反出生主義に思うことを纏める
始めに:反出生主義に対する私の理解
反出生主義は、要するに『この世に生まれるとは苦しむことであり、苦しむ者を生むことは倫理的ではない』ということだと、個人的に理解している。実際のところ、私はまだ反出生主義についての本を読んだことはほぼ無く、知識に疎い。そのため、あくまでも素人の個人的見解であることは留意してもらいたい。
私としては、『この世に生まれることはその子を苦しませるだけだ』とするのは、生を語ることを諦め過剰に悲観的に考えているだけのように思う。とはいえきっとこれは反出生主義の否定としては多く用いられたロジックだろう。「生まれてきちゃったんだから、しょーがねぇだろ」ということである。しかし反出生主義を掲げる人々がこのことを考えなかったわけがない。
反出生主義を掲げるとき、二つの異なる思考の方向性が考えられる。一つ目は、この世を地獄のようなものと捉え、生きることを否定する考え。二つ目は、例えば自然保護の観点から人間は環境破壊する生物だとするように、人間は存在が悪でありこれ以上増やさないようするべきだ、とする考え。では一つ目から吟味していく。
1.この世に生まれることを否定して良いか?
この世界を地獄のようなものとして捉える。これは当人の人生における苦痛からの後悔が込められている。イジメがあったのかもしれないし、DVを受けてきたのかもしれない。詐欺にあったり、親友に裏切られたのかもしれない。あるいは、そこまでではなくても多くの辛い出来事の重なりにより、『生まれてこなければよかった』と考える。そして、自分のような”被害者”を増やさないように子どもを作らないし、作るべきではないと主張する。確かに、苦痛を感じる人間を減らそうということは倫理的ではあるかもしれない。だが、私はここに大きく四つの問題点があると考える。
1.1 一つ目の問題点
一つ目は、個人の苦しみの全体化である。この世界は苦痛に塗れている。自分が苦しんだのだから他の人も苦しむだろう、というのは配慮を超えた押し付けに他ならない。この世界がどれほどのディストピアであろうと、そこには人間がおり、全ての人間が同様に不幸となるなど考えられない。今はSNSが普及しているため、苦しむ人々が互いを惹きつけあい、集まることも容易になった。そこでは不幸の共有が為されることで、『やはりこの世は地獄だ』とする材料が多く集まることだろう。しかしこれはエコーチェンバーに他ならず、世の中には楽しみながら生きている人も多くいる。生きることが辛いというのは社会における共通認識と言ってよいだろうが、その中でも人々はどこかで『生きていて良かった』と思えるものに出会っている。それを理解しながらも反出生主義を掲げるということは、そうした人々を否定、あるいは拒絶し、自身の苦痛の絶対化を図っている。もしかすると、恋人が寝取られるなどしてこの生きる目的のようなものに裏切られて反出生主義を掲げるようになった人もいるかもしれない。だとしても、自身の身に起きた不幸を同じように被るだろう他の人々の数を過剰に多く見積もることは、自分への慰めでしかない。つまりは自己満足であり、『子どもを作るな』は自己満足の押しつけなのだ。
1.2 二つ目の問題点
いやでも、現に今の社会は生きる人々の大半が苦しみ一部の利権者のみが栄えているディストピアではないか。我々労働者は汗水垂らしながらようやくその日の飯にありついているというのに、そこから更に我々の血や肉も吸い取り肥え太る者たちがいる。たった一部の為に全体が苦しむのであれば、そのような生物種はいなくなった方が良いのではないか。
その主張にあるものは諦めだ。今を変えるのではなく、このまま消え入りたいという気持ち。翻って、自分自身への不信感からの責任転嫁。これが二つ目の問題点である。自分を信じられなくなった者はその責任を他に追求する。では悪いものは何か。社会に他ならない。失敗を積み重ねてなにもかもを信じられなくなった、これは社会のせいだ。そうして社会のせいにして、社会を悪として捉え、この輪の中に入ることを他人にも辞めさせる。社会は敵であり、子どもを作ることはそれに餌をやるも同義だからするな、と。
このように考えてしまう人々に必要なものは反出生主義ではなく自信を付けさせることだろう。自信をつければ我を通すようになり、社会を変えようとする力が湧く。ということは、反出生主義は一時的に痛みを忘れるための麻酔薬のようなものであって、その当人を救うものではないのだ。
反出生主義は自死とは異なる。自死は絶望から今ある生を手放すことであり、それはつまり自分の為に行うことである。対して反出生主義は自分の為ではなく他人の為にある。他人の生の否定である。しかも、まだ生まれてきていない、存在していない者の否定である。これは果たして本当に倫理的なのだろうか。生まれることすなわち苦しみを生むこと、と捉えるのは自分の経験の押しつけであり、言い方を変えれば”苦しんだ自分の再生産”である。自分のような存在を再生産させないように、そもそもの出産自体をやめさせることと自分とは異なる道を用意してあげること。果たしてどちらが倫理的なのだろうか。
1.3 三つ目の問題点
三つ目の問題点は、子どもを欲しがる人がいることである。これは至極単純な話で、子どもを欲しがる欲求を他人が否定して良いのか、ということである。
例えばサラリーマンのAさんが子どもが欲しいと言い、Aさんの妻であるBさんが嫌だと言う。これは夫婦間の問題である。では、AさんもBさんも子どもを欲しがっているにも関わらず、近所に住む全く関係の無い人やどこにいるかもわからないどんな人物かさえ定かではないインターネット上の人間が『あなた方の子どもの為だ』などと言ってその二人が子どもを作ることを阻止しようとしたら、明らかにおかしい。いくら動機が倫理的な観点からだったとしても、この夫婦の営みに第三者が介入することを許してしまうのは、その第三者もまた新たな人物によって考えを変えるように強要することを許すことになる。そして、その夫婦が子どもを不幸にすると決めつけてしまうことも良くない。極端な話、その子どもが大きくなって大人になった際にあなたを救うことになる可能性だってある。
子どもを欲しがる欲求を否定すること自体は問題ないが、その欲求を持つ人々を否定するのはやめるべきだ。
1.4 四つ目の問題点
さて、四つ目の問題点に移ろう。ここまでは個人の範疇に収まる問題点であった。では四つ目はどうか。それは、この世界には子どもを残すシステムがあることである。
この世界には子どもを残すための生殖という現象がある。これは否定できない絶対的な事実である。これが宇宙を成り立たせる法則に始めから組み込まれていたのか神がそう定めたのかはともかく、我々が生殖という現象を通してこの世に生まれたことは誰も否定できない。この先、クローン人間が生まれようとも、減数分裂だとか細胞分化だとか、そうした物理現象がこの世から突然消えることは無いはずだ。生物の進化は現在で終わりだろうか。もし終わりではないとするのなら、この先人間とはまた異なる形で知能を、そして文化を手に入れる生き物が現れてもおかしくはない。ひょっとすればもう既にどこか遠い星で現れているのかもしれない。そこでも誰かしらが考えるだろう。『生きるのって辛いな。こんな思いはしたくなかった』と。要するに、我々は”生まれてしまう存在”なのだ。だから仮に反出生主義が人類全てに普及し、種として消滅していったとしても、きっといつかまた”生きることを苦しむ者”が現れる。輪廻転生というわけではないが、何をどうしようとこの世で苦しむ存在は現れるものなのだ。
とはいえ、これはなかなか話が壮大すぎる。反出生主義が存在しない子どもの未来を憂えるように、この三つ目の話はあるかわからない未来の仮定存在の話をしている。しかも、話が人類種に留まらない。倫理や道徳は人類に対してのみ作用されるべき、とか、そんな可能性の著しく低そうなものを語っても仕方がないという見方もできる。反出生主義よりも荒唐無稽だと言われてしまうかもしれない。
私が言いたいことは、要するにいくら生まれることを制限しようともこの世界に生まれ苦しむ存在は必ず現れる、ということだ。子どもは生まれるものとして考え、子どもたちをどう守り育てていくのかを考えた方が良い。子どもをどう減らすのかではなく、子どもにどう明るい未来を用意してあげられるのかを考えるのだ。
また話を大きくしてしまうが、苦痛を感じる存在を減らそうとしても、物理現象として我々が存在するのだから、今後似たような形で我々に似た存在が現れても不思議ではない。人間発生の再現可能性は証明できないが、再現不可能性も証明できない。苦しむ存在を減らすためと宣うのならば、なぜそれを人類に限定するのか。それは人類以外がこのような苦しみを味わうことはないだろうという種としての傲慢ではないか。ならばやはり反出生主義は倫理的配慮などとは言うものの自己満足でしかない一時の麻酔だ。
1.5 余談
誤解無きように加えるが、個人が『自分は子どもを作らないが、他人が子どもを作ろうが気にしない』というのは私の理解では反出生主義では無い。反出生主義は他人に働くからこそ成り立つのだと考えている。だから、もし仮に全ての人間が”自然に”子どもを作ることに否定的になってきたというのならば、それは反出生主義が伝搬したのではなくて、もっと別の理由が考えられる(経済の危機など)。また、『あいつが子どもを作るのは許せない』というのも反出生主義ではないだろう。
たいていの人間にはセックスの欲求があり、これによって子どもは生まれる。子どもを欲しがらずともセックスしていればいつかはできてしまう。だがもし完璧な避妊が完成したら、それこそセックス欲求とは別の『子どもが欲しい』という欲求を持つ者のみが子どもを作るようになる。反出生主義ではその欲求を”倫理的な観点から”否定する。だが問題が倫理とは別のところにあったのならば。
子どもを持つことそれ自体が不幸のように考えられる事態。例えば、子どもを作ると一気に税が加算され、生活がままならなくなるような場合。子どもを作っても奪われてしまう場合。子どもがいることで周囲から差別を受けるようになる場合。もしくは、子どもが絶対に悪になり親を害することが確実になっている場合。
このような場合、反出生主義とは異なる思想が生まれるだろう。反出生主義はこれから生まれる子どものためを考えるが、今を生きる人々の為の新しい反出生主義のようなものが出てくるかもしれない。子どもを作ると我々が傷つく、ゆえに子どもは作らない。反出生主義は一応は倫理的観点から始まるので正義心を満足させられるかもしれないが、この新しい反出生主義は希望も正義も無くただ今を守るだけの悲しいものだ。
2.人間は悪か?
人間を減らそう。人間は悪だから。ではその根拠は?
人間が悪かどうかについて議論することは、あまりにも抽象的過ぎてしまい、また、今回の議題からも離れてしまうのであまり深くはやらない。ここでは、『人間は生まれることさえ否定されるほどの悪なのか』ということを、悪である理由を自然破壊の点から考えながら軽く触れるにとどめる。
悪と言うからにはそこに罪の意識がある。例えば自然破壊は悪だろうか。ダム建設やソーラーパネルの設置などは当然として、焼畑農業や井戸建設、家屋の建設のための森林伐採だって自然破壊と言える。だがこれらは(利権の為であろうと)人間の為に行われる事業である。ここで簡単に『人間は自分たちのことしか考えていないから~』と言ってしまうこともできるだろう。しかしそれは他の動物おろか植物もまた同様であり、そこに問題があるとすればそれは人間が自然環境を容易に変化させる巨大な力があることであって、それを放棄させることを目的とするならば反出生主義を掲げなくてよい。ここで反出生主義を掲げるのであれば、それは人類がそのような強大な力を保有しうるからに他ならない。力の放棄ではなく、力を持ちうる存在の完全消去だ。
人間の諸々の行為がその人に何ら危害を加えるような結果を引き起こさないのであれば、とりあえずその人はその行為を問題視することは無いだろう。これは人類全体で見ても変わらない。人類の事業がそれにより人類に何ら不利益をもたらさないのであれば、人々はその事業を疑問視することは無いと考えられる。だが現実にはそのような事業は無く、どれも何かを犠牲にすることで成り立っている。費用然り、時間然り。人々が反発するのはそうした犠牲を受けてであり、自分が傷つくことへの恐怖や苛立ちとか他の何かを守ろうとする正義心からである。その反発の矛先が事業ではなくそれを行っている主体や企業すら超えて人類へ向かったのが反出生主義だと考えられる。
人類は破壊活動を行う。人類は悪玉菌や癌のようなものであり、これを無くさない限り健康で正常な地球環境は戻らない。だから生まれるべきではない。極論甚だしいが、わからなくもない。人類がいなかったら、この平地はもっと草木が生い茂っていたということは容易に想像できる。ならばその力を放棄すれば解決か? いや、人類は既にそのような力を持てることを証明してしまった。だから、力を放棄しようとも一時的な話であってまたすぐに力をつけるはずだ。やはり根本的な解決は人類の根絶しかない。ではそれは本当だろうか? 人類がいなくなれば正常な地球環境に戻るのだろうか?
人類が消えれば人間により破壊される自然は無くなる。しかし、人類が何もしなくても、今ある環境は時間による変化や自然災害により勝手に壊れていくし、星にも寿命があるのだからいつかは地球は太陽に飲み込まれて終わる。ここにある違いは壊れるのが早いか遅いかでしかないのではないか? しかも人類は破壊するだけではなく、環境を再生させることもできる。自然環境の保存という観点からならば、人類はむしろ必要な存在だ。
人類が消えれば人間により殺される生物はいなくなる。だがこれも先ほどと同じような論理で、保護をする存在としての人類の必要性を語ることにもなる。人間による殺害は無くなっても生物種の間の競合は依然変わりなく続いていき、守りたいという生物種がそれで生き残るとは限らない。それならばむしろ人類の力で生物種の競合からその種を守る方が良いという風に。
ここで、「いや、盛者必衰は世の常であり、そこに人間の手が加わり人類の都合で生き残るものが選別されることが問題なのだ」という反論を考えてみよう。この反論は人間の諸活動が非自然的であるという思想から来ていると思われる。では逆にそれの何が駄目なのだろう。全てが人類に都合よく選択されてしまえばいずれは自然が本来の姿を失うとして、自然の本来の姿とは一体何なのだろう。それはそう言っている人間がイメージしている理想の自然の姿でしかないのではなかろうか。例えば、東京の中心で商談を交わしているサラリーマンをジャングルに放り込んでみたらそこに人間の本来の姿が現れるだろうか。水槽の中で生きる金魚を池に逃がしてみたら本来の姿が現れるだろうか。ただその状況に陥ったその存在の姿という限定された姿しか現れないはずだ。これは逆に環境自身にも言えるとは考えられないか?
要するに、人類がいなくなって現れるのは人類がいなくなったという状況の自然でしかない、ということである。反出生主義者はこの状況を自然の本来の姿と定義しているだけであり、そう定義しているのだから人類がいなくなれば『本来の姿』になるのは当然なのだ。人間が自然を破壊する力を保有しうるということは、ある人が理想とする形の自然の形を破壊する力を保有しうるということであり、それは人によって良く働いたり悪く働いたりする。変な話、大量発生している特定外来生物にとっては住みやすい環境を提供してくれた人類はありがたい存在として捉えることができるし、バスの放流を例にとれば、これはバス釣り師にとって近隣の湖にバスが増える喜ばしいことでバスにとっても種の繁栄という点でありがたいことだと考えることができる。それにより他の多くが犠牲になるにしても。ここでの自然とはバスがいなかった元の湖の姿と思われそうだが、バスにとってみれば水があって餌があるだけでそれが自然の姿であるかもしれないし、バスを放流したバス釣り師にとってはバスが存在しない湖の方がおかしいのかもしれない。
何を犠牲にして何を犠牲にしないのか。何を守り何を捨てるのか。自然という大のために人類という少数を切り捨てるとは言っても、その自然と言うのはあなたの為の自然でしかないのではないか。あなたが代表面しているだけではないか。ならばそれはむしろあなたという個人のために人類という大を切り捨てようという全く真逆のことを訴えているだけだ。
人間が悪かどうかを決めるのは簡単だ。そう定義すればいいだけだけなのだから。だが、悪である理由を考え出すと途端に難しくなる。ポジショントークに陥る。人間を悪としたいのならばそうした意識を共有するべきであり、その共有が為されていると言えないのであれば、『私は悪だと考える』に留めるべきなのだ。
終わりに:反出生主義は悪か?
ここまでで一応のまとめが終わった。しかし書き上げてみればまだ考えることを見つけられる(神学的立場での見解など)。時間を置いて見てみれば、もっと別の角度からも見られることだろう。それに、私は社会学や哲学といったものをしっかりと学んだわけではないので、拙いと言われればそれまでだ。
反出生主義に対して私は批判的な見方で纏めてきたが、反出生主義は悪かという問いにははっきりと答えられない。どのようなことでも完全には否定も肯定もしないと私は決めており、必ずどこかに肯定的に見ることのできる部分、否定的に見ることができる部分があると思っている。
人間がこの世で特別残酷な存在である可能性はあり、人間がいなくなることで自然がより豊かで多様な姿を持つようになるかもしれない。また、支配者層への反逆というのは時代を降るにつれてどんどん難しくなっているように思う。効果があるかは別として、新しい労働者を生まないことが支配者層への反逆の手段になり得るとも、私は考えている。幾ら支配者の力が強くともそれを支える層がいなくなれば社会は生首のように死んだ状態になる。労働者たちが反出生主義を掲げ働くことさえしなくなったら支配者たちは自分たちが変わらざるを得なくなる。反出生主義が抗議の手段となるわけだ。
それだけではない。反出生主義的なものは既に社会に制度として取り入れられている。それが中絶である。これだけでも反出生主義を簡単に否定できるものでも肯定できるものでもないということがわかる。
反出生主義について自分が思ったことを纏めただけなので、結論といったものは無い。問題点を挙げたが、だから駄目だと言いたいわけでもない。人というのは柔軟に生きる存在で、時と場面により主義主張を変えたりする。ならば、何を信じるかよりも何をしたかという行動の方が重要ではないかと思う。
以上で本記事を終える。