1有権者として考える。「旗印」
1有権者として考えることがある。選挙で国は良くなるのかと。
答えは「選挙では変わらない」だろう。
それはなぜか?
それは有権者のレベルが圧倒的に低いからだろう。
選挙に行っている有権者のレベルも行かない有権者のレベルも対して変わらない。日本が良くなると思って選挙に行く人は少ないんじゃないだろうか。
あの人に頼まれたから入れる。
格好いいから、可愛いから入れる。
会社に言われて入れる。
所詮この国の有権者はこんなレベルですよ。
きちんと考えて投票している人は有権者の10%くらいではないかな。
内訳としては
選挙に行かない人…………50%
組織票になっちゃう人……25%
勝ち馬に乗ろうとする人…12.5%
その他……………………………12.5%
と言う感じだろう。
与野党ともに組織票になっちゃう人がいる。それは熱烈な支持者だから別に構わないけど本当にこの国のことを考えていたら組織票にはならないほうがいいと考える。
選挙になった時に与野党それぞれが同数の組織票を持っていても、勝ち馬に乗ろうとする人間がいるので差が開く。
与党 12.5% + 12.5% =25%
野党 12.5%
これにその他が乗っかっても与党は有利のままだ。
なので野党は選挙に行かない人を連れてくるしかない。
前回の政権交代のときがそうだ。
投票率は60%を超えていたので勝ち馬に乗ろうとする人間もだいぶ民主党に流れた。その結果、政権交代になった。
与党 12.5% + 12.5% =25%
野党 12.5% + 22.5% =35%
現在、立憲民主党と国民民主党が合併するような話が出ているが、「民主主義の旗印」が以前無いのが気になるところだ。
ちなみに「アベ政治を許さない」は旗印にはならない。
全くの無価値である。
古来より、戦に勝つには大義名分と旗印が必要になる。
武士ならば征夷大将軍。それがダメなら天皇家。
平家が負けたのも征夷大将軍ではなかったから。
幼い天皇を抱えていたが、征夷大将軍を持つ源氏の後ろには法皇がいた。
南北朝では互いに天皇を掲げ合い泥沼。
戦国の世も幕府を抱え込んだり、長々戦っても最後は源氏長者になった徳川家康が天下を取った。
このように戦には必ず勝つための旗印がある。
民主主義でも形が変わっても旗印は必要。
前回ありました? そう思う人もいるでしょう。ありました。
鳩山、小沢、管の三人が手を取り合ってたでしょ。嵐に遭う船でなんかやってるCMが流れていました。
あの無茶苦茶な感じが「旗印」なわけです。
近年の「野党共闘」は「旗印」にならないのか?
ならないんですよ。民主系の連中が相変わらず共産党イジメをしていますから。烏合の衆っていう感じがどうしても否めない。選挙を見てもそう。
大阪の選挙区で候補者を乱立させ、共産党のたつみコータローを引きずり下ろした。結果、野党大惨敗である。
「兵力が少ない時に分散して戦う愚」をやってしまったわけである。あそこは一丸となって1議席取るという必要性があった。1議席持っておけばそれが次回の楔になるのだから。
それでは「旗印」としてふさわしいのはなにか。ということを考えていきたい。
ぶっちゃけてしまえば「共産党」を全面に押し出すのがいいだろう。
共産党アレルギーなるものが自公や既得権益者のイジメであることを宣伝し、国会で汚職追求は共産党スタートだったことをアピールするのもいいだろう。
だがまずやらないだろう。野党議員にも利権があるから。
では、誰がふさわしいか。
山本太郎? いや、山本太郎には1議員として国会に戻ってきてもらいたいが民主主義の旗印ではない。支持者の非難の声が聞こえてきそうだが、その原因は実はそんな支持者たちにある。
山本太郎は支持者の中で「英雄視」されすぎているからなのだ。
英雄と民主主義は相容れない。
あんなに熱い人が国会にいてくれたらと思うけど旗印ってそうじゃないんだよ。
例えば源平合戦で言うところの源義経が山本太郎の立ち位置だ。
全国をまわり平家を追い詰め滅ぼし、最終的に自分も異母兄に殺される。
英雄というのはそういう役回りである。
女性議員が代表になってもいいんじゃないかと思う。
ただ、蓮舫、森ゆうこ辺りだと見た目も攻めも強すぎる。
この二人は優しい事も知っているのだが、戦う姿が勇ましすぎて世の情けない男どもは怯んで応援ができないのだ。ジジイどもっていうのは本当に情けない。
吉川沙織、舟山康江あたりが良いように思う。
見た感じ優しいが実は怒らせると恐ろしい二人である。
ここに共産党田村智子、社民党福島瑞穂が加わり、「女性の時代」を掲げ「新しい日本の民主主義」を予感させるわけである。
世界の潮流を見ても「民主主義の旗印」としてはこれ以上無いものだと思う。