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hamahouse
大きな物語に回収されないために
ウェブ上で、ランダムなものに出会う仕組みはうれしくなる。これも、おみくじを引くように、いろんなことばに偶然出会える。
そう、きのう紹介した『33の悩みと答えの深い森。』のweb版。
本を読んでてそうだそうだと思った言葉が、是枝裕和監督のコレ。(上記ページだと54番)
自分たちの社会が「大きな物語」に回収されないために、
ぼくら庶民が「小さな物語」を、
「小さいけれど、それぞれに、ゆたかな物語」を
語りつづける必要があると思っています。
https://www.1101.com/hatarakitai2/77words/index.html
わたしが以前、コロナ自粛中の生活をつづった『あんぱん ジャムパン クリームパン』が出版されてよかったと思うのはまさにこの理由で。
*
それに、さいきん見た映画でも同じテーマが流れているように感じだ。『人数の町』という中村倫也主演の映画。
その「大きな物語」のなかに取り込まれて「小さな物語」が気づかないうちに色褪せて消えていくというのが主題だったように思う。
というか、いまの日本人は喜々として自分だけの小さな物語を放棄して、大きな物語のなかにのっぺらぼうの登場人物として入っていってるよね、という風刺にも見えた。
この映画で、登場人物たちが暮らすのは、衣食住がすべて保証された町。住人はお金をもつこともなく、「ごくかんたんな労働」をすることと引き換えに安全な生活が手に入る。その労働はたとえば、ネットに商品の感想を書き込むとか、だれか知らない人の投票用紙を受け取り選挙にいくとか。
それさえしていれば、すべてが安全。借金を返せなくなった人も、DVで家から追われた人も、殺人犯もすべてが安全に暮らす。わりと楽しげに。
なぜそんな世界が成立しているのか?
その摩擦のない世界が成立するのに、何を引き換えにしているのか?
自分だけの家、自分だけの家族、自分だけの名前。そういうものをぜんぶ差し出して、幸せな強制収容所に生きるこの人たち。もちろんディストピアに見えるんだけど、この姿と私たちは何が違うのだろうかとも思う。
うめざわ
*「人間」と「人数」のあいだ