私にとって“学ぶこと”は自分に寄り添うこと、支えること、心を補強すること
昔から、共感されたいという欲求が強いと感じる。
生育環境もあるだろうが、それより、自分の思考と似ていると感じる人に出会うことがほとんどなかったことが大きいと思う。
だからこそ、どんな時でも孤独感が付き纏った。
自分の行動や考えが変わっていると気づいた時もあった。
それでも、それを誰に伝えても理解してくれない。
じゃああんまり考える必要はないか。
結局何が人と違うのかすらあまり考えず、自分に変人のラベルを貼った。
いまだに、自分を理解されたいという欲求から、考えなしに自分の思考プロセスや変化をペラペラと話してしまうことがある。
そして後悔する。
結局返ってくるリアクションは、求めているものではないから。
本当は、なんでそこまで考えるのかとか、相手の思考プロセスを教えてもらうとか、そのプロセスにはどういう面があるとか、そういう対話がしたい。
でもほとんどの人とは、そうなんだ、で終わってしまう。
そんなとき。
どうしても自分の行動や思考を他人に支えてほしいとき。
肯定してほしいとき。
私は「学び」に没頭する。
今読んでいるのは、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」。
この本の一節は、私の曖昧な思考を肯定し、さらに発展させてくれた。
私はとてもおせっかいだ。過去にそんな自分を「偽善だ」と言われ、与えることはときに自己中心になりえると自戒してきた。
この一節は、そんな過去の自分の行動を受け入れられるきっかけとなった。
「与えること」は、自分の喜びになって然るべきなんだ。
他人に与えることで結果的に自分が幸せになることは、必ずしも偽善というわけではない。
与えることは自分を表現することだと考えると、過去の私はまだ人生経験が足らず、おせっかいをすることで自分の生命力を感じようとしていたのかもしれないと気づいた。
良いと言える行動ではないと思うが、それも当時の私の一つの防衛本能だろう。
そう過去を受け入れ、改めて「愛する」という行為を省みるきっかけになった。
こんな形の行動は心理学の用語で「知性化」と呼べそうだ。
私は共感してほしい、誰かに認めてほしいという欲求を知的活動に置き換えているといえる。
子どもの頃はよく思った。
勉強なんて面倒くさい。
なんでテストで高い点数を取らなきゃいけないのか。
今は心から思う。
もっと自分の興味のあるフィールドの学びを深めたかった。
同じ分野に興味のある人たちとの交流がしたかった。
死ぬまで学び続けたい。より良く在りたい。
おそらく、私の長く短い人生の多くの時間では、孤独を感じることが多いだろう。
その中で、フロムという思想家との出会いが新たな心の栄養となった。
今後も心を育て、補強し、温かいものにしていくために私は学ぶ。
私が私でいることを支えてくれる考え方や、思想家との邂逅が、私は孤独でないと再認させてくれる。
そうして私は、私の心を慈しみ、愛でていく。
お読みくださりありがとうございました。
また、今回も素敵なイラストをヘッダーにお借りしています。ありがとうございます。