今を感じ、今を楽しむために
教員をしていたころの私は
旅行はもちろん
どこかへ出かける時
何かをする時
今、この場を楽しむ
ということができていなかったな…
ということを感じています
教員の仕事は自分の人生全てが仕事につながる
というのを
教員は私生活でも教員としての視点をもって生活をしなくてはいけない
という捉え方をしてしまっていた私は、プライベートでも仕事のことばかり考えてしまっていました
どこへ行くにも
何をするにも
何のためにするの?
何のために行くの?
目的は何?
そこで得られることは?
そこで何を学ぶの?
その経験から何を学んだの?
そこで学んだことをどう授業に活かすの?
その経験を授業や学級活動にどう活かすの?
子どもたちや保護者にどう伝えるの?
(場合によっては)同僚や他校の先生にどう伝えるの?
と考えてしまっていたんです…
そんなことをしているうちに
純粋に日常生活を楽しむ
ということすらできなくなってしまっていました。
我が子が生まれてからは
我が子との関わりのことや
子育て経験のことを
クラスの子どもたちや保護者に
どう伝えるのか?
どう活かすのか?
そんなことばかり考えてしまって
子育ても楽しむことができなくなっていました。
日常生活も楽しめていなかったんだから
子育ても楽しむことができないのは
当たり前だと今は思っています
我が子が生まれて、ママ友ができ
子育てのちょっとした相談や
学校や学校の先生との付き合い方などの相談を
プライベートでも受けることが増えていきました。
その時も、
私立小学校ということもあり、
「学校の看板を背負っている」
「私がちょっと話したことが学校の考え方と捉えられてはいけない」
「先生の視点になりすぎても、保護者の視点になりすぎてもいけない」
とものすごく言葉を選びました。
1つのメールを返すのにも何時間も誤解などを与えないように慎重に慎重に言葉を選び読み返しながら返信していたこともありました…。
組織の一員としての意識が強かったため
産育休中も
ただ純粋にママ友との付き合いを楽しむ
ということもできていなかったように思います。
公立の先生とはまた感覚が違うのかもしれませんが、
やはり私にとっては
「自分の口にした一言が学校の評判につながる」
そんなことが重荷でもありました。
そんな私が
/
毎日海に行くこと
\
以外にも決めていたことがありました。
それは、
/
何かを学ぼうとしないこと
\
今までは沖縄に行くと必ずと言っていいほど
戦争関連の施設や米軍基地の近く行っていました。
「沖縄に行った」
と話すと
「どの施設に行ったの?」
「あそこの展示にある〇〇からは、どんなことを感じた?」
「米軍基地周辺に行くと改めて戦争や歴史、国際問題について考える機会になるわよ」
などと同僚や他校の先生に言われるので
旅行はただただ楽しむものじゃない
そこで得たことを教育現場に活かさなければいけない
子どもたちに伝えるという目的意識をもって色々なものをみなければいけない
そんな感覚になっていました。
私は、
今を感じ、今を楽しむために
「何かを学ぼうとしない」
ということを決めました。
「何かを学ぼうとしないこと」
それが、
「今を感じ、今を楽しむこと」
につながるのではないか
と思ったからです。
私は教員をやめなければ、一生この考えには辿り着けなかったかもしれません。