マッチ売りの理想
30歳を過ぎた頃、久しぶりに会う友人とお茶をしていたら、パートナーと別れたばかりの彼女がぽつりと呟いた。
「結局、理想の家族になれなかったなぁ」
「理想の家族って?」
ぼんやりととした霞の向こうにあるようなその言葉を掴みかねて、私は聞いた。
彼女は手にしていたコーヒーカップをソーサーに置いてから、少し考えて言った。
「うーん……たとえば、休みの日はレジャーシートを持って、ワンボックスカーに乗って、近くの公園でピクニックをしたりとか。パパとママと、子供二人とさ、お弁当を食べた後にはみんなで芝生の上でバトミントンをしたりとか、そういうやつ」
幼い頃から家族の縁が薄かったという彼女は、窓の外の曇り空に目をやりながら語った。
それを聞いた私は、霞が晴れるどころか、ざわざわと落ち着かない気持ちになった。ふいに頭をよぎったのは数年前まで勤めていた広告会社の、打ち合わせでのできごとだった。
当時、私はプランナーとしてCMの企画に携わっていた。その日はある商品のテレビCMのプレゼンテーションに向けて、各々がアイディアを持ち寄っていた。ファミリー層がターゲットのその商品を訴求するため、メンバー数人が自分の案を順番に説明していく。
そして、ある40代の男性社員の番がきたとき、彼は一枚のA4用紙を手にして言った。
「ファミリー向けなら、やっぱりこういうのがいちばんかと」
彼の絵コンテは、休みの日にピクニックに出かけて、レジャーシートの上でお弁当を広げる家族の楽しげなやりとりを切り取ったものだった。
なんだかやるせない気持ちになった。
彼は妻子がありながら不倫をして離婚をして、今は一人で暮らしているのをその場にいる誰もが知っていた。彼は他にもいくつかアイデアを出したが、並んだ絵コンテは全てそういう類のものだった。
自分の行いがもとで一家離散した人が家族でピクニックって、どの口が言ってんだか。と、少しは思った。
でもそれは核心ではない。
私たちの仕事はクライアントの課題を解決することだし、それに相応しい案なら自分の状況とどんなにかけ離れていようとも堂々と出せばいいと思う。私だって散らかった部屋で整理整頓の標語を書いたことがあるのだから、他人のことはとやかく言えない。家庭の事情もそれぞれにあるのは当然だ。
ただ、彼の案は全く心に入ってこなかった。
その絵コンテは一見現実ふうだが、よく見ると何もない。マッチ売りの少女が寒い路地に佇んで見ている、温かい部屋の幻のような虚しさを覚えた。
これが採用されてテレビCMとして全国に流れたら、当たり前だけど見ている人は一家離散した人が作ったCMだなんて思わないんだろうなあ……
ぼんやりとそんなことを考えた。
もちろん私は彼の内実を知らないので、本当はピクニック家族に憧れているのか、クソ食らえと思っているのか、うまくいっていた頃の楽しかった思い出を抽出して描いたのか、本当のところは分からない。
けれど説明を聞きながら、なんだか貼り付けたみたいな世界だと思った。どこかから借りてきたものをそれっぽくまとめただけの、張りぼてみたいな絵コンテ。
結局その案は通らなかったけれど、似たようなことはほかにも何度かあった。
高校時代に友人がひとりもいなかったという人が持ってきた、部活仲間の高校生が楽しそうに水辺ではしゃぐCM案。結婚なんかしたくないという人が持ってきた、サプライズのプロポーズを描いたCM案。
そうじゃない人にかぎって持ってくる、どこかで見たようなものを貼り付けたような、心に刺さらないアイデア。どれも通らなかったけれど、妙に気になった。
家族とか、友情とか、愛とか。
繰り返すけれども、これは仕事なのだし、出した本人がどう思っていようとも、必要としている人がいるのならば悪いことだとは全く思わない。ありきたりで陳腐なアイデアがクライアントに喜ばれることもよくあることだった。
たとえば「家族」というワードで検索してみても、睨み合う大人と子供の画像なんて出てこない。幸せそうに微笑む老若男女の画像がたくさん出てくる。それだけ多くの人が想起する共通のイメージはあるということだから、アイコンとしてはとても便利なものでもあると思う。
けれど、受け取る側になったとき、本人も気がつかないうちに、いつの間にか刷り込まれているものの舞台裏を見た気がした。
実体はないものでも、影響力のあるメディアで繰り返し見るうちにいつのまにかそれが当たり前のようになっている、こうあるべきという姿。
バーベキューを楽しむ家族の姿。
遊園地ではしゃぐカップル。
夕陽に向かって手を繋いでジャンプする若者たち。
それは事実そのままを写した画像や映像なのかもしれないし、内実は違っているのかもしれないし、実体はないのかもしれない。マッチをすって現れた幻のように、ふうと息をひと吹きすれば簡単に消えてしまうものなのかもしれない。微笑みあっているのは撮影ボタンを押した瞬間だけかもしれない。
意地悪な妄想だけれども、件の絵コンテの出来事からそんな可能性も考えるようになった。
私は冒頭の友人の話を聞いたとき、いま書いたような話を彼女に伝えることはできなかった。
「理想の家族」
その絵は彼女が大切にしているものかもしれないし、彼女をずっと支え続けているものかもしれない。追いかけ続けることで、いつか幸せになれるのかもしれない。
心の奥に掲げたその像に口を挟むのもどうかと思った。
けれど、その理想が重くのしかかって彼女を押しつぶしてしまいそうなときは、ちょっと待ってと言いたい。ちょっと息を吹きかけてみ、と囁きたい。
もしかしたら、それはだれかが見ている儚い幻想かもしれないのだから。ふうと吹いたらマッチの幻のごとく消えていくのかもしれないのだから。
こうあるべきでしょという顔をして流れてくる崇高な世界は、じつは暗い部屋の中で背中を丸めたおっさんがため息をつきながら描いているのかも。
そう想像すると私はなんだか滑稽さともの悲しさを感じて、それから少し肩の荷が下りる気がする。