看取り時の点滴は《悪》だと決めつけていた。
「食事食べれてないから点滴しようか」
そんな感じで点滴をするかどうかが決められていく。
いちおう、「食事が5割以下が2食続いたら点滴をする」という指示のもと、点滴はおこなわれるのだけど、その量やスピードはまかされていることがおおい。
高齢者は老いていって、食事がだんだん食べられなくなっていく。食べられなくなって、そうしてなくなっていくのが自然なんじゃないか。そう考えていた。それに、食事がとれなくなった細いからだをしばりつけて(駆血帯で)細い血管を必死にさがし、血管に入ったと思ったらやぶれる、のようなことをくりかえしていくうち、手も足もしだいに真っ青になっていくのを見るのがつらかった。
救命センターで働いていたときは、《 命を助ける 》が最終ゴールで、それにむかってそれぞれがどうにか必死で動いていた。
「末梢とって(点滴のルートを確保して)!」
「アドレナリン持ってきて!」
「挿管しようか」
と患者さんの状態を見れば、だいたいこの先どういう治療をしていくのか、それにはどんな準備が必要なのかがみんなわかっていて、忙しくはあってもとてもやりがいがあった。
でも、口には管を入れられてその先には機械がつながれ、両手はベッド柵に縛られて思うように動かせない。腕やひとによっては手首や足の付根から管が入れられ、その先に機械がついてからだから血を抜き、きれいにしてからだに戻す治療がされている。ベッドの横にはツリーのようにたくさんの点滴がぶらさがっているような状態をずっとずっと見てきた。
そんな状態をずっとずっと見てきたものだから、最期はなにもしたくないよね、というのがおおくの看護師のきもちだった。もちろん、助けられるひとたちは必死で助けたいし、元気になってほしいとおもう。それは絶対。
だけど、ある程度人生を謳歌したら、無意味な延命治療はしたくない、というのが経験から受けた印象だった。
だから、施設での最期というのも、できるだけなにもせず、苦痛や苦しさはとって、穏やかな時間を過ごしてほしいというのが、施設ではたらきはじめてからのつよい想いだった。
いくつかの本も読んだ。
最期は脱水傾向で亡くなるほうが本人は楽なんだ、と。
それでも、施設での経験があまりにも少なく、あきらかに勉強不足であるわたしが大きな声で主張することなんてできなかった。
そんななかで、ある本を読んだ。
図書館で借りていた本で、返却期限が近づいていて読めずに返そうか、とおもっていた。ら、いいのかわるいのかインフルエンザにかかってしまった。(ほんとうはよくない。インフルエンザのおかげで予定がすべて台無しだ。迷惑はかけるし、ケアマネの研修にも行けないかもしれなくて、おかげで資格をもらえるのは延期になるかもしれない。)
まあとにかく、おかげで思わぬ時間ができて、借りていた本を読むことができた。
いくつかのはなしは、よくぶつかる問題で、施設看護師歴1年のわたしも遭遇していたできごとに似ていた。
やっぱりそうだよね。家族は揺れるよね。
そうおもいながら読んでいたときだった。
え?
「点滴で伸ばした1ヵ月で妻ができたこと」?
《 点滴=悪 》だとおもっていたのに、点滴はいいことだったの? ただ点滴をするだけなんて、それがいいことにつながるの?
読みすすめていると、
「(中略)もう何もしないと、私は半分強がりのように言いました。でもいつ死ぬかわからないと言われてから点滴で命を延ばしてもらった1ヵ月のあいだに、ずいぶん心の整理もさせていただいたし、自分の判断は間違っていないという確信ももてました。・・・私にとってこの1ヵ月はとても貴重でした。」
ああそうか。点滴をして延ばす時間は、無駄でも悪でもないのかもしれない。
「もう何もしたくない」「できるだけ治療してあげたい」
家族間で意見が食い違うことはとてもよくある。
そうなると、優先されるのは「治療してあげたい」という意見で、結果病院へ行ってみてもらうこととなる。
でも、そこにきた家族とはなしているうちに、揺れながら、病院に受診しながら、すこしずつ「親の命はもう長くない」ということを覚悟していくのかもしれないと感じた。身近なひとの死を受け入れるのには時間がかかるものだ。ことばを話す親を目の当たりにして「何もしなくていいです」なんてきっぱり言えるほうがすくないのかもしれない。
急性期と違うのはこのキーパーソンの存在かもしれない。
急性期ではキーパーソンに治療方針の決定権があり、家族などの意見をまとめてひとつにしてもらってからこの先どのような治療をするかどうかなど話をすすめていく。
一刻を争うのだから迷ってはやめて、をくりかえしている暇はない、というのも事実ではあるけれど、キーパーソン以外の親族が出てきて意見を言う、なんてことはめったになかった。
でも、施設はちがう。
キーパーソンとなる人物がいたとしても、それ以外に影のキーパーソンのような人物が存在して、右往左往してしまう。施設側としたら、その意思決定によって対応が180度変わってきたりもするものだから、どんなふうにそのひとと関わっていけばいいのかわからずとまどってしまう。
でも。
終末期のケアについて講演をするような専門職でも、親を目の前にすると揺らぐ。
あたりまえだ。
じぶんを生んで、育ててくれた親のいのちを決めるのだ。
じぶんの命ではなく、親の命、だ。
そもそも、迷ってあたりまえなのだ。
そのひとの最期のじかんをおだやかに過ごせるようなおてつだいをするだけでなく、家族へのケアもしているのだ。
点滴をする基準がどうかはさておき、《 点滴=悪、自己満 》なのではなく、その点滴をすることで家族がそのひとと過ごせる時間をつくることが大切なのだ。
本人も、だけど、家族も、後悔しないような時間を過ごせるようなかかわりができるようになりたいとおもうし、家族へのグリーフケアは、きっと、《 死 》という扉が見えてきたそのときから始まっているのだとおもう。