#13 三里塚にて(3.11思いつくままに)
(*公開が1秒遅れて12日になった…)
2月29日の夜、三里塚に戻ってきた。
戻ってきたと言っても、ずっとではなく、17日にはまた西へ帰る。
今回の滞在は予定していたものではなかったけれど、結果的には良かったし、それだけ三里塚での10年近い暮らしがまだまだ尾を引いていて、簡単には区切れないということなのだと改めて自覚することができた。
一昨日は那須へ取材に出かけた。
谷邨一佐の牧場跡を探して歩き、それなりに良い手応えを得られた。
谷邨のことは、やはり、まとまったものを書かなければならないような気がしている。
何しろ、「羊と日本人」の取材の最初から最後まで、谷邨のことを調べてきたし、お墓にもことあるごとに参り、当初の原稿は谷邨を軸に書いていたのだから。
出版にあたって泣く泣く切り出したものを、今度は羊ではなく、谷邨その人の生涯を軸にして描く。
実現するか分からないが、いずれ書かずにはおれないだろうなぁ。
それから、今回の那須行では、これまでメールを通じてお世話になっていた那須塩原市図書館の方にも、初めてご挨拶してお礼を伝えることができた。
これが最後の挨拶ではなく、もしかしたら始まりの挨拶なのかもしれない。
日付が変わって昨日10日は、この4年近く通っていたラーメン形式の羊料理「人と羊」が最終営業日(正確には今日が真の最終日)を迎えたので、最後の一杯を確と味わいに出かけた。
振り返ってみると、最初に「人と羊」を訪れたのは2020年4月3日。
まだツイッターも始めていなかった頃だ。
Facebookには、当時の自分によってこんな感想が書かれていた。
結局、神保町時代はこの1回だけしか食べられなかった(お店までは3回ぐらい行った)。
そして、このあとの動きをフォローしつつ、本格的に通うようになったのはツイッターを始めてから(2020/6/5〜)。
お店は荻窪に移転し、ねいろ屋での曜日限定営業になった。
荻窪店での最初の1杯に先立ち、4/3初訪問の記憶もツイッターで振り返っていたので、それも貼っておこう。
実は、荻窪ねいろ屋店で初めて並んだのは6/22だった。すんでのところで「羊太夫」が売り切れとなり、がっかりして何も食べずに踵を返した記録が…。
そんなこともあった笑。
なにはともあれ7/20、荻窪での最初の1杯「可楽餅そば(クロケットそば)」をいただいた。
それ以来、去年まで月1か、月によってそれ以上のペースで通ってきた。
そして昨日のツイート。
支えられた、というのはほかでもない。
2020年1月に「羊と日本人」の出版の話が動き出し、出版されたのが2023年3月。
この3年以上にわたる準備期間、「人と羊」に通い、羊肉の調理の仕方や、ほかの食材との合わせ方など、ラーメンというよりは、羊のいる新たな日本食の風景を見る思いで一杯々々に向き合ってきた。
出版がなかなか前に進まない中、「雨乞いは雨が降るまで」と言い聞かせながら、羊尽くしのクレイジーなラーメン形式料理に向き合えたことは本当に幸せだった。
心も体も励まされたのだ。
「人と羊」は千秋楽となったが、店主さんのあくなき挑戦は続くようだし、また必ず食べに行きたい。
私の旅もまだ続くようだしね。
ところで、私がツイッターを始めた本来の目的というのは、編集者さんに勧められて出版に向けて営業活動を展開することだったのだが、結果としては「人と羊」をフォローするのに欠かせないチャンネルになった。
また、思惑以上に「牧羊」「羊肉」「羊毛」のコミュニティの方々と知り合うことができ、本の営業面だけでなく、内容そのものにも良い影響を与えてくれることになった。
彩流社の編集者・出口綾子さんの的確なアドバイスは、随所で効果を発揮し、納得させられることばかりだった。
良き伴走者がいなければ「羊と日本人」も生まれていなかった。
もうすぐ出版1周年、ここで改めて心からの感謝を伝えたい。
今年の3.11は東北方面に足を延ばせたらと思っていたが、那須で遭遇した吹雪と疲労のせいで仕事が捗らず。
成田を発つこともできぬまま日没を迎えてしまった。
しかし、足を止めているわけではなく、次の一歩を踏み出すための準備は日に日に整いつつある。
17日にはまた瀬戸内に戻り、しばらく経ったらまた成田に来る。
足を止めている暇などない。
やれることがある限り、頭も心も手も足も止めない。
まとまりのない文章になったが、今はそんな心境だ。