10年も、20年も、そしてその先も
本日9月4日は、the fantastic designs、typhoon24、猫騙等々で活躍した、
miya38こと宮沢昌宏さんの命日で、
今日でちょうど10年。
もう10年も経っちゃったか。
宮沢くんは僕がバンドを始めた20歳頃に知り合って、
というか中村って友達に連れられていったのがthe fantastic designsのライブで。
演奏中ライブハウスのブレーカーが落ちて停電状態になったにも関わらず、
アンプから音も出ないのに復旧するまで演奏止める事なくベースを弾き続け、延々と曲をやってるのを見て、
最高なロックバンドだ!と思い、ライブに通うようになり、
お話なぞもさせてもらって、それなりに仲良くさせてもらってた。
かなりびっくりしたのが、前述の中村は当時高校生で、
彼のバンド(コピーバンド)の学園祭ライブに誘われて、
俺はまだ20歳とかで、それでもまあまあ恥ずかしながら中村の学祭ライブ観に行ったんだけど、
行ったら宮沢くんも観に来ててびっくりした。
帰り道一緒に帰りながら話したんだけど、
なんかこの人の温かさとか、面倒見の良さ、みたいのを初めて感じた時だった。
そんなこんなで時が1,2年ほどだろうか過ぎて、またも中村(中村すごいな)のバンドのイベントで、
自分のバンド、ポルノキッドとファンタが対バンする事になり。
俺らのリハの時に、客席で宮沢くんがずっとこっちを凝視して聴いてるのよ。
いくらお話させていただいたりしてるとはいえ、
ファンタは当時メジャーでやってるバンドで、
俺たちは音源すら無いペーペーのバンドで、
そんな観られ方されたら「ひええっ」ってなるじゃないですか(笑)
いやー、こええなあ、と思いつつイベント終わったら、
宮沢くんにポルノキッドメンバー3人招集されて、
お説教でもされるのかな・・・、と思ったら、
「お前ら音源何も無いんだろ?」
はい、、、
「俺ん家に8trのカセットMTRがあるから、それでデモテープ作るぞ」
は?
それから俺らには有無を言う権利もなくデモテープ作りが始まりました(笑)
当時ポンコツ3人組の俺らポルノキッドは言われるがままにやるだけで精一杯で、何もわからなかったけど、
今ならわかるのは、
当時ファンタはライブハウスレベルでは人気だったけど、
メジャーレーベルとしてみればかなりの苦戦をしてたわけで、
コンポーザーだった宮沢くんのプレッシャーは相当なものだったろうに、
そんな時にわざわざ金にも糧にもならないバンドに沢山の時間を費やしてくれて。
俺らの音楽を良いと思ってくれたのもあるだろうけど、
それ以上のなにか、人としての温かさというか、人の事を思いやる気持ちというか、
そういうものを宮沢くんからいただきました。
レコーディング中は事あるごとに宮沢くんに付いて回って、
ファンタのリハの見学させてもらったり、そこで曲作り見せてもらったりして大きな経験になった。
「こないだファンタのレコーディングの時にエンジニアがこうマイク立ててて、いい音で録れたからさ」
とかニヤニヤしながらドラムのマイクセッティングしたり、
せっかく作ったデモテープをどう広めればいいかすら考えられないポンコツな俺らに見兼ねて、
自分のイベントに呼んでくれて、
「お前ら初めての音源だから金取るな、配れ」
とアドバイスをしてくれ、
MCでも、
「ポルノキッドのデモテープが出来たんで持ってってください」
とか自分がエンジニアした事なんぞ何も言わず宣伝してくれたり。
まあポルノキッドはそんな宮沢くんの尽力に応える事もできずに、
人知れず解散しちゃったんだけど(再結成して今は一応まだ名前は残ってる)、
ドラムの脇山はタバコジュースやったり、今もウカスカジーやったり、
しっかりドラムやってるし、
俺も当時からしてみれば全く想像の範囲外な、
舞台音楽のお仕事をさせていただいて音楽続けてられてるし、
ベースのノブもなんやかんや川口辺りで自由に弾き語りしてるし、
宮沢くんがしてくれた事は今でも力になってます。
宮沢くんみたいに面倒見のよいアニキのような人に憧れつつも、
自分は人の事なんかろくすっぽ考えられないような人間で、
あんな風にさりげなくカッコよくは出来ないんだけど、
それでも、もう宮沢くんより年上になったし、
そろそろ自分の事だけでなく、
自分より若い役者やミュージシャン、舞台関係、音楽関係の方々に、
役に立てるような行動をしていこう、
と、そんな心に決めた今日という日です。
宮沢くんの事をこんなに書く事はもう2度と無いとは思うけど、
彼の事は決して忘れないし、
少なくとも毎年この日には思い出すでしょう。
俺にとってのアニキに、感謝を込めて。