おひとりさまの入院日記【準備編】子宮全摘手術が決まるまで。
人生ままならないものである。いや、思い通りになる人生なんてあるわけがないのか。まぁ、何事も起こるべくして起こる、ということで受け入れませう。60代、独身、自由業の完全なる “おひとりさま” の入院顛末記でござりまする。
胃まで届く、かなり大きな子宮筋腫があるのがわかったのは10数年前。
東京で、寝る間を惜しんで働いていた仕事大好き人間のわたくし。40代後半になって月経過多に悩まされるようになった。生理期間は、日中でも多い日の夜用ナプキンをつけていても足りないくらいの出血があり、外出先で服を汚さないか気が気でない。寝る時はおむつじゃないと対応できないレベルだった。
仕事柄(ライター)、たくさんの医師に取材をしたし、何度もお目にかかって顔見知りになっている医師もいたので、相談すべきか考えた。しかし、医師としての本音も色々聞かせてもらえるくらいの距離感の相手だとあれこれ公私混同になりそうな気がして、知らない先生のほうがいいかなぁと悩むうちに日が過ぎた。
そんな中、とあるドラッグストアが発行する月刊PR誌の、女性医師だけで診察する女性専門クリニックの連載記事を担当することになった。診療科目にはもちろん婦人科もある。信頼できそうな先生だったら、その先生に診てもらおうと密かに心に決めた。とはいえ、なかなか踏ん切りがつかないまま時は過ぎ…。
相変わらず仕事に追われていたある日、娘の自由気ままな生き方を許してくれていた実家の母からSOSが届いた。実家に帰って来てくれないか、と。
当時、両親はすでに80歳近く、父も母もそれぞれにさまざまな不調を抱えて、二人暮らしでは立ち行かなくなってしまったらしい。それまで一度も帰ってこいとは言わなかった母が頼るのだから、余程切羽詰まっているのだろう。
が、田舎で同じ仕事を続けられる可能性は0に等しいし、30年以上疎遠の故郷にはツテが全くない。帰郷を決心するまでには1年以上かかった。仕事のことは二の次にして、とりあえず両親の最晩年をサポートしながら一緒に暮らそう。それが結論だった。
そして、「田舎に越す前に、東京の面識のあるお医者さんに診てもらおう」と、ようやく重い腰を上げて受診した。極度な貧血であること(自覚なし)、相当大きな筋腫なので経過観察は欠かせないことなどを聞き、宛先のない紹介状(田舎の病院事情が全くわからなかったので)を書いてもらった。
引っ越し準備に明け暮れていた2011年3月、甚大な被害をもたらしたあの震災が発生。わが故郷は北東北である。すぐさま飛行機のチケットを手配して日帰りで実家を訪問。被害が少ないことを確認して帰り、幹線道路の復旧もなかなか進まない4月に引っ越しを決行した。
あまりに久しぶりの故郷暮らしで、浦島太郎状態のまま、瞬く間に5年の月日が流れ、紹介状が黄ばんできそうな頃、ようやく再受診を叶えた。なんと、初めて受けた集団検診で発覚した乳がんの治療がきっかけという…(乳がんに関してはまた別の機会に)。
乳腺外科の紹介で、婦人科を初診。とても慈悲深い雰囲気の女性医師(部長さん)が担当で安心したのを覚えている。それから1年毎に定期受診して来た。コロナ禍で半年以上間が開くと紹介状が必要なシステムになってしまい、他病院の内科で紹介状をもらってからは半年毎の受診となった。
昨年一度、担当医から摘出手術(他臓器への負担や悪性への変質を鑑み)を勧められたものの踏み切れず、代わりにガンの可能性がないかどうか調べる高額な検査を受けた。結果は「限りなく白に近いグレー」とのことで安心していたのだけれど、今年4月の造影検査で専門医からチェックが入ってしまった。
「前回より増大傾向にあるように見られる。閉経後のこの状況は悪性(肉腫)に変化している可能性も否めない」という見解。子宮の場合、筋腫が良性か悪性か判断するには、摘出して細胞を診断するしかない(らしい)。かくして、否応なしに摘出手術が決まり、約1カ月半後にスケジュールが組まれたのである。
つづく…。
*現時点で、手術は終わり、退院しているけれど、実は検査結果はまだ知らされていない。次の受診で聞く予定。