埼玉近代美術館を訪れて|NAGiSA通信Ⅱ
常設展が大人200円ととても安い。北浦和駅からも近くて、行きやすい。
美術品として置かれている彫刻は、ギリシャ彫刻のようなわかりやすい人物像から抽象的な丸と四角だけで完成されている作品まで様々だ。何かの展覧会で、現代的なトイレが『泉』というタイトルで展示されていたのを思い出す。
それが美術的にどのような価値があるかということは抜きにして、彫刻という三次元に存在するものが美術品としてそこに置かれているのを目の当たりにすると、そこらへんにある何の変哲もない電柱やベンチ、道端の石ころにまで美術品としての見方があるのではないかと思えるようになる。極端な話、石ころに宇宙を見出せることだってできるのだ。
船越保武さんの『ダミアン像』は一瞬恐ろしいように感じたが、見ていると物悲しさを感じ取れた。ジャコモ・マンズーの『枢機卿』は簡素でありながら荘厳な雰囲気を醸し出していて、私の好みだった。どこまで要素を排していけるのか、という引き算の美学のようなものを私は好んでいる。
諌山元貴さんの壺というタイトルが題された映像も、なんとなく感じるものがあった。ただ水溶性の壺が崩れていく映像が流れていくだけなのだが、噴火するように赤い粒子が壺の内部から湧き出ていく。そして崩れた後には白い山とキラキラ輝く水が残される。
記譜の技術を用いて抽象画を描く画家さんの作品もあった。音が線に変換されるのは不思議な感じがする。フーリエ変換とかとは違う。
美術というのは、美しいものを作り出すという側面はもちろんあるのだろうけど、気に留めていなかった周囲から美しさを見出すという力のことでもあるのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
NAGiSAに再び三時間ほどいた。とても楽しい。良い声の韓国人の男性や、別の言語を喋っていると現実逃避感があって健康に良いと話す台湾の女性とかもいて、日本に限定されてないのも良い。深夜だからたまに変な人がいるのかな、と思っていたけど、昼は昼で迷惑学生がいて面倒くさいらしい。私はまだ遭ったことは無い。
始めてからずっとフレンドたちと遊んでいて一か月目にして初めてパブリックに来たという方もいた。そういう入り方もあるんだな、と少しばかり驚きがあった。VRChatはかなり活動的な人が多いように見える。とはいえこれはバイアスで、活動的な人がパブリックによく来るということなのだろう。
フレンドを増やすか否かについては悩んでいるところではある。正直、それほどVRChatのモチベーションは無い。人と話すほどに出会ってからの最初の五分の重要性を強く意識するようになっている。『人は見た目が九割』なんて話があったが、会話における最初の五分はその見た目に当たるのかもしれない。五分を過ごしてからまた再び同じ人に当たると話題に困ってしまうのも、少し面白さを感じてしまう。
センスというのは生まれ持ったものもそうだが、人間は他人のセンスから売れるものを学ぶことができるらしい。人と話していれば、その多様さに驚かされる。ロールプレイをしている人もいる。五分くらいなら偽れるだろうか。五分で剥がれる仮面など、不良品だろう。
インスタント・ジェントルマンもありかもしれない。