動きに羨ましさを覚えた。
結論から言うと、高い能力や聡明な判断・決断ができる「多くの個人」が同じ目的や目標をもって同時多発的に動く方がいい!
日本の強みの一つに集団性がある。団体競技や企業などで結果を残しているのは日本人の持つ献身性も大きな要因であると思う。
その反面、ブラック企業や理不尽な社会にも献身してしまうという負の見方もできる。さらに集団性のマイナス面に、周囲との同調性や右に習えで自己判断をしない・させない空気を出してしまうこともある。
しない・させないその空気は、ルールを遵守する国民性という良い方にも現れるので必ずしも負の要素だけではない。
そこで正しいと思うことを「集団」を作ってやろうとするのが良くないのではないかと考える。集団になると集団に所属することの安心感で考えない人間が増える。そうではなく「多くの個」が自ら考え、同じ目的・目標を持ってやることの方がより意味があり、力強いのではないかと。
トップダウンや軍隊式の方が命令系統は楽だが命令以上のことができないし、そもそも命令が間違っていた場合は大勢で間違ったことをしてしまうリスクがある。
欧米は基本的には個人主義だが、良いと思ったことに「個」が賛同して同じ意思のもと物事を動かしていくのに長けている。その分自分の言動に責任も伴うから、ディベートにも長けている。だから時に変化のスピードが凄まじく早い。(遅いこともたくさんあるし、身勝手なものも多いのも事実ではあるが)
日本はどうだろう。
民主主義の割には個の意思が弱く、物事を決定するのに他や国際社会の動向を見ながら判断していて動きが決定的に遅く後手に回りがち。
では何が違うのだろうか?
根底には教育の違いがあると思う。それと何世代にも渡って受け継がれる国民性。そして私が考える最大の問題は詰め込み型の教育で自ら考えること、俯瞰的に考える能力が退化したことではないかと。もっと優秀な個人が育つ教育環境が大切だ。
そのために何ができるか。国民性を変えるのは容易なことではない。しかし、考える力や俯瞰的に物事を捉える能力は頭の切り替え方次第で今すぐにでも変えられる。これらの能力や高いレベルでの判断力・行動力のある「多くの個」を育てなければならない。それが結果的にただの詰め込まれた集団ではなく、個がしっかりとした意思のある大きなまとまりとなる。
日本の民度が高いからこそ、国際社会で意見を言える立場になれる存在
日本の民度は国際社会から見ても格段に高い。謙虚さは日本の美徳で誇るべき文化だ。その謙虚さを維持したまま自分たちの民度の高さを再認識し、もっと自信をもっていいと思う。
国際社会で正しいことを正しいと主張し、国際社会をリードしていく存在になるべきだ。良いリーダーは率先して良いことを実践しているはず。良いことは実践し世界に見本を示すべき! その良い例が核に対する姿勢だ。こういった絶対的に正しいと思うことには堂々と正しさを示していくべき。
環境に配慮することは結果的に自国民も他国民も生態系も守ることになる。それを国内の少数の企業が不利益を被ることや利便性に悪影響が出るかもしれないということで二の足を踏んでいるのなら、視野が狭すぎると言わざるを得ない。
現存する全てのモノは元々は無かったものから生み出されたものなのだから無くても大丈夫なはずだ。ただ便利さを失いたくないだけなのだから、知恵を出して代替していけば良い。