見出し画像

阪神大震災(阪神・淡路大震災)の思い出

画像引用:神戸新聞NEXT
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/

今年(2020年)で阪神大震災から25年が経ったということで、
もう四半世紀、早いものである。

震災の事は、今でもよく覚えている。

私は当時、兵庫県の西宮市に住んでいた。
大学受験に失敗し、予備校に通う浪人生であった。
センター試験の二日後だったのを覚えている。

1月17日、午前5時46分(この時刻も未だに忘れない)。

震度は多分6である。

私はもちろん寝ていた。

突然、
ガンガンガンガン!!!!
という轟音と共に、部屋全体が揺れた。

私の家は、マンションの9階にあったので、
揺れもひどかった。

轟音と、激しい揺れ。

何が起こっているのか分からなかった。

世界の終わりかと思った。

どこかの核ミサイルが落ちたのかとも思った。

本棚から、本が溢れ落ちてきた。
実はその時の私は、
父の部屋を貸してもらっていたのだが、
父は読書家だったので、
部屋の四辺は本棚で埋まり、
天井まである本棚には本がぎっしり入っていた。

「父ちゃん、これ地震があったら俺、本に埋もれて死ぬよ笑」

なんて冗談で言っていたのだが、
本当に地震がきたわけだ。

当時、東京は地震が多かったが、
関西は普段からほとんど地震がなく、
「関西に地震はこない」という空気があった。

そのため、国や県は、この大災害にすぐ対応できなかったとされている。

とにかく、
バラバラバラとひっきりなしに身体の上に落ちていく本に、
私は埋もれていった。

「うわああああああ!!!!!!」

と、絶叫していた。
心の底から叫んでいたのは、私のこれまでの人生の中で、今のところあれだけだ。

永遠とも思える揺れと轟音がおさまったあと、
身体を動かそうとすると動かない。
頭のてっぺんから足の先まで、
4.5畳の部屋一面に本で埋もれていた。
だいたい30cmくらいの厚さはあったと思う。

地面の中から出るゾンビよろしく、
本の海からなんとかはい出したが、
今度はドアが開かない。
部屋は内ドアになっているため、
くずれた本をとにかくどかさなければならなかった。

寒い。
着てるのはパジャマだけだ。
上着も本のどこかに埋もれている。

真っ暗だ。
電気が点かない。停電している。

部屋の外から、母親の叫び声が聞こえる。

私と、私の隣の部屋で寝ていた妹を案じているようだった。

とりあえず本をむちゃくちゃにどかして、
なんとか10cmほどドアを開けることができた。
懐中電灯も見つけた(私は枕もとに懐中電灯を置く癖があったのだ)。

廊下へ出る。
真っ暗で色んな物が散乱しており歩きづらい。

とりあえず家族四人、リビングへ集まった。
キッチンは割れた茶碗と、天ぷら油らしきものが散乱しており、
非常に危険だった。

とりあえず倒れていたテレビ(当時はブラウン管だったためめちゃくちゃ重かった)を起こしたが、
やはり停電なので点かない。

何が起こったのか、
こういった大災害の時、
人間が最初に一番必要とするのは、情報なのだ。
余談だが、これ以降、私は、
ポータブルのラジオを枕もとに置くようになった。
(今ではあまりしてないが……)

ドタバタしているうちに夜が明けてきた。
電気、ガス、水道、全て止まっていた。

とりあえず何が起こっているのかを確認するために、
私が自転車で外の様子を見に行く事になった。
何か食べ物を売っていたら買おうとお金も持っていったが、
もちろんどの店も開いていなかった。

最寄りのバス停まで自転車を走らせたら、
道路が泥のような水浸しになっていた。
その時の私は知らなかったが、液状化現象というやつだった。
液体のアスファルトが地面の上に噴き出ているのだ。
それを知らず普通の泥水だと思った私は、
自転車で通り抜けようとしたが、
泥水はセメントでできており、
少し入り込むとものすごくペダルが重くなり、
自転車が全く動かなくなった。
しかたなく自転車を降りて、
足元がセメントで濡れたまま通り抜けることにした。

街はシーンとしていた。
いつもは24時間開いているコンビニも、
もちろん電気は消えており、営業していなかった。

何も成果がなく、私は家に帰った。

私達はとりあえず残り物で腹をなんとか満たしたが、
一番辛いのは水が出ない事だった。

まず、トイレが流せない。

生理的なものなので、どうしてもトイレに行かざるを得ないが、
タンクに水が溜まってないと、トイレが流せないのだ。

そこで、一番近い、私と妹が通っていた中学校まで行き、
プールから水を持ち帰ることにした。
水道が復旧したのは2週間後くらいだったような気がするが、
それまで、家と中学校を往復しポリタンクに水を汲むのが日課になった。

恐ろしいことに、必死になって組んできたポリタンクの水も、
トイレを一回流すだけで、半分が使われる。
これには驚いた。
それ以降、家族で、トイレは4~5回に一度だけ流すように決めた。

次に辛かったのは、
食べた後の食器が洗えないことだった。
キッチンペーパーで拭くしかできなかった。

飲み水はどうしていたのだろう。記憶があやふやだ。
少しは蓄えがあったのかもしれない。

だが、初日は、何も来なかった。
救援物資も、給水車も、何もだ。
これはその後、改めて私が色んな人に話した事だが、
もし大地震が起こった場合、
少なくとも震災初日は、
何も助けが無い。
自分たちの力だけで生き延びるしかないのだ。

その中学校のグラウンドに給水車がきたのも、
二日目以降だ。
ものすごい行列で、
飲料水にもなったが、
ポリタンクに水をもらえるまで、
2~3時間は待ったと思う。

初日の話に戻すと、
その日の夜、偶然に何かの情報が入り、
近くの消防署で水が出ているらしいという事が分かったため、
私と父親は消防署へ向かった。
小さなパイプからチョロチョロと水が出ていたため、
初日はそれを手に入れて持って帰った。

初日の夜が一番恐ろしかった。
マンションの階段から神戸の方を見ると、
火災のため空が真っ赤に燃え上がっていた。
大変なことが起こったと思った。
部屋は真っ暗で、ひっきりなしに余震が続いていた。
私の部屋は本が散乱しており寝られないので、
別の部屋で妹と並んで寝た。

次の日。
私はセンター試験の自己採点を提出しに、
予備校へ行かなければならなかった。

予備校は神戸の三宮にあった。
阪神電車は途中までしか行かず、
途中からバスだったが、ものすごい待ったうえ、渋滞がひどかった。
さらにバスから降りて延々と歩いていった。

いつもなら30分くらいでいけるところを、
2~3時間ほどかけてなんとか辿り着いた。

予備校はなんとか開いていた。
必要な手続きを済ませた後、
なじみのセンター街の方を歩いてみた。

このとき私は、「廃墟」というものをはっきりと知った。
「廃墟」という言葉は知っていたが、
これがその「廃墟」だと思った。

呆然としながら、とぼとぼ駅に向かってあるいていると、
道端で飲み物を配っている人たちがいた。
お茶だったかコーヒーだったかももう覚えていない。
だが、その一杯の飲み物を啜った時、
なぜか泣きそうになって、
「ああ、まだ人間は大丈夫だ……」
なんて思っていた。

電気は意外と数日で復旧した。
水道は2週間くらいかかった。
ガスが一番遅くて、2か月くらいかかった気がする。

母の友達には、亡くなった方もいた。

私達のマンションは倒れなかったが、
土台のそばの土が大きくえぐれてるのを見てゾッとした。
そうでなくても、
ちょっと最寄り駅の方まで自転車を走らせていると、
倒壊した家がゴロゴロしていたのだ。
マンションが倒れずに済んだのは、
ギリギリだったかもしれない。
(書き忘れたが、上記、震災を体験した時、
このマンションが倒れると思い、「死ぬ!」という言葉が一瞬頭をよぎった)

その後、長い時が流れ、
私達の心も平常に戻ってきたと思っていたが、
10年ほど前、
「ロサンジェルス大地震」というテレビ映画を見た。
余りのリアルさに、吐き気を催し、気持ち悪くなった。
また、淡路島に大震災の記念館ができたので、
そこにも行ってみたが、
震度7の地震が体感できるコーナーで気分が悪くなった。

平常に見えても、何かは私達の心に残っているものだ。
それはPTSDの一種なのかもしれない。
「それ」は、何かのひょうしに、表面に浮かび上がってくる。

年末恒例の
「今年の漢字」は震災のあった1995年から始まった。(その時の感じは「震」だ)
神戸ルミナリエも、震災で亡くなった方の鎮魂から始まった。

今年で25年が経ったが、
ずっと長いこと仮設住宅に住んでいた方達は、どうなっただろう。
なんとか少しでも平常に近い生活に戻っていたならいいのだが。

東日本、熊本、北海道と、
様々なところで起きてきた大地震だが、
直下型ということで、
阪神大震災もまた、歴史に残っていく大地震の一つであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?