見えない光と手をつなぐ
★この記事は、Skyアドベントカレンダー2023への参加記事です。
★主催は「読書に親しむ定例会」を開催されている書庫番様。楽しい、素晴らしい企画をありがとうございます。最後の一枠、お借りいたします。
✦ Skyアドベントカレンダー
X(旧Twitter)のタイムラインを見ていると、「Skyの記事、書いてみませんか」という文が目にとまった。Skyの記事?面白そう、と気になり詳細を見に行く。”Skyアドベントカレンダー2023”という企画が開催されるらしい。主催は自称書庫番様。”書物に親しむ定例会”という、毎月6日と7日に書庫に集まって自由に本を読む会を開催されている星の子さんだ。私もたまに参加させていただいている。
アドベントカレンダーとは、12月をカウントダウンしながら楽しむためのカレンダー。布や紙でできていて、ポケットが付いており、毎日その日の日付のポケットを開けるとお菓子やプレゼントが入っている。この企画では、お菓子の代わりにSkyにまつわる記事を入れるということで、その記事を書きませんかという呼びかけだった。楽しそう。早速カレンダーにまだ空きがあるか見に行くと……最後の1枠、最終日、クリスマス当日、つまり今日の枠が一つ、空いていた。い、いろんな意味で最後の1枠……トリにふさわしい記事、書けるかな?などあれこれ一瞬考えたけれど、「ええい、ままよ!」と勇気を出して参加させていただくことにした。それから早一か月。12月が始まり今日まで、合計24記事が公開された。記事はこちらから読むことができる。
✦ あたたかいもの
何を書こうか考えながら、Skyに生まれ落ちてからこれまでのことを思い出しつつ、毎日公開される記事を読んできた。実に多様な星の子さんたちが書き手として登場する。内容も、自身が主宰されている集いのこと、フレンドとの思い出、好きなアイテムやエリアのこと、合奏、アクセサリー作り、実録、クイズ、おはなし……色とりどりで形も手触りもさまざま。そしてどの記事にも、書き手の星の子さんが自身の内側から取り出し、包み、記事という形にして置いてくれた、あたたかいものが込められていた。ひとつひとつ読むたびにあたたかさに触れ、たまらなくうれしくなる。
このあたたかいものはなんだろう。
あたたさに触れながら、言葉を探してみる。それは書き手の星の子さんがおもしろいと思ったこと、うれしいと思ったことで。心が、感情が動いたことで。思い出、記憶、その人の感性そのもののような、存在そのもののような。魂と呼ばれるものかもしれない。
触れるとなんだか嬉しくなる。なぜだろう?
自分のなかで似たような温度のものが動く。普段は気づけない、目に見えない自分の魂の炎のようなものだろうか。それが呼応してゆらめいて、その熱に一瞬触れて、そこにあると実感した喜びだろうか。だれかの心がうごくと、私の心も同じようにうごいて、心がうごくということはただそれだけでとても嬉しいことなのかもしれない。あるいはそういう、目に見えない、その人が隠していては触れることのできない熱や光を、見せてもらえたこと自体が嬉しいのかもしれない。
記事を読んで、「自分もフレンドとあんなことがあったな」「違う出来事を通して同じようなことを思ったな」「おもしろい」と思う。そのとき、私のからだの中であたたかい思いや、何か熱のようなものが呼応するように光っていた。Skyにもらったそういう光る種がたくさんある。Skyがきっかけで生まれた交流で、そういうあたたかいものに触れたことがたくさんある。Skyについて書きたいことの断片が、どの記事にも書かれていた。私は、Skyのおかげでできるようになった「自分と手をつなぐこと」について書いてみようと思う。
✦ 自分と手をつなぐ
✧ 夜明け前
Skyに生まれたのは2020年6月、魔法の季節の終り頃だった。そのころの自分は、いつも胸に喪失感を抱えていたように思う。無力感にさいなまれ、何をやったって無駄だ、となげやりに生きていた。こう書いてみるとひどいものだなあ。けれどもどうしたらその状況を抜け出せるのか、わからないでいた。それから三年半が経って今、ずいぶん変わった。自分と仲良くなって、大切にできるようになった。Skyで出会ったフレンドやそこから広がった交流がきっかけで、自分のなかにあるものを見せることができるようになり、今を生きられるようになったからだ。
✧ 子どもの自分が目を覚ます
Skyで遊ぶようになってしばらくたったころ、不思議な感覚に陥った。フレンドと遊んだり喋ったりしているのは自分なのに、自分じゃないような感覚。自分の星の子の背中を追いかけながら、その背中に「あなたは誰」と問うと、「子供のころの自分だ」と返ってきた気がした。
Skyでは、生れ落ちてから子どもの時代を追体験する。何も持たずに生まれて、何もわからないまま進んで、先人に助けられて成長する。放課後の公園のような場所で他の存在と交流を持っていく。いろんなものに興味を持って、いろんなことが新しくて、いろんなものが怖いけれどおもしろそうに思えたころの記憶。すっかり忘れていたのに、鮮明によみがえる。体の奥底で何かがうごきはじめた。Skyで子ども時代を追体験するうちに、自分の中にいる、子どもの自分が目を覚ましたのだ。
✧ じゆうにあそぶ
たかがゲーム、誰も私のことを知らない、何かやらかしても死にはしないという思いが、ふだん自分を縛り付けている力を緩ませたのかもしれない。星の子のからだをもらって、子供の自分はやりたかったことをやるようになった。感情を表現して、思ったことを言葉にした。
フレンドとたくさん遊んだ。キャンマラへ行き、理由もなくホームの上空へチャットテーブルを出しながらどこまでも登ってきれいな夕日を一緒に見た。試行錯誤しながら宇宙まで飛んで天空の城を見た。どこで何をしているか関係なく、隣にいる存在の心が動いていることがわかるだけで、たまらなくうれしくなると知った。
感じたことを素直に言葉にして伝えた。今楽しいということ、新しい髪飾りがあなたに似合っていること、あなたに会えてうれしいこと。素直な言葉を受け取ってもらえる喜びを知った。
言葉にならないとき、チャットを開放していないとき、エモートを使って、ハグをして、ハートを送った。言葉がなくても、花火がきれいだということ、新年をあなたと祝えて嬉しいということは伝わるのだと驚いた。言葉にこだわらなくていいと思った。
日本語でたくさん喋って、英語でもたくさん喋った。世界はどうやら広いらしい。
喧嘩もした。友達と喧嘩をした記憶など、ほとんどない。普段の自分なら何も言わず距離を置くけれど、ちゃんと怒りを表現して、そのあと「これが嫌だった」と相手に伝えて、仲直りもした。初めての喧嘩だったかもしれない。震えて手足が冷えるほど怖かったけれど、嫌だという気持ちを相手に伝えても、わかってもらえることもあるのだ、何も失わないという経験をした。
悲しい時、誰と遊ぶ気にも、話す気にもなれずに、孤島の洞窟でぼうっとしていた。フレンドはそっとしておいてくれたし、見知らぬ子は静かにピアノを弾いてくれた。こちらに気づいている誰かの気配がするだけで、こんなにも救われるのだなと思った。
自由に自分を表現して、たくさんのフレンドが受け入れてくれたことで、私の中でずっと泣いていた子供が笑うようになった。悲しかった記憶、怖かった記憶は光る種に、あたたかい記憶に姿を変えた。
✧ からだのなかの海
ひとつひとつの出来事があるたび、自分の体の中で何か大きなものがうごくようになっていった。なにかがうごいて、その波が星の子を通して喜びだったり、悲しみだったり、言葉にならないときはエモートで、ハグすることで表現されるようになった。やがてその波はあらわしきれないほど大きくなり、たくさんの出来事は大切な思い出となって抱えきれなくなって、絵や文にして形に残すようになった。Twitterにアカウントを作り、絵やSky日記を投稿し始めた。自分の中にあるものを人に見せるなどすごく怖いのに、奥底からやってきた波がそんな恐怖を押しのけた。その勢いは勇気のようなものだったのだろうか。そうして自分からあふれ出たもの、感情豊かな自分のことを、私はumiと呼ぶことにした。
ものごとというのは、思うより大きいのだと思う。「海だ」と思っても、それは海の表層の一部でしかなく、「地面だ」と思っても、それはうねるマグマの表層に過ぎない。 自分の存在や感情も、そうなのだと思う。私が最初にumiだと思ったものも、umiのほんの一部でしかなかった。それは思うより大きく、確実に私の一部で、そしてどうやら私自身はそれよりもさらに大きい存在だった。私は私の何をも知りえていなかった。体の奥底でうごいたもの、そのとき感じたものをどうにか形にしようと向き合って、初めて気がついた。
一体何を使えば、からだの奥底でうごいたものを形にできるのだろう。文字を使い、絵を使い、写真を使い、漫画にしてみたりした。なにか大きなものに確かに触れたのに、それを形にするということは、表現するということは、なぜこんなにも難しいのだろうと思った。確かにそこに何かあったのに。何か光っていた。何か熱をおびていて、とても綺麗だった。それを覚えておきたくて、忘れたくなくて、形にして残そうとした。
そうやってどうにか形にしたものを置いておくと、見てくれる人が現れて、いいですね、と声をかけてくれることすらあった。ものすごくびっくりして、ものすごく嬉しくなった。すぐに消えてしまいそうで、忘れてしまいそうで怖かったものを、自分以外の誰かが観測してくれたり「いいね」と言って受け取ってくれると、ちゃんとそこに在るのだと信じられるようになった。
抱えきれずにあふれて、両手からこぼれ落ちたと思った宝物は、誰かに受け取ってもらった瞬間に贈り物になった。ありがとうと言われて、こちらこそ、その数倍のありがとうですと思った。贈る側になって、受け取ってもらえるということはものすごく嬉しいことだと知り、誰かからの厚意や贈り物を素直に受け取れるようになった。受け取って、ますます両手に宝物があふれていった。
Skyにうまれてすぐのころ、ベテランの星の子さんからありったけのキャンドルをもらったことを思い出した。ありがとうございますと言おうにもチャットが使えず、キャンドルは2本しかないからチャット開放もハートを送ることもできない。お辞儀をしようにもエモートがない。見えないのに画面のこちらで必死に頭を下げる。もらうばかりで、助けてもらうばかりで、いつか、どうにか返そうと強く思った。それから夢中で遊んでいるうちに気づけば自分が十枚羽の白ケープになっていて、贈る側になっていた。キャンドルも余っているし、始めたてのひとにハートを受け取ってもらえると嬉しかった。やることもないので精霊開放のお手伝いは何の苦でもなくむしろ楽しい。あのひともこんな気持ちだったのかなと思った。結局、ベテランの星の子さんに返そうにも「アイテムは全部持ってる上にハートは余ってる」と言われた(強い)。
表現してかたちに残したい何かは、キャンドルの火のようにあたたかく、揺らいで光っている。それはからだの奥底のおおきなものから生まれてくる。いつもうごいていて、とめどなくあふれ、あふれでたものを誰かが受け取ると贈り物になるおおきなそれは、愛と呼ばれるのではないかとふと思った。
✦ 今を生きる
✧ 海の正体
目にはみえないけれど、からだの奥底でたしかにうごいている大きなものの正体は、魂や、愛と呼ばれるものなのではないかと思う。それは記憶や感情で、なにか熱を持っていて、ひかっていて、あたたかくて、強くなったり弱くなったり、炎のように揺らめいている。目には見えない自分自身。
幼いころ、そういうものを自分はちゃんと知っていて、感じて表現していた。しかし成長するにつれてそういう子供の自分を恥ずかしく思うようになった。大げさに悲しんだりわめいているように思えて、自分の繊細さを必死に隠した。隠して隠して、隠したことすら忘れた。それほど必死に隠したのは、守りたかったからかもしれない。とても大切なものだから。胸にあった喪失感の正体は、大切なものを忘れてしまった感覚、魂や感情の欠落だ。感じる自分をからだから追い出してしまったから、どこにも居場所がないような感覚になっていた。本当はそんな存在ですら世界はゆるしているのに。いつだって居場所はその体一つ分、必ず世界に存在している。
忘れてしまった、なくしてしまったと思っても、感じる自分はからだの奥底で深い眠りについているだけで、外側から呼びかけてくるものに呼応して目を覚ます。美しい景色、自然の音、優しい言葉。隣にいる人の心が動いていること、誰かの思い出、悲しかったこと、嬉しかったこと。隣に誰かが、何かの魂や揺らぎが存在しているだけでもいいのだろう。それだけで、自分のなかで同じようなものが揺らいでいること、持っている温度や手触りがあることに気づくことができる。横に立った魂の炎が、照らしだしてくれるのだ。この世界ではすべてのものが、鏡のように自分の中にあるものを映し出す。Skyでもらった思い出や経験は、私のからだのなかで深く眠っていた大切なものをよみがえらせてくれた。誰かが表現したものには、その人にしか表現できない魂のゆらぎや手触りや温度があって、私の心をそのひとにしかできない照らし方で照らし出してくれる。星の子の胸にしまわれたキャンドルのようだ。
✧ 心の動きだけが今
目の前の何かに心が動いたとき、「わたしは今ここに生きている」と実感する。それは目に見えないもので、触れたと思ったら消えているような実感だけれど、見つけたら握りしめるのではなくて、今確かにそこにあった、そこに光っていたと信じるだけでいい。今を生きるということは、感情をきちんと感じることだ。どこで何をしているかは関係なく何を感じたかという実感だけが、今を生きることを可能にする。その連続が人生なら、人生は何を感じて生きたかがすべてなのだろう。悲しんで生きるのも自由、楽しんで生きるのも自由。Skyは心をうごかしてくる。今を生きてと呼びかけてくる。
✦ 炎を掲げる
Skyのおかげで、感じる自分を取り戻して、からだの奥底にある魂や愛に触れて、胸にあった喪失感はいつしか消えていた。それは単純に大人になっただけかもしれないけれど、その過程にSkyがあったことはわたしにとって幸運以外のなにものでもない。
すべてのきっかけは胸にあった喪失感だった。あの喪失や苦しさがなかったら、今の自分には特に大切なものもなく、何もわかっていなかったかもしれない。そう思うと、今もがいている人も、今苦しんでいる人も、未来のその人が大切な何かを見つけ出そうとしているのだと思えるようになった。たとえ直接的に助けることができなくとも、ただ私が存在してひかることで、その人の何か大切なものを照らし出せることだってあるかもしれないと思えるようになった。わたしの世界は平和になった。
ひとは皆、共通の絶望を抱えていると思う。それは肌と肌を隔てて、ひとはどこまでも個だという絶望だ。うれしい気持ち、満たされた時のあたたかさ、感動した時の胸の熱さを、そのまま誰かに分けることはできない。誰かの抱える痛みや喪失を、代わりに持ってやることもできなければ、その逆も然りだ。自分の悲しみや痛みを、誰かに代わってもらうことはできない。自分でしか自分を救えない。
でも。自分で自分の魂を揺らして、それを表現すれば、だれかの魂も同じように揺れるかもしれない。自分で自分の魂を光らせることができたら、だれかの大切なものを照らし出せるかもしれない。だから感じる自分と手をつなごう。子供の自分と手をつないで、魂に火を灯そう。あなたの世界を平和にしよう。自分に爆弾を落とすのをやめて、手をつなげるように。隣り合う世界が平和なら、それはいつか世界平和になる。私はそれを希望と呼んでみようと思う。
希望はたぶん、動詞であらわされる。気持ちを表現する、感じる、歌う、書く、書く、作る、さわる、なでる、手を伸ばす。胸からキャンドルを取り出して灯す。そのとき必要なのは、ほんの少しの勇気かもしれない。
Skyで、キャンドルをかざして闇を払うとき、とてもふしぎだった。キャンドルの火はとても小さいのに、なぜかざすだけで闇の花は震えて焼け落ち、岩は砕かれ、石化した精霊を救えるのか。砕ける闇の季節で気が付いた。キャンドルをかざすと、大きな岩から大量の火種が飛び出して私のキャンドルをめがけて集まってきた。そのとき、岩を砕いたのは私のキャンドルの炎ではなく、岩の中にあった火種が外に飛び出すエネルギーだったのだと気が付いたのだ。闇の中でねむっていた火種が、私の持つキャンドルの火に呼応して、私のキャンドルを目指して飛びだす力で岩は砕かれた。
闇は光に敵対するものではなく、光を守る役割をするのだろう。消えそうな光を奥底にしまって、じっとしかるべき時がやってくるのを待っている。どれだけ闇に飲まれても、ちゃんと光に呼応していつか目を覚ます。目を覚ました火種は、いつかうねりとなってあふれ出るだろう。
今回のSkyアドベントカレンダー2023では、書庫番様が掲げた炎に25個の光が集まった。それぞれが違う揺らぎ方で、それぞれの光り方で集った。共通するのはそこにあたたかい熱があるということだ。炎が掲げられるとき、その炎に呼応した光がからだをとびだすとき、そこには勇気があったと思う。集まった光は大きな光となり、今この瞬間に何かを照らしているはずだ。
✦ さいごに
最後に。ごめんなさい。大遅刻しました。
25日が担当日にもかかわらず、これを皆様におみせできているのは26日の夜です。心よりお詫び申し上げます。
私が皆様よりも遠い遠い場所に位置している星で、照射された光が1日遅れで届いたのだと思ってくださいという言い訳を考えたのですが、言い訳の使用がありません。ごめんなさい。
書物に親しむ定例会は、毎月6日と7日に開催されています。本を一冊携えて、書庫へ。隣り合うひとと今を共有しにいきましょう。
ちなみに、わたしは定例会にも毎回大遅刻をしております。日付を回るころに遅刻遅刻~~!!と飛んで行っております。でも実は、そんな時間でもお仲間がいたりします。たいがいは、余韻を楽しんでいる方、用事で遅れてしまった方などですが。こんなどうしようもないテンポの悪すぎる私ですが、どなたかのなにかを少しでも揺らすことができていたら、幸いです。
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