花粉症つらい 2024年3月

風呂の中で、あと数十分もすると3月が終わってしまうことに気がついて、慌てて風呂からあがり、筆を取っている。髪の毛はもちろん濡れたまま放置しているので、私は一刻も早く3月の月記を書き上げなければならない。
急ぎなので添削はほぼゼロ、脳から直接お届けする次第。きっとおかしな長文になってしまうけれど、続けないよりはマシだ、どうせ自分しか読んでいないのだから。

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1年前に高校を卒業した時、私は誰からも花束を貰わなかった。部活の後輩から花束を貰って眩しい笑顔を見せる運動部の人たちを尻目に、そそくさと帰ったことを覚えている。

決して、友達がいなかったわけではない。卒業式に来てくれるような後輩がいなかったわけでもない。ただ、私と親しくしてくれる人たちは、花束を誰かに贈るような人たちではなかった、というだけ。

ただ、何かの記念日や別れの折に、誰かから花束を贈ってもらえる人生ってきっと幸せだろうななんて考える。

それなのに、地元の自然豊かな川沿いを歩きながら、少しずつ咲き始めている桜を綺麗だと思っていない自分に気がついて、得も言われぬ虚無感に襲われた。それが1年前の3月だった。

私の住んでいるところは、春になると川沿いに並んでいる木が一斉に花を咲かせ、桜並木を作る。地元を何となく歩いていると桜が咲いていて、もうそんな季節か、なんて思う。

でも、別に綺麗だなと思ったりとか、心が洗われるとかそんなこともなく、ただそこにある桜を、なんともなしに見ていることに、私は気づく。

思えば、私は花と無縁の人生を送ってきた。花束を貰うことはもちろん、贈ることもない。お花畑に行ってみることもなかったし、道端に咲くタンポポを眺めて道草を食ったこともない。ツツジの蜜を吸ったこともない。
小学生の時に育てていたアサガオもひまわりも、だいぶ早くに枯らしてしまった。

自分の人生にいっぱいいっぱいで、花を美しいと思うことも、その美しさに目を向けようとすることもなかったらしい。

だけど日本で生きていれば、花は綺麗だという固定観念のようなものが嫌でも脳に染み付いている。まるで生まれた時からそれを知っていたかのように。だから、花を綺麗だと思ったことがない自分にも、今まで気がつかなかったのかもしれない。

だけど、私に花束を贈ることを選ばなかった人たちは、私が花束を貰ってもきっとすぐに枯らしてしまうだろうなって、どこかで思っていたんだろうな。


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この春で、演劇をはじめて10年目になる。

人生の半分を費やしてひとつのことを続ける人生なんてただでさえ珍しいだろうに、花を綺麗だと思う感性を持ち合わせていない私が、10年も演劇を続けているというのは、ずいぶんと不思議な話だな、と思うけれど。

私はもうしばらく、演劇を続けるつもりでいる。だけど、死ぬまで続ける気はない。いつかは辞めるつもりでいる。

私が演劇を辞める時、お疲れさまって言って私に花束を贈ってくれる人に出会えていたら、その時は花を心から綺麗だなって思えるような気がする。大切な時に大切な人から花束を貰える人生は、やっぱり素敵だと思うから、そんな自分の人生ごと、その花束を大切にできるんじゃないかって思う。

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気がついたら0時回ってた。

けど、私は寝るまでが今日理論を採用しているので、ギリギリセーフということにしたいと思う。所詮は自己満、続けるのが大事、うん。

来月は花粉症が少しでも治まっていますように。

2024年3月31日