見出し画像

宇宙の隠されたスピリチュアルな秘密を理解するには・・。

今回のお話は「Sehnend」さんの動画の中でも、
特に好きな内容の一つなのですが、
タイトルが内容の良さを現わせていないところが個人的に残念なのです。
毎回動画のタイトルを翻訳したやつをそのまま使っているのですが、
宇宙の隠されたスピリチュアルな秘密を理解するには、クリック1つでOK!
じゃない方が良いと思いました。

そんなわけでYoutube「Sehnend」の動画の翻訳です。

真の旅とは、外界を求めることではなく、
自らの本質の中にある霊的法則を解き明かすことにある。

Dion Fortune

人間の形は複雑な集合体であり、
物理的要素と形而上学的要素の融合です。
その作用の中心にあるのが生命力であり、
私たちの生理学的機能と認知機能の双方を支配する不定形の存在です。
機械を動かす単なる電気とは異なり、
この力は私たちの存在そのものに織り込まれ、
私たちに思考し、感じ、進化する独自の能力を与えています。
この生命力は、私たちの肉体の器を成形し、
魂の願望と調和させようと絶えず努力し続けています。
 

しかし身体と、この内なる力の関係は単純ではありません。
私たちのエネルギーは、
思考や感情、信念を基盤として機能しますが、
それらの直接の設計者ではありません。
その代わり、
これらの精神的構成物が構築されるための、土台を提供しています。
本質的に、身体は邪悪でも善良でもありません。
悟りを開いた心であろうと激しい感情であろうと、
それを支配する力に反応する中立的な存在です。
ある意味では、それは指揮者に基づいて
交響曲と混沌を生み出すことができる柔軟な楽器のようなものです。
 

著名な神智学者Helena Blavatskyヘレナ・ブラヴァツキーはかつてこう述べています。
「物質はこの存在の次元における魂の顕現の乗り物であり、
 魂はより高い次元における精神の乗り物である。」

この叡智に基づけば、
私たちの持つ力は、身体の中で機能するだけでなく、
身体を高め、魂の周波数と共鳴させようとするもの

であることがわかります。
この絶え間ない調整の過程は、
私たちの成長、自己発見、精神的な進化の旅の中心となっています。
 

すべての人間は、人生の旅路の中で、
内面との深い綱引きに取り組んでいます。
一方には純粋さと、純粋な意図の源でもある、深い内なる生命があります。
この生命は魂の歌を歌い、私たちを神聖で永遠なものへと引き寄せます。
その一方で、社会、家族、世俗的な野心といった外的な力は、
時として私たちを物質主義的な追求へと引きずり込み、
本質的な性質と対立させることもあります。
これらの力のバランスをとることが、
私たちの行動、選択、そして最終的には運命を決定します。
 

社会全体を観察していると、外的なものがどれほど
私たちの集団心理を支配するようになっているかが、よくわかります。
私たちはよく、成功とは物質的な蓄積や権力、
社会的評価によって測られるものだと信じ込まされています。
このような追求が、私たちの内なる生命の
穏やかなささやきと衝突するとき、混乱が生じます。
この内的不協和は、落ち着きのなさ、不満、
あるいは実存的危機となって現れます。
真の自己との断絶は、現代社会で経験する不安の
根本原因である可能性があります。
 

この点を説明するために、簡単な実験を考えてみましょう。
1週間、毎日数分かけて自分の行動を振り返ってみてください。
心からの内なる欲求から生まれた決断と、
社会的な圧力や期待から生まれた決断を書き留めてください。
1週間の終わりに、結果を評価してください。
多くの場合、心からの内なる欲求から生まれた決断は、
満足感を高め、後悔を減らす傾向があることがわかります。
 

この二律背反を理解することが極めて重要なのです。
鍵となるのは、外の世界やその誘惑を避けることではなく、
自分の内なる指針と調和させることです。
このバランスを取ることで、物質的な世界でも充実し、
精神的な願望とも一致する道を切り開くことができます。
この調和こそが、目的、意味、
そして真の幸福に満ちた人生への道を開くのです。
 

私たちの人生が、外的な圧力と内的な欲望の狭間にあることに気づけば、
神聖でありながら日常的な行動が、見られるようになります。
人生とはその本質において、スピリチュアルな憧れと、
地上的現実の両方の要素が詰まったものなのです。

私たちが踏み出す一歩一歩は、この相互作用の反映であり、
時には聖なるものと俗なるものの境界線が、曖昧になることもあるのです。
 

私たちが知っている世界は、物質主義に根ざしています。
達成への熱意、所有欲、地位に結びついた野心は、
多くの人にとって第二の性質になっています。
しかし、この喧騒の下にはスピリチュアルなエネルギーが流れています。
それは本質的で神聖な力であり、目先の欲望や、
つかの間の快楽よりもはるかに奥深い、永遠の原理を語る力です。
この力、すなわち生命力こそが、私たちの違いや背景、
信条に関係なく、私たちすべてを結びつけるものなのです。
宇宙や山々、そしてあらゆる生命体に
生命を吹き込んでいるのと同じものなのです。
この力を認識することは、
私たちの内と周囲にある神聖なものを認識することです。
 

しかし、世の中の喧噪の中でそれを見極めることこそ、難題なのです。
人生の日常的な側面は、必要不可欠である一方で、
時として私たちの視野を曇らせます。
私たちは日常的な仕事、責任、そして競争に巻き込まれます。
しかし、ここに素晴らしさがあります。
神は俗世から切り離されているのではありません。
このふたつは別個の存在ではなく、
私たちの存在と相互に絡み合った部分なのです。
生きるという行為そのものが注意深さと目的を持って行われると、
精神的な体験になり得ます。
すべての交流、すべての課題、すべての喜びは、
精神と物質をつなぐ架け橋になり得ます。
 

したがって、神聖なものを見つけるために世俗を捨てたり、
物質的なものに没頭しすぎてスピリチュアルな本質を見失ったり
することではありません。
この繊細なバランスを理解し、優雅さと意識をもって
参加することなのです。
日常生活の、一見平凡に見えることの中に、
神聖さを認識することなのです。
そうすることで、私たちはただ存在するのではなく、
一時的なものと永遠なるものを受け入れながら、
真に生きることができるのです。
 

神が平凡なものと共に存在するとき、
社会は物質主義の魅力にとりつかれてしまうことがあります。
この魅惑的な引力は多くの人を、物質的な所有物や
社会的地位が、真の充足と等しいと信じ込ませます。
複雑に入り組んだ人生を歩むうちに、外的な評価を追い求めるあまり、
内なる神聖な本質が影を潜め、
成功に対する認識が歪んでしまうことがあります。
 

しかし、そのような追求は多くの場合、空虚な勝利につながります。
刹那的な快楽や目に見える資産を追い求めることは、
幸せの見せかけを作り出しますが、深みと持続性に欠けています。
物質主義はその本質において、一時的なものに依存し、永遠を無視します。
この偏った焦点は、真の目的のない存在をもたらします。
物質的な快適さは一時的な安らぎをもたらすかもしれませんが、
魂のより深い欲求に応えることはめったにありません。
獲得物を中心とした生活は、
満足感を得るために求めたもの自体が、自分を縛る鎖となり、
満たされない気持ちにさせることが多いのです。
 

対照的に、物質主義という幻想を認識し、
優先順位を再調整することで、真の充足感への道が開かれます。
魂を育み、有意義な人間関係を育み、
自己の内面と共鳴する情熱を追求することに集中することで、
私たちは豊かで、有意義な存在を創造することができるのです。
物質的な欲求と精神的な願望のバランスをとることが大切です。
このような格言にもあるように
「私たちは、精神的な経験をする人間ではありません。
 私たちは、人間の経験をする精神的な存在なのです。」

この視点を受け入れることで、私たちは幻想を超えて見ることができ、
私たちの内なる本質と真に一致した人生を送ることができます。
 

物質主義についての議論を踏まえてみると、
私たちの認識や願望を形成する上で、
環境が大きな役割を果たしていることがわかります。
生まれた瞬間から、社会構造、家族の期待、
文化的規範が私たちを包み込み、私たちの精神を型にはめます。
これらの集団的な影響は、
私たちの世界観を巧みに作り上げ、
成功、幸福、目的を測る尺度を決定します。
このような条件付けは、物質主義の魅力を増幅させ、
外的な世界とその妥当性が、
最も重要であるかのように思わせることがよくあります。
 

しかし、このような環境的要因は強力ではあるものの、
すべての人間に生来備わっている精神的真理と、
一致しているとは限らないことを、考慮する必要があります。
たとえば、社会は物質的な成果を称えるかもしれませんが、
そのような出来事では、水面下に潜む
より深い精神的な憧れは、満たされないかもしれません。
私たちを取り巻く環境は、さまざまな声が混ざり合っていて、
私たちを真の充足の道へと促してくれる、
内なる自己の優しいささやきをかき消してしまうことがあります。
外からの声は時に私たちを惑わし、スピリチュアルな本質から遠ざけ、
やりがいがあるように見えても、
結局は満たされない道へと向かわせることがあります。
 

だからこそ、識別力を養い、無数の影響をふるいにかけ、
本物の自分と共鳴するものを見極めることが重要なのです。
それは世界やその豊かさを拒絶することではなく、
世界のどの部分が自分の本性と一致し、
どの部分が一致しないかを認識することです。
内なる自分との深いつながりを育み、
定期的に人生の方向性を見直すことで、
私たちは、より賢く環境を調整することができます。

この調和のとれたバランスによって、環境の影響を認めながらも、
それに奴隷化されない生き方が可能になるのです。
 

私たちの環境と、その包括的な影響に関する議論から生まれた、
根本原則があります。それは、「団結」です。
無数の外部からの圧力、声、文化的な違いにもかかわらず、
すべてを結びつける相互の関連性が存在しています。
多様性にもかかわらず団結するというこの概念は、
社会的な期待や物質的な願望という荒波の中で、希望の光となっています。
 

より深い状態で、すべての生き物に宿る生命力について考えてみましょう。
この普遍的な力は、それが人間であれ、動物であれ、
あるいは宇宙体系であれ、
どのような形をとっていようとも、唯一無二の源から生まれています。
この生命線の共有は、すべての存在の本質的な一体性を際立たせています。
私たちは異なる文化、背景、信条を持っているかもしれませんが、
私たち一人ひとりを活気づける本質は紛れもなく一致しています。
古代の格言にあるように。
「私たちは、一本の木の多くの枝である」
 

しかし、日々の追求の中では、
この深い気づきが私たちを遠ざけてしまうことがよくあります。
焦点は絞られ、個人の願望、欲望、目標が優先されます。
世界は一見、人種、国籍、その他無数の識別子に基づいて分裂し、
断片化しているように見えます。
しかし、このような分離の認識はつかの間の幻想にすぎず、
よく調べてみると消える幻影です。
真実は、私たちの相互のつながりは不変のものであり、
明白な分裂の中にあっても壊れることはありません。

多様性の中の統一というこの理解を受け入れることで、
思いやりのある視点が育まれます。
他の人の中にも、私たちの中に存在するのと同じ
生命力があることを認識すれば、
私たちの交流はより共感的になり、判断はそれほど厳しくなくなります。
誤解された違いから生まれた対立は、和解の心構えで対処でき、
すべての個人の根底にある共通の人間性を認識することができます。
 

結論として、スピリチュアルな法則の基本原理は、
すべての生きとし生けるものを貫く
唯一無二の包括的な力の優位性を明示しています。
この力を理解し、それと調和することで、
個人は内面的にも外面的にも調和のとれた存在を
達成できる可能性があるのです。


この変容の旅でお会いできて光栄です。
今、ここに存在して頂きありがとうございます。


いいなと思ったら応援しよう!