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二十歳になる(第二話/全二話)
山下公園にほど近い古い洋館のホテルの窓を開ける。
湿気を含んだ生ぬるい風が部屋に滑り込んでくる。
すこしだけ海の匂いがした、気がした。
「もう春だね」
櫻子の後ろに立った西方が、櫻子を上から包むようにゆっくりと抱きしめる。
西方の腕は太く硬く筋肉に覆われているのに、櫻子を扱う動きはこの上なく繊細だ。
性急な同級生たちしか相手にしてこなかった櫻子には、それがものすごく稀有なことのように思えた。
しかし、それは櫻子の勘違いだ。大人の男のなかには、西方のように女を扱える男が一定数いるものだ。
西方が指を、唇を櫻子の体に這わす。
五回目のそれが始まろうとしている。でも、全然嫌じゃない。
櫻子は体を反転させ、西方の胸に入りこむ。
大きさ、温かさ、強さ。
女が男に求めるものは、結局幼女が父に求めることと重なっている。
女は皆ファザコンなのかもしれない。特別な性癖がない限り。
そうやって自分を肯定しようとしても、家族の顔がちらついて邪魔をする。
裏切っているわけではないのに、責められてもいないのに、櫻子は思いをめぐらす。
父がいなかった幼い頃の幸せな風景が脳裏に浮かぶ。
それは櫻子の小さな胸をぎゅっと締め付けた。
その苦しさを隠し、櫻子は西方の腕に滑り込む。
西方はそれを待ってましたとばかりに受け入れるのだ。能天気に。
男って馬鹿だ。自分の倍の時間生きていたとしても、とても単純。
胸のなかの女の真意なんて、きっと一生わからないのだろう。
少しだけ塩の匂いがした。
父もこんな汗の匂いがしたのだろうか。
櫻子は若い母と一緒に写真に写っていた父の姿を思い出す。
父と西方は、少し、どこか似ていた。
西方に柔らかくまさぐられながら、櫻子は外に目をやる。
淡い色の月が、ぼんやりと風に揺れていた。
迷いながらも櫻子は初めての恋に浮かれていた。
西方との未来を妄想したりもした。
京子にも西方との関係を説明した。のろけ話なんかもしてみた。
なにもかも初めての経験だった。西方は二十番目の彼氏なのに。
櫻子は初めて男から得られる充足を手にしていた。
しかし、物事には必ず落とし穴があるものだ。
櫻子はこれまで簡単に捨ててきた男たちからの恨みが形を表したのだと思った。
若い美しい女となって。
女は西方の妻だと名のった。
女は香苗といった。香苗はまだ若かった。櫻子の八つ上の二十七歳。仕事はしておらず、子供もいないそうだ(櫻子は聞いていない。女が自ら話してくれた)。
香苗は櫻子を責めなかった。
しかし、夫は責めた。ロリコンだと。
「仕方ないんです、あの人」
香苗は自身が西方と付き合い始めたのも十九だったと言って、続けた。
「あのひとはジューク、ハタチの女が好きなんです。恥ずかしいことです。あなたには申し訳ないけど」
ジューク、ハタチの女。私はそれだけの存在なのか。
反発したくなるが、自分を特別だとも思えなかった。
「そうですか」
二人の間のコーヒーはすっかり冷め、もう湯気をたてたりはしていない。
櫻子は視線をあげ、香苗を見た。
品のいいスーツを着ている。上質な素材でできていることは触れずともわかった。
メイクも完璧だった。派手すぎず、地味すぎず、コンサバすぎず、流行からも遅れていない。
香苗がバランスがとれた常識人だということが、その全身からあふれていた。言っていることも嘘ではないだろう。
「ごめんなさい」
櫻子は一度だけ深く頭をさげた。
香苗は泣きそうな笑いを浮かべ、困ったように笑った。
これから西方と会うというときに、玄関口で母に呼び止められた。
「デート?」
「そんなんじゃないよ」
母がこんなことを口にしたのは初めてだった。櫻子は靴を履きながら、どうしてだろうと不思議に思う。
「好きなひと、できた?」
「え?」
母は笑っていた。うれしそうだった。
「そんなんじゃないって」
「ふう~ん。ま、いいわ。気をつけて行ってらっしゃい」
母がリビングへと戻っていく。
母は櫻子に彼氏がいたことはなんとなく知っているはずだ(あんなにたくさんいたとは知らないだろうが)。
それなのに、こんなふうに声をかけてきたのは初めてだった。
もう、そんなんじゃなくなるもん。
櫻子はひとり小さく笑って、ゆっくりと玄関のドアを開けた。
ホテルを出て、ゆったりとした道をゆっくりと並んで歩く。
「気持ちいいね」
「うん」
櫻子は隣を歩く西方を見あげた。
ほど良い高さに顔がある。男を感じさせる高さだ。櫻子は少し背が高い。
だから自分の背の高さを感じさせない長身の男がありがたかった。
西方が櫻子の手をとる。
西方の手は櫻子のそれよりずっと温かい。
母や祖母といつも手をつないでいた櫻子は、祖父に手をとられると驚いた。祖父の手は二人の手に比べ、とても温かかったからだ。
「海、好き?」
西方に聞いてみる。
「うん、まあ、好きだよ」
「私も」
海からの風も好き。少しねっとりして、潮の香りのする。
そう思って西方を見ると、西方は海に目をやっていた。形のいい後頭部を櫻子は凝視する。
櫻子は香苗の姿を思い出す。
香苗は完璧なメイクを施していたが、ほっそりとこけた頬と目元の黒ずんだクマを隠しきれてはいなかった。
裕福でも苦悩する。
櫻子は自分が誰かに打撃を与えたことに、恐れおののいた。
心から申し訳ないと思った。
私はファザコンで、西方さんはロリコン。二人とも最低だ。
でも二人とも幸せだった。いま、このときも幸せだ。
公園を出るときに、私は西方さんに別れを告げる。
奥さんのことは言わない。
これまでそうしてきたように、きまぐれなふりをして、振るのだ。
櫻子はぐっと涙をこらえる。
これはきっと、家族の努力を裏切り、父の影を求めたことに対する罰だ。だったら泣くのはお門違いだ。そう思えば、涙を我慢できそうだった。
二十番目の恋人と別れ、櫻子は来週、二十歳になる。