御託
卒業論文の提出がついに来月半ばに迫ってまいりました。
その進捗は、とてもじゃないですが恐ろしくてここに書けるようなものじゃないので伏せますが、とにかくしびれる展開の残り数週間がわたしを待ちかまえていることは容易に想像できます。
ここで具体的な文字数でもって、進捗の程度を語らなくなったのは精神的におとなになったなとしみじみします。
以前のわたしであれば、あと何時間で何文字を書かなきゃならないので、つまり分速何文字のペースが必要などと、読者に想像の余地を与えないほどつぶさに表現して、吹聴したでしょう。
表現などと言ったけれど、事実を垂れ流しているだけなこんなものはただのニュース速報です。
それが今じゃ、このような限られた人のみが到達できる媒体にて巧みに言葉をあやつって現状をお届けし、無事文学への栄転を果たしたと言えるのではないでしょうか。
また、ニュース速報だといきり感があり青い印象です。
寝てない自慢に近いものを感じますが、これは健康に悪いのでやめるのが得策です。わたしの場合は寝てない自慢はしないかわりに、めっちゃ寝た自慢をします。(例:朝5時に寝て16時に起きちゃった。)
とはいえ聞かされる方はその自慢に対して何と言っていいかわからないので、いきり自体をやめるのが得策です。
文学は、ウソかホントか分からず、成熟したもののみが享受できる素晴らしい文化ですね。
そんなことを考えながら本日は、おなじみの眼科には怠惰により出向くことはかないませんでしたが、卒業式(仮)当日の着付けやヘアセットの予約をできました。
電話予約なので先延ばしにしていましたが、それもたったの1週間で決心することができました。
もちろん卒業論文も亀くらいには進めましたし、この後も進めるつもりです。
うさぎさんにならなくていいから、亀さんになってください、と京都の茶屋の女将が言っていました。
そして前の土日に新しくさくらももこのエッセイを3冊手に入れました。読みたかったものだったので、こんなに早く手に入ってとてもうれしいです。
そのうちのひとつが『ひとりずもう』ですが、挿絵やフレーズにところどころ読んだことがあるような覚えがあって、それも10年とか前の記憶な感じがして、何とも言えない懐かしい気持ちになりました。
ペットを飼っても結局世話するのはお母さん、とかふとったお母さんをむかついたときにブタ母さんめと呼ぶとか、ごく日常の出来事に、めっちゃ日常の出来事書いてるじゃん!とあらためて認識しました。
なのにすっごく面白くて、笑いました。
こういうとっても普通のことを書いている人って他にいないんじゃないかな?と全然ほかの本を読まないくせに思いました。
普通の尊さみたいなものを明確に感じました。
わたしも普通のことを身の丈に合った表現で書きたい!と一般人のくせに。
今は手が冷たいです。
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