身体感覚と行き詰まり
やることが見つからない苦しさ
ここのところ、特別用事がないときは、頭で今からやることをひねり出さないで自分の身体感覚にゆだねるようにしてきた。頭で考えると、自分に無理強いしてしまうところがあって、やるべきことは見つかるのだが、どこかで「で、それが何になるの?」と反論している自分がいるように思うようになったからだ。
ところか、連休で時間がたっぷりできたせいか「今日はやることがない。どうしよう~~」という気持なることが何度もあった。からだにはけだるさが鬱積し、何をやろうとしても気乗りがしない。かといってぼんやりしていると、虚しさが忍び寄ってくる。
誰かから「一緒にやろう」などと声かけをしてくれたらどんなに楽だろうとか、何もやることがないってこんなに苦しいのか、などとつい考えてしまった。
限定してみる
そんなとき、ある本(note?)にこんな話が出ていたのを思い出した。それは教師が課題を出すとき、何も書いてもよいなど漠然としたテーマだとかえって、学生がどうしたらよいか分かず困らせることになる。それよりも書き出しはこの言葉から始めなさいなと、限定した方が却って伸び伸び書けるという話だった。
これを自分でもやってみようと考えた。ただ私は学生ではないので、課題が与えられているわけではない。そこで、自分でやるべきことやりたいことを(強いて)挙げてみて、好き嫌いは別としてそれをやるとしたら、まずどんな形でやり始めるかという発想で、今この状態でも可能なことの一つを選んで始めることにした。
よく考えると、自分は何かをやり始めるときは、いつの間にか身についているパターンがある。片づけをしようと思うときは、机の上のものから始めるとか、である。
すると「興味はあるが、大変そうなので今はやりたくない」とか「どうせやっても続かないだろうから、やらない」といったものが「どの程度大変そうか」とか「続きそうかどうか」といったことが見えてくるようになり、結果としてその中から、「多少はやりがいを感じそうだ」というものを探しやすくなり、実際少し具体的にもやってきた。
このやり方は、身体感覚ではなく、合理的思考を使った作業ではある。しかし道に迷ったとき、たとえ貧弱でも「どうしたらよいか」の指針があった方が、歩きだしやすいのだろう。