もしも愛に限りがあるのなら

昔、もしも涙の量が決まっているなら何のために、誰のために涙を流したいだろうと考えたことがあった。

それと同じで、
もしも愛に限りがあるのなら何を、誰を愛せるんだろう。
ふと考えが頭をよぎった。


同じ時間帯に別々の人から動画が届いた。

どちらも「日常」を切り取ったものだった。

和み、癒やされ、温かく
じわりとこみ上げるもの。

ただの「日常」なのにね。

その「日常」にこめられた想いや
それに出逢った瞬間に”残しておきたい”と心が動いたことが
確かにその時に存在していたことに
妙に揺れ動いた。

と同時に生まれたひとつの疑問符。

どうしてそれを私に送って(贈って)くれたんだろう。

この動画を見せびらかしたい
というものではないことは確かで。

気まぐれだとしても
それらを選び、送る動作に時間を費やしてくれたというのは事実で。

なんとなく
愛だなって思ってしまった。
(愛が何かもわからないのに)

こういうご時世なのもあるけれど
不安や悲しみがごろごろしている中で
そうやって
誰かに愛を渡せるって…
すごいなって。

嬉しい反面
受け取るに値する人間ではないのに…と
申し訳なく思ってしまうのも本当で
きゅっと締めつけられる。

素直に受け取れればいいものを
よくしてもらえればもらうほど
自分の不甲斐なさが浮き立っていく。

だからといって
それらが瞬時に無くなれば
ダメージも甚大なんだけれど。

そんな人たちのように
私は誰かに愛を渡せるんだろうか。
渡せてるんだろうか。

もしも愛に限りがあるならば
私は惜しみなく、注げるんだろうか。

いつもは気にならない時計の秒針が
今宵は何故か響いてくる。

#心がほんのり涙するとき
#53日目