知冬のからだ
短編小説
◇◇◇
1
そして知冬は、ぼくが見ている前でチャコールグレーの手袋を脱いだのだった。ぼくはこのとき、どんな表情をしていたのだろう。自分のことながら、今もって思い出すことができない。ぼくは、手袋の下から現れた彼女の手を見ていた。現れるはずだった手を見ていた。現れるべきところに現れているはずの手を。見えていないのに見ようとしていた。
2
知冬が手袋を脱ぐその三十分前、ぼくらは予約した市内にある創作和食料理のお店の席に案内されていた。モダンな内装の、二人用の個室だった。木でできた黒塗りのテーブルにシンプルなデザインの椅子が差し向かいに設えられ、天井から吊された二灯のペンダントライトによって、温かな明かりが投げかけられていた。ここは知冬が気に入っているお店だという。コートを脱ぐと、ボルドー色の上品なハイゲージニットを着た彼女の細身の体が現れ、少しの間見惚れてしまう。運ばれてきた料理を口にしながら、ぼくは、知冬が話を切り出すのを待っていた。今日は大事な話があるというのだ。個室を選んだのも何か事情があってのことなのだろう。
ぼくは妙に緊張していた。知冬に交際を申し込んだのは先月のことだが、正式な返事は頂いていない。まだ付き合ってもいないのに、別れ話を切り出されそうな悪い予感ばかりが頭の中を駆け巡っていた。それは、彼女が何かを思い詰めている眼差しをしているからだった。それでいて、眉や頬や口元は定位置に整えられて収まり、微動だにしない。一人の人間が何かしら強い決意をしたときの表情に、ぼくには思えたのだ。
知冬は手元にあった白ワインを飲み干すと、空になったグラスをテーブルの上にコトリと音を鳴らして置いた。彼女は左手にチャコールグレーの手袋をあてていた。コットンを素材にした薄手のものだが、食事中もずっと嵌めたままだったのだろうか。向かい側で、彼女が居住まいを正してこちらを真っ直ぐに見つめているのがわかり、緊張が走る。早くぼくを楽にして欲しい、と心の中で思った。
知冬は、交際の返事が遅れてしまったことを最初に詫びたあと、ぼくにこう言った。
「真佐也さんのお気持ち、とても嬉しかったです。今も、そのお心に変わりがないというのであれば、どうしても私のことでお話ししておきたいことがあります」
すごく丁寧な言い方で、こちらの背筋もぴんと伸びる思いだった。知冬はぼくと同い年だというが、ぼくが知っている二十七歳の同期連中には、このような言葉遣いの者はいないため、ドキドキしてしまう。彼女は何かしら事情を抱えており、それをこれから打ち明けようとしているのだ。ぼくには予想外の話の切り出し方だったが、交際への道筋に光明が差しているのは感じていた。
「知冬さん、ぼくはどんな話だろうと受け止めるつもりでいます……でも、ちょっと怖いな。さっきからずっと緊張してる」
正直にそう言うと、知冬の表情がふわりとほどけて、いつもの喜怒哀楽が素直に表にでる柔らかい顔になった。やはり、彼女も緊張していたのだろう。
再び、真面目な顔に戻ったので、ぼくも神妙な顔で耳を傾けた。
「私の話は、どなたにも、到底信じてはもらえない話です」
「どなたにも……とうてい……?」
「はい。私の、特殊な体質についての話です」
そのあと知冬がぼくに語った話は、個室でなければ到底話せない内容であり、誰であろうと信じ難い奇妙奇天烈な話だった。
「私、体の一部が透けてしまうんです」
「透ける……どういうことでしょう?」
「全部が透けるわけではなくて、肩から先が透けたり、腿から膝までが透けたり」
「知冬さん、ちょっと待って下さい。ぼく、まだ理解が追い付いていないです……透けるって、つまり、透明になるということですか」
「はい」
「手や足が」
「はい」
「なくなってしまう」
「いいえ、なくなるわけではないんです。あるんです。手も足も体も、元のところにあるんです。ただ、光が当たっても透過してしまうために、透き通って目に映らなくなるだけなんです」
ぼくは頭の鈍い人間なのかも知れない。知冬の話を一度では理解できず、何度も訊き直していた。奇想天外な内容なので、イメージが湧くまでに時間がかかった。それでも彼女は辛抱強くぼくに説明してくれるのだった。
知冬によれば、この体質は遺伝的なものであり、体の一部が透明になる現象は、二十歳の頃から始まったとのことだった。
「私の父、そして、母方の祖父も、体の一部が透けています。でも、私ほどではありません。私は、透過する症状が顕著なんです」
知冬が言うには、体の透明化は特定のパーツごとに区切られたブロック単位で起こり、一定の期間が過ぎれば元に戻るが、そのときは他のブロックで透過の症状が始まっているのだという。透過は発症と回復を繰り返しながら、交代するように全身を巡っていくというのだが、これも一度の説明では理解が難しかった。
「私の体感では、およそ十日間の周期で、透ける箇所が移動します。先週は右足の膝から下でした。その前は両肩です。今は冬なので洋服の重ね着で全身を隠せますが、夏場はよくよく注意していないと、不必要に誰かを驚かせてしまうことになります」
ぼくは、知冬が嘘を言う女性だと思ったことは一度もない。でも、このときはまだ半信半疑だった。未知の情報が多くて、頭の整理が追い付かなかった。
「知冬さん、ぼく、頭がパンクしそうです」
「ごめんなさい」
「こんなこと訊いていいのかわからないのですが……どういう仕組みでそうなるのか、透明になる理屈というか……。さっき、遺伝だとおっしゃいましたよね?」
「はい。大学病院で遺伝子を調べてもらいました。私の皮膚粘膜は、可視光線を透過させる蛋白質が短期間だけ生成されるらしいんです」
透ける原因が皮膚だと聞いて、ならばその下にある筋肉や内臓が丸見えになっているのかと一瞬心配になったが、知冬はそういうことにはならないと説明した。透過蛋白の皮膚に囲まれている限り光は問題なく内部を透過し、従って影もできないというのだ。
「人間は、言ってみれば皮膚という一枚の袋に包まれた生き物です。体の一部に光を当てたら、その反対側にも必ず皮膚があります。私の体は、透過した光の反射を反対側の皮膚がキャッチして、表側の皮膚にそのままスクリーンとして映し出すそうなんです」
知冬の説明をすべて理解できる自信はぼくにはなかったが、透明に見える理屈は何となくイメージができた。ただ、腕が透明になったとして、その腕の付け根を覗いたとき、骨や筋肉や血管が見えるのかは想像したくなかった。多分、皮膚が裂けていない限り、当然覗き込んだ先も透き通って見えるのだろう。向こう側にある物や景色が目に映るのだろう。
知冬は最後にこう付け加えた。
「なので、私の体で透明にならないのは、髪の毛と目だけなんです」
ぼくは、手袋をしている知冬の左手が、さっきから気になっていた。彼女の体で、今、透過しているのはその左手なのではないだろうか。これだけ話を聞かされても、まだどこかで信じられない自分がいた。先週知冬に会ったとき、ぼくは手袋を嵌めていないその左手を見ている。彼女の両手をぼくはつかみ、握りしめている。
手元を見ていたぼくの視線に気付いたのか、向かい側にいる知冬が、ゆっくりと頷くのがわかった。ぼくは慎重な態度で訊ねた。
「見ていいのですか?」
「はい。真佐也さんになら」
そして知冬は、ぼくが見ている前でチャコールグレーの手袋を脱いだのだった。
3
知冬が着ていたボルドー色のニットの袖口から、手袋が抜き取られたとき、ぼくは唖然とした。手品のように、そこには手がなかった。映画「ローマの休日」の中で、グレゴリー・ペックが真実の口の中に手を入れてオードリー・ヘプバーンを驚かせたときみたいに、ニットの袖口から本物の手が現れるのを一瞬期待したが、そんなことは起こらなかった。ぼくは、そこにあるはずの手を、見えていないにも関わらず懸命に凝視していた。
知冬がこのとき見ていたのは、ぼくの顔だったという。「あ」と発音する口の形のまま、ずいぶんと長い時間、開きっぱなしだったそうだ。息をするのも忘れたように、完全に表情が固まっていたらしい。ただ、見開かれた目の中心にある黒い瞳だけが、何かを探しているように、グリグリと高速で動いていたという。
知冬はそんなぼくを観察しながら、なぜか幸福な気持ちが胸に押し寄せてきたのだそうだ。
ある意味、ぼくも幸福だった。重大な秘密を打ち明けてくれたこのときの知冬の覚悟を思うと、ぼくは今でも胸が熱くなる。怖い、化け物、気持ち悪い。彼女は、そんな反応が返ってくるのが当然だと考えていたようだ。でも、ぼくは嬉しかったのだ。ぼくに対して正直であろうとした彼女の誠実さが伝わって、心から嬉しかったのだ。
創作和食料理の店を出たあと、タクシーを拾おうと知冬と二人で広い通りに出た。空車のタクシーが見えたとき、ほっとしたように二人同時に顔を見合わせた。ぼくはその一瞬の隙に、知冬を抱きしめて唇を奪った。初めての柔らかい感触に、腰が溶けてしまうかと思った。
4
現在、知冬との交際が始まって、ひと月が経っている。
知冬は社会保険労務士の仕事をしており、ぼくとの出会いも、職場で発生したトラブルの相談を担当してくれたことがきっかけだった。リモートで接する機会が多かったが、対面で会うとより話しやすい人であることがわかり、ぼくの方から親密な気持ちを抱くようになった。一度リモートで、彼女が顔全体をストールで覆い、サングラス姿で現れたことがあったが、今思うと、彼女はあのとき、顔が透明になったから隠していたのかも知れない。
デートは重ねていたが、恋人らしい一線は、まだ越えていなかった。知冬に事情があることはわかっているので、ぼくからは気長に待っているとだけ伝えてある。そして、その日がきた。昨日、知冬の方から誘いがあったのだ。ぼくは、創作和食料理のお店に行ったとき以来の緊張感に包まれながら、初めて知冬の部屋を訪れた。
リラックスした知冬を目にするのは新鮮だった。薄紫のカーディガンを羽織り、タータンチェックのブランケットスカートの中で膝を立て、ソファーの上で丸まるように寛いでいる彼女はとても可愛らしい。
ぼくは、知冬の手をとって自分の方へ引き寄せた。何の変哲もない手だ。それがどうして目に映らなくなったりするのだろう。
「真佐也さん、私のこと、怖くないですか?」
目を上げると、知冬の真剣な顔がそこにあった。ぼくは正直に答えた。
「怖いなんて、一度も思ったことがない」
「でも、必ず体のどこかが消えているように見えるんですよ」
「それが知冬のありのままなら、ぼくはそれを受け入れる。ぼくの好きな知冬は、今、目の前にいる知冬だ。どこが透明になっても、知冬は知冬だ」
しばらく俯いたまま、両手で顔を覆っていた知冬は、目の辺りを拭ってから顔を上げ、決心したような声でこう言った。
「真佐也さん、私の秘密を見てもらえますか?」
「えっ」
「明かりを消しますね」
知冬はぼくから離れると、壁にある照明のスイッチをパチンと切った。閉めきっていたミントグリーンのカーテンから午後の日差しが透けて、部屋の中を緑色系の薄明かりに変えた。
ソファーにぼく一人を残し、知冬はスイッチのある壁のそばに立ったまま、まず、カーディガンを脱いでみせた。そして、その下に着ていたカットソーを脱ぎ、上はブラジャーだけの姿になった。次に、手で腰の辺りを探り、スカートの左脇のファスナーを下ろそうとするも、急に思いとどまり、かわりに両脇からスカートの中に手を差し込んで、穿いていたショーツを素早く足から抜き取った。片方の手をブラジャーの上にあてて胸を隠し、もう片方の手を左脇の腰に回してファスナーを下ろした。ばさりと床にスカートが落ちる音がした。
一部始終を見つめていたぼくに、知冬は声をかけた。
「真佐也さんには、私はどんな風に見えていますか?」
衝撃的な光景に、すぐには言葉が出なかった。どう言ったらいいのだろう。知冬は、白くて細い脚をきちんと揃えて立っている。長い髪が裸の肩に乗り、鎖骨の前にも垂れている。胸を隠すようにブラジャーの上から押さえている左手があり、臍の辺りを落ち着かずに彷徨う右手がある。しかし、ぼくに見えている彼女の裸体はそれだけだった。臍から下の部分が、切断されたようにごっそりと消えていた。そして、その空間の途中から、彼女の太腿が始まっているのだった。そこにあるはずの、そこになければならない知冬の腰と下腹部が、ぼくにはまったく見えなかったのだ。
透明な体を持つことの意味を、ぼくはこの瞬間にまざまざと知ったのだった。それは、想像していた以上に深刻なものに思えた。
「やはり、怖いですか?」
知冬に訊かれ、ぼくは言葉に迷う。
「怖いというより……奇跡かも」
そう答えたぼくの顔を、黙って見つめていた知冬が、急にくすくすと笑い出した。
「知ってます? 私、今すごく恥ずかしい格好なんですよ。真佐也さんには見えていないと思いますが、下は裸なんです」
あっ、とぼくは思った。言われてみればそうだった。見えてはいないが、ぼくの目の前には、下着を取った知冬がいるのだった。見えてはいないが、手を伸ばせば触れられる生身の体が、すぐそこにあるのだった。そうなのだ、体が透明だからといって、知冬自身が損なわれたわけではない。それと同じように、体が透明だからといって、好きだというぼくの気持ちが損なわれることはないのだ。
ぼくは知冬の元に近寄り、裸の体を抱きすくめた。彼女の胸は薄かったが、その分、ぼくの体にぴたりと密着した。髪の毛のいい香りを吸い込み、興奮のままに背中に回した手を徐々に下へとおろしていくと、目には映らなかった彼女の尻に触れた。小ぶりだが、弾力のある尻だった。
知冬の口から声が漏れる。
「ああ、好き。私、真佐也さんのことが好き」
ぼくも鼻先を髪にうずめながら、興奮が高まるのを感じた。手探りで尻の形を確かめていたが、他の部分の実在も確認したくなり、腰の方に手を這わせた。骨盤のカーブを撫でていると、知冬の正面にある何かにぶつかった。何だろう。固いのに、しなるような抵抗感があった。触れてみると、棒状で熱を持っていた。彼女の息が荒くなった。
思わず身を離して、知冬の下腹部に目を落とした。見えなかった。見えなかったが、今ここに、それはあるのだ。
「私の秘密です」
知冬はうわずった声でそう言った。ぼくは困惑して訊ねた。
「……どうして」
「ずっと勇気がなくて」
「……そんな」
「だから、ここが透明になる日を待っていたんです」
ぼくは何かを言おうとして口を開きかけたが、それは知冬の唇によって塞がれてしまった。
知冬は、最初からどこも変わっていない。それはわかっている。ぼくも、ありのままの知冬が好きだと言い、目の前にいる知冬が好きだと言ったばかりだ。裸になって、知冬はぼくにすべてを見せてくれた。ぼくはその誠実さに応えなければならない。
けれども、ほんの僅かの齟齬が、棘のように心の隅っこに刺さっている。気持ちでは知冬を受け入れているが、この棘だけは、絶対に抜けることはないだろう。もう何も考えられない。今のぼくに言えるのは、透明であるうちは、知冬は女性だということだけだ。腰が溶けそうになるほどのキスを受け入れながら、ぼくはどこか冷静でいる自分を、冷たい人だと思った。
(了)
四百字詰原稿用紙約十八枚(6249字)