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知っていそうで知らないこと
誰に聞いたのだろう。フィンセント・ファン・ゴッホは人づきあいが苦手で、唯一の友であるゴーギャンと仲たがいして、自ら片方の耳を切り落とし、ついにはピストルで命を絶った、そんな奇妙な生涯を送った人だと聞いていた。
恐らく、世に名を知られた人は、その人の人生で最も印象的な出来事が、その人のあらゆるエピソードを塗りつくすほど強く語られるのだろう。
彼もまた、作品に、その生き方が添えられて語られた一人だと思う。
『ひまわり』や『夜のカフェテラス』や『アルルの跳ね橋』はきっと誰でも知っている。沢山の人物画と風景画も残されている。特に、彼が描く風景画は、見ただけでその乾燥した土地の空気感が伝わってくる。
記憶に残っているのは、常に絵の具を送ってくれる優しい弟がいて、生涯食べていけないほど貧しかった画家だった、ということ。
そのゴッホの映画を数日前に観た。タイトルは『永遠の門 ゴッホの見た未来』(2017)。
ゴッホの生涯を実に肯定的にとらえた映画だったような気がする。
あれから一週間程が過ぎて、ようやくその印象が自分の中で落ち着き始めている。これこら彼の絵を見る時、わたしの脳内反応は変化するのだろうか。
わたしは彼の絵が少し苦手だ。
糸杉も、ひまわりも、自画像も、得体のしれないエネルギーに覆われていてちょっとグラグラする。まるで狂人になるすんでのところで描かれて絵のように感じられる。そうそう、まるで、ムンクの叫びを見るようだ。
ところが、映画に描かれていた彼は違っていた。
グルグルと回り込むような筆使いは、彼が受け取っている強烈な外の力で、描かずには生きていけないほど、強い衝撃に突き動かされて描き続けていた人なのだ。もちろん苦しい。
タイトルは、ゴッホの見た未来。
そりゃ、彼のスタイルはその時代にはそぐわないにちがいない。けれど、それがいったいどうしてあれほど辛い生き方になるのだろう。
モネやルノワールなど、感じるままキャンバスに絵の具を置く印象派の絵も写実から離れていたはずだ。ただ、彼らの絵は穏やかで静かで美しい。
ところが、ゴッホは感覚的な世界へと進んでいく。
彼が身を置いていた田舎では、常に変人扱いされ、そこまで、、、と思うほど排除されている。なぜあそこまで彼はコミュニティから排除されたのだろう。ギラギラとした目なのか。それとも毎日外で絵を描く得体の知れなさなのだろうか。
なぜ耳を切り落としたのか。
映画では抑えきれない怒りが自分へと向けられていく様が描かれていた。自己嫌悪だろうか。それとも自分を罰する習性があったのだろうか。
まるで、痛みなど何でもないことのような彼の仕草は、残された包帯姿の自画像とよく合っていた。
印象的なのは最後のシーン。
ここでわたしの中のゴッホのイメージが変化した。
ネタバレになってしまうので詳しくは触れないけれど、彼にとって、描くこと以外は大した問題ではなかった、ということなのか。
大けがも、死さえも。
そして、彼は使命を生き切った。
そんな描き方をされた映画だった。
グニャリと感じられる糸杉と、ひまわりと、自画像。あのグニャリはいったい何だったのだろう。
彼の目には、外が、屋内が、景色が、環境が、恐ろしく強く激しく渦巻くエネルギーとして見えていたのだろうか。時間も空間もグニャリとしている。あ、ゴッホ好きの方、ごめんなさい。
何も感じずに穏やかに日々を重ねることが一つの生き方だとするなら、ゴッホはどこにいてもあらゆるものが、大気までも、目に見えたのだろうか。その一つ一つを描き留めていった、そんな人だったのかもしれない。それは、雑踏のあらゆる音を拾わずにいられない音楽家のようでもある。
それが天才というものなのだろうか。
と、ここまで書いてみて、ふと思う。
それでもわたしは、残念ながら、糸杉やひまわりや自画像のグルグルとする筆跡が、これからもきっと苦手なのだろうなと思う。
それなのに、今は、あの映像の中のゴッホの瞳が愛おしい。きっと、彼の瞳には少し先の未来が見えていたのだろう。
※最後までお読みいただきありがとうございました。