小説『moratorium』
第一章 残火
「普通に体痛ってぇ…」
三十超えて床で寝るもんじゃねえな、と軋む背中の骨をさすりながら起き上がれば、明け方の暁光がカーテンの隙間から白々しく差し込んでいた。寝癖の付いた頭をガシガシと乱暴に掻きながら、ふわあああ、と盛大に欠伸をこぼす。首を回せばポキポキと小気味のいい音が鳴った。冷房の効いた部屋にもうひとつの呼吸音が響いている。俺は見飽きた不細工な寝顔を視界の端にぼんやりと捉えながら、眠気の取れない頭をふらふらと揺らした。
腹減ったな、でも眠い。なんかあったっけ、この家。
寝ぼけた頭のまま、ずりずりと床を這うように部屋から抜け出した俺は廊下と一体化しているキッチンの隅に置かれた冷蔵庫を開けた。とりあえず喉が渇いた。2リットルペットボトルに入ったミネラルウォーターを昨日から放置されたままのコップに注ぎ、喉を潤す。
昨晩、仕事終わりに押し掛けたままの俺の荷物が1Kの部屋に雑然と転がっていた。大した広さもない部屋は、家主の薄給を象徴している。餓鬼の頃は意識したこともなかったけど、学校の先生というのは職務内容と給与が見合わない職業の代表格だ。激務で残業も多いうえに、部活の顧問を受け持てば休日出勤は当たり前。しかもその手当さえ微々たるものだという。志がないと絶対務まんねえ仕事だよな、といつも他人事に思う。この部屋の主にどんな志があるのかを尋ねたことはないけれど。
「なんか食うもん残ってたっけ」
年を食うほどひとり言の数が増える気がする。無音の部屋にこぼれた自分の声にそんな侘しいことを考えながら、また冷蔵庫を開けた。昨日の夜に適当に差し入れた酒のつまみがいくつか残っていたが、さすがに朝っぱらから食う気がしない。しかし俺の料理のスキルは小学生レベルなので、やはり家主を叩き起こすしかあるまい。
「相楽ー、腹減ったから起きてー」
安物のパイプベッドの上にくたびれたマットレスを敷いて爆睡している安上がりな男の名を呼べば、うーとかあーとか不機嫌そうな声がした。俺と違って、相楽源は餓鬼の頃から寝起きがいい。
「なあ、なんか飯、腹減った」
「…あ?知らねえよ、てか今何時だカメラバカ」
「何時だっけ?あー、多分5時とか?」
「ふざっけんなよ、俺の貴重な睡眠の邪魔すんじゃねえ…」
疲れてんだよ、と布団を頭まで被る相楽は昨日顧問を受け持っているバスケ部の試合があったとかで、日曜日の今日は珍しく丸一日オフらしい。強豪相手に勝ったと昨日上機嫌で言っていた阿保面を思い出しながら、俺は相楽の布団を無遠慮に引っぺがす。
「そうは言っても腹減ったわ、俺が」
「まじで自己中クソ野郎がいい加減にしろ、女のとこ行け」
「残念ながら俺はここんとこ源ちゃんと違って寂しい寂しい独り身なの、だから飯」
「お前に寂しいとか感じる神経通ってんの?」
「失礼な奴だな」
枕に顔を埋める相楽が不服そうに唸った。
幼稚園に入園した当時からの腐れ縁が未だに続いている俺と相楽の付き合いは、かれこれ三十周年に突入した。小中高と同じ地元の公立に進学した俺と相楽は、特別ウマが合うわけでもないのに、何故だかつかず離れず三十路を過ぎた今に至るまでつるんでいる。
「でもさ、腹が減っては戦は出来ぬじゃん?」
「お前って今日仕事だっけ?」
「や、オフ」
「まじで死ね」
商業の写真と映像を中心にカメラマンとして活動している俺の勤怠は不規則だ。人物写真から風景写真までのべつまくなしに幅広く手掛けているおかげでなんとか食いっぱぐれずに済んでいる俺は、先週末からトラベル雑誌の創刊号の撮影のため弾丸で南仏に飛んでおり、帰国した脚でそのままこの部屋を訪れた。
「んでまた来週からはどっか行くんだろ?」
「次はチリだな」
「チリ?」
俺の旅先に、珍しく相楽が反応した。
「チリってまさか山登る気?」
「おう、マッターホルンとマッキンリーで鍛えたからな」
「そういう意味じゃねえだろ、だって…」
「だからだよ」
地球の裏側に、人生で一度ぐらいは登っておかなければならないのだろうと思っている山がある。雄大な蒼い氷河の中に聳えるその名峰のどこかに、もしかしたら微かな追憶と息遣いを聞くことが叶うかもしれない。
「…急にどうしたんだよ」
「まあ俺らもさ、三十半ばに近くなってきてんべ?そろそろ追い越しちまうなーと思ってさ」
何年か前から、今年のうちにとは決めていた。
横目で俺を一眸した相楽が少し複雑そうな顔をしたあとで鹿爪らしく顎を引く。俺は昔馴染みの真面目な男に内心苦笑を漏らした。その毒々しいまでの誠実さに俺はもうすっかり蝕まれているから息苦しい。
「精々心配して待っててくれよ、親友」
「世界股にかけやがってうぜえな、財布すられてこい」
器の小さい相楽が不満げに枕を投げつけてくるのを適当に片手でかわし、俺はベッド脇に腰を下ろした。
「なら今回はプライベート?」
「いや、一応仕事も兼ねてることにした」
「兼ねてることにしたってなんだよ、これだから自由業は」
「個人事業主ってのはこれだから気楽でいいよな」
「それを地方公務員の俺の前で言うかよ」
「お前が勝手に教師選んだんだべ」
自身の三作目となるアート写真集の発行を年明け早々に予定しているため、今回はその撮影旅行も兼ねてということになっている。俺は依頼を受ければ人物でも物体でも風景でも被写体は選ばないが、自身の写真集においてはコンセプトを好きなように設定できるので、大抵は風景を撮る。今回は明暗をテーマに据えているが、とはいえ毎度ながら旅先では行き当たりばったりなので、今回も例の如く旅程表は白紙のまま、必要最小限の荷物とパスポートとカメラだけを携えて飛行機に乗り込む予定だ。
「明暗?光と影的な?」
「まあそんな感じだな、それっぽいだろ」
「んなら俺のオンとオフ撮ってくれても構わねえけど」
「残念ながら三十過ぎたオッサンの生活風景に被写体としての価値は微塵もねえよ」
ベッド脇に腰を下ろした俺はテーブルの上に放置していたソフトケースの煙草に手を伸ばし、トンっ、と箱の裏を軽く叩いて、飛び出してきた一本を口に迎える。カーテンを閉め切っているおかげで薄暗い室内に低く唸るような冷房の稼働音だけが響いていた。
「紀藤、俺にも」
煙草の穂先にライターで火を点けると、俺の口元を掠めていった武骨な手が、ひょいとそれを抜き取って、我が物顔で自分の口に咥える。それに俺は一瞬ぱたりと固まって、それからすぐベッドの上で仰向けに寝転がったままの相楽の腹に拳を振り下ろした。
「げほっ、―ッ、てぇな!噎せたじゃねえか!」
「人様の煙草に何しやがる」
「別に同じ銘柄なんだから一本ぐらいいいじゃんか、あとで俺の箱から補充しとけよ」
「そういう問題じゃねえわカス」
怪訝そうにこちらを見上げる相楽から顔を背けた俺はもう一本煙草を取り出し、性急な動作でそれに火を点けた。不純物にまみれた煙が肺を満たすと、微かに揺れていた胸の底がゆるやかに整ってゆく。
馬鹿みたいだ。
もうずっと──本当にずっと、そう思ってる。
不健全で気怠い空気の充満したこの部屋の中で、俺は何も言えずに雑味の多い煙を喫む。
「腹減った、なんか朝飯ねえの」
「寝てる家主叩き起こして煙草吸って腹殴って飯寄越せってまじでやりたい放題だな」
「んなもん今に始まったことじゃねえだろ」
「その自己中を直せって話をしてんだけどな、俺は」
「無茶言うなよ」
もう、遠の昔に諦めている。
後悔だってし尽くした。足掻くのも疲れた。
どうでもいいかなって投げやりなことを考えながら全部を捨てる潔さも持てずに、中途半端で宙ぶらりんのまま、何かが終わる時をただ待っている。
もしかしたら永遠に終わることはないかもしれない。
そんな脆弱な希望に縋りながら。
ピントが合う──その瞬間が一等好きだ。
煌々とした照明の下、俺は素早くシャッターを切った。
スタジオ撮影も嫌いなわけじゃないが、やはり商業の写真は顧客の意図が明確に商売に向きすぎているから性には合わないなと思う。とはいえカメラマンだって自分好みの芸術写真ばかり撮って生きていけるはずもないので、世知辛い世の中の循環の中で妥協したり、手抜きを覚えたりと試行錯誤を繰り返している。
「衣装が黒だから、もうちょい照明落とすかな」
「次は下からのアングルもお願いします」
「了解。PV用の動画は昨日もらったラフ案通りいく?」
「一旦そのままで、都度修正入れます」
「お手柔らかに頼むよ」
「いえいえ、世界で一番素敵な画をお願いします」
若手の見習い時代から、異国で一緒に何度も組んできた戦友のような女がにこやかに笑う。まだ三十を過ぎたばかりという年齢で、毎度大型な案件のディレクションばかり担当していればすり減りもするだろうに、最近の彼女は疲れた顔のひとつも見せなくなった。
「栞ちゃん、昨日からほぼ通しで撮影じゃねえの」
「もしかして疲れが顔に出てます…?」
「それが全然出てねえから逆に心配してんの、大丈夫?」
「なら安心しました」
立場のある人間が仕事場で疲れた顔なんか見せるな!って怒られずに済みます、と嬉しそうに言う。それがのろけであることは百も承知なわけだが、まあ幸せそうなところに水を差すのはやめておこうと口を噤んだ。
今回も、化粧品の案件を任されたからと撮影依頼を俺にくれたクライアントは、商業デザイナーの雨宮栞だ。雨宮と俺はお互い新人の頃にニューヨークの事務所に籍を置いていた兼ね合いもあり、そこから雨宮は事務所を移籍し、俺は独立して個人事務所を構えた今に至っても、おかげさまで仕事で組む機会は途切れない。まあ基本的に俺は雨宮からこの案件を任せてもいいかと選んでいただく側の立場なので、ありがたい話である。
「君の彼氏、ほんと仕事に厳しいよねえ」
「はい、毎日怒られてます」
「いやなんで怒られてんのにそんな嬉しそうなわけ?」
変な女だ。ふわりと花が綻ぶように頬を緩めている雨宮の幸福オーラに少し気圧されながら、若い頃は化粧っ気なんか少しもなかった女が変わるもんだよなと我ながら謎の目線で仕事仲間を見下ろした。
「見放されたら怒ってもらえませんからね」
「純情真っ直ぐなのろけやめて、オジサンもう年だから」
「麟平さんがオジサンなんて言っても説得力ないですよ」
「だって俺もう今年で34よ?」
「なら私だってもう今年で32になります」
「お互い年食ったねえ」
張り詰めた仕事の合間にそんな雑談を挟みつつ、もう一度ラフ案を確認する。本日の俺は黒子役だ。デザイナーの脳が描き出した通りの図を、カメラのレンズを通してありのまま表現する。そこには俺自身の不要な感性を持ち込まないことが、他人の作品に関わるクリエイターとして俺に出来る最大限の献身だと思っている。
俺は、仕事に欲とプライドは挟まない主義だ。
生憎と生粋の芸術家肌ってほど才能に恵まれてもいない。
けれど才能に恵まれすぎなかったことが、俺の強みなんだともう割り切っている。粗野で不完全でみっともない写真が俺の瞳に映るすべてだった。それを決して他人には押し付けないことが、軽薄な俺の流儀だ。
撮影を終えてアシスタントのスタッフたちにおおまかな撤収作業を任せたあと、俺は車に乗り込んだ。今日中に旅支度を済ませておかなければ明日の朝の飛行機に間に合わない。
汐留のスタジオから南青山に構えた自分の個人事務所までの道中、欠伸を噛み殺しながらハンドルを握る。通勤時間を大幅に過ぎているおかげか、環状道路は普段より空いていて走りやすい。口にぶら下げた煙草の煙を逃がすために細く開けた運転席の窓から吹き込む、湿った夏の風。それが脳裏に沈んだ記憶を撫でる。
「あ、やっと帰ってきた」
ガレージに車を突っ込んでから外階段を上って事務所へと向かえば、その出入り口の前にある植え込みに腰掛けた女が俺にふわりと微笑みかけた。
「え、なんでいんの?」
「撮影終わりに事務所戻るって言ってたから」
「でも俺今から明日の荷造りしねえとだから構えねえよ?」
「ならそれ見守っててあげる」
邪魔しないからいいでしょ?と俺の腕を組んで上目遣いに強請ってくる彼女は、女優の夏目ゆりかだ。ちなみに先程の撮影現場で化粧品会社の広告塔として撮影を行っていたのがこのゆりかである。大きな瞳が印象的な清純派女優の素顔が純粋無垢からは程遠いことを、俺はかれこれ三年ほど前から知っている。
「てか何度も言ってるけど外で待つなって」
「だって麟平は待ち伏せされると追い返せないでしょ?」
「別にそんなことしなくても追い返さねえし、ゆりかは週刊誌とか色々面倒なの引き連れてんだろ」
厄介事に巻き込まれるのは勘弁してほしいと何度頼んでも梨のつぶてだ。わがままなお姫様に振り回される低級市民の身にもなっていただきたいもんだ。俺は事務所のドアの鍵を開けてゆりかを先に中に入れ、無意味と知りつつ外に不審な人影がないかを確認してからドアを閉めた。
人気女優に自分との熱愛が出ると厄介なのには色々複雑な理由がある。まず第一に、ゆりかには恋人がいる。というか所謂愛人みたいな感じのあれだ。業界じゃ有名な映画監督と長年よくわからない不純で泥沼な関係を結んでいるらしい。その憂さ晴らしに選ばれたのが俺というわけだ。そして第二に、俺もまたゆりか以外にも流れで関係を持ったまま適当にだらだらと続いているだけの不誠実で煩雑な関係性の相手が複数人存在している。
「ね、お酒付き合ってよ」
「だから荷造りしなきゃなんだって」
「そんなの飲みながらだって別にできるでしょー?」
今日の撮影のためにひと月前から節制していたというゆりかは、どうやらここまでの道中に仕入れてきたらしいワインのボトルを紙袋から取り出した。
「俺の邪魔しないんじゃなかったっけ?」
「でも嫌な顔しつつ付き合ってくれるでしょ、麟平は」
「はいはい、ゆりか様の仰せのままに」
「さすが私の下僕」
フライドチキンやタコライスなんて雑多でハイカロリーなラインナップのつまみを揃えてきたゆりかに従い、俺は事務所の上の階にある自室に上がる。公私の境界などあってないような状態の俺は、一応プライベートの範囲として確保したはずの部屋にまで仕事の機材があれこれ散乱していて酷い有様だ。こんな部屋に人気女優をあげたりして、もしファンにバレたら血祭りに挙げられそうだ。
しかしゆりかは気にした様子もなく、部屋の真ん中に置かれたソファーに腰を下ろしてご機嫌そうに笑う。手渡されたボトルのコルクを抜こうと部屋の隅にあるキッチンから俺は栓抜きを取り出した。ワンルームの部屋はそれなりに広さはあるものの、奥半分はほぼ仕事の機材が雑然と放置されているため足の踏み場もない。必然的に俺の住居スペースは手前側になるわけだが、そこでもほぼベッドとソファーの間を移動する程度しか使っておらず、人間として不健全な暮らしをしている自覚はある。
「てか突然押し掛けるのが趣味なの、お前」
「だって寂しい夜は麟平に会いたくなっちゃうんだもん?」
「それ、世界中の男に言ってんだろ?」
「まさか?私のこと好きにならない男にだけよ」
グラスに注いだ赤ワインを手渡せば、女優の華奢な指先がそれを受け取って、艶美に微笑む。
「麟平ってセフレには最適な男よね」
「それ言われて俺が傷つくとか考えないんすか?」
「愛して欲しい男に手が届かないときにね、誰でもいいから慰めてほしいって思うじゃない?でも愛だの恋だの持ち込まれたら重いの。それでなくても手一杯でしんどいのに、他の人間にあれこれ求められても疲れるだけだし、でも都合よく甘やかして欲しいって身勝手で最低な夜にさ、紀藤麟平って最適解だと思わない?」
わがままで傲慢な女が残酷な問いを投げ付けてくる。
俺はそれに何も応えることなく雑にグラスを合わせてすぐワインを口に含んだ。すっきりとした飲み口の赤。ゆりかは何故か得意げな顔で隣に腰掛けた俺にしなだれかかり、肩に顎を乗せてこちらを見つめる。
「麟平は、誰にも興味なんかないもんね?」
「俺がお前のことほんとは好きだったらどうすんの?」
「責任取って付き合ってあげようか?」
「どうせ二股だろ」
見惚れてしまうほど美しい顔をした女がくすくすと吐息で笑いながら、俺の唇を塞ぐ。微かにワインが香った。ゆりかの香水の匂いが俺はあまり好きじゃない。こんな関係だって虚しいだけだと思う。
それでも、心底どうでもよかった。
俺が他人に興味がないのも今にはじまったことじゃない。
餓鬼の頃から何故だか好きだと言われる機会だけは無数にあって、俺も女の子って生物のことは嫌いじゃなくて。でもありふれた愛の告白をありがとうって受け取って、代わりに俺も好きだよと大して感情が動いたわけでもないのに返した回数の分だけ、多分俺は愛や恋とかいうあまやかなものから嫌われたんじゃないかと思う。
擦り切れそうに痛々しかった青い季節の中に立ち止まった俺だけが、目を背けたくなるほど醜くて、今に至るまで俺を蝕み続ける毒に眩暈がした。
閉じた瞼の裏側に真っ青な夏の空が浮かぶ。
記憶の中の景色だけがいつまでも美しくて吐き気がした。
第二章 追憶
鬱陶しいほどの群青が、朱く侵されかけていた。
地元は少し高台にある坂の多い土地で、あの頃から当然の如くさびれた田舎町だった。通学路から伸びる坂道を登ったあと、さらに石造りの階段まで登ったその先に、こじんまりとした小さな公園がある。
中学の頃から何かにつけてサッカー部に勧誘してくる幼馴染みを遂に断り続け、中高の六年間を帰宅部として過ごしたその夏の俺は、多分世界で最も暇を持て余した人間だった。
大学進学などハナから念頭になかった俺はあっさり推薦でカメラの専門学校への進学を決め、徐々に授業数が減って自由登校になり始めたあたりで周囲のクラスメイト達との会話が突然嚙み合わなくなった。しかし受験一色の彼らの邪魔をするわけにもいかず、適当に話を合わせてヘラヘラするだけのネジ巻き人形と化していた俺は、窮屈で退屈な空間から逃げ出す方法ばかり考えながら、その日も公園へと続く階段をだらだらと登った。
高三の夏の相楽は両親の離婚に伴う家庭内の不和によって酷く荒んでいた。不満と反抗の象徴として染められた金色の髪はいつまでも見慣れないまま、中学から続けていた部活もいつの間にか辞め、他校の誰かに吹っ掛けられた喧嘩をことごとく買っては怪我をし、不貞腐れて受験勉強を投げ出したおかげで成績は右肩下がりに降下していた。
突然素行の荒れ始めた相楽を周囲の友人たちは遠巻きに避けるようになった。当然のことだ。誰だって受験前の大事な時期を他人の癇癪で棒に振りたくはない。あの相楽源が孤立するなんて天変地異が生涯のうちに起こりえるとは、と無関係なところに感心していた俺は、しかし今さら相楽のことを見捨てる気にもなれず、遅れてきた幼馴染みの反抗期を隣で見守ることにした。
群青の空の下に広がる見慣れた町の風景。閉ざされたこの小さな町が俺は結構好きだった。むわりと噎せ返るような湿度の高い夏の空気に纏わりつかれながら、首筋に滲んだ汗を拭い、公園へと続く長い石階段を登り切った。
粘着質なほどの蝉しぐれがそそぐ世界の先に、見慣れた男の横顔があった。誰かも知らない人間に殴られ切れた口元には、似合いもしない花柄の絆創膏。セーラー服を着た小柄で可愛らしい少女がスカートの裾をひらりと翻しながら去ってゆく。その背中を見つめる相楽の瞳はすり切れそうなほどの寂寥を纏っていて。
視界が鮮やかな青に染まった。
滲んで、溶けて、ぼやけて──ピントが合う。
その瞬間に俺は唐突に理解し、そしてただただ絶望した。
体の内側に走った深い深い亀裂。突然変異のような、完全無欠の摂理。その食い千切られそうな痛みの正体に俺は酷く打ちのめされながらその場に立ち尽くす。湿った風にそよぐ金の髪と背中の汚れた夏服の白。青の中からあぶり出された美しいその風景とは対称的に、俺の内側には醜く濁った毒が無邪気にくるくる回る。
『──あ、紀藤、来んのが遅ぇよ』
俺を見つけた相楽が不機嫌そうに顔をしかめた。
古ぼけた木のベンチに座っていた相楽は大儀そうに立ち上がり、俺のもとへと近づいてくる。心臓がうるさい。本気でどうかしてんだろと自分を呪いながら、俺は、今さら相楽の存在に怯えていた。
『お前が早く来ねえから変なのに絡まれた』
『…ああ、その絆創膏?』
相楽の口元に貼られている花柄の絆創膏を指差した俺から目を逸らしながら、相楽はああ、と頷いた。先ほどの少女が相楽のいとこなことは知っていたが、墓穴を掘りたくなくて口にはしなかった。
必死に平静を装う俺に、当然相楽はなにも気付かない。
『クソ暑いしまじでうぜえわ』
『こんな真夏に外でふらふらしてんのが悪いだろ』
『学校なんかつまんねえし、どっかパーッと遊び行きたい』
『受験どうすんだよ、お前』
『お前までそういう話してくんじゃねえ』
非難の目を向けてくる相楽にうんざりため息をついた。
『どっかってどこ行くんだよ』
『んー…、あ、夏だし海とかどうよ?』
『は?今から海なんか行ったところで向こう着く頃には日も沈みかけで泳げねえだろ』
『細けえことはどうでもいいんだよ』
俺が今そういう気分なんだよ、と傍若無人に吐き捨てた相楽が気安く俺の肩を組む。ふいに近付いた距離。でもそれは特別でも何でもない普段通りの接触で、だから緊張している俺のほうがおかしい。
(ああ、本気で勘弁してくれよ)
高校最後の夏休みだというのに間抜けに制服を着ている俺と相楽は、そのくせ不真面目に補講から逃げ惑ってばかりで死ぬほどどうしようもない。
傾きかけた太陽、うだる暑さ、蝉の声。
そういう全部で俺の心音を掻き消してくれたらいい。
『…暑苦しいな、離れろよ』
『でも離したらお前すぐ逃げんべよ』
『別に逃げねえから、まじでうぜえから離れろって』
相楽の肩をぞんざいに押し返して距離を取り、そのまま最寄り駅まで向かった俺たちは、地元から一番近い海までの切符を買った。無人の改札に切符を通し、人影もまばらな駅のホームにちょうど滑り込んできた2両編成の鈍行にばたばたと飛び乗った。
『つぅかまじでなんで海なわけ?』
『不良少年が束の間の逃避行に繰り出すのは大体海だべよ』
『お前な、暇だからって漫画読みすぎだっぺよ』
『鈴蘭のテッペン獲るわ、俺』
『もう好きにしろよ』
まともに相手をするだけ面倒臭ぇと視界から相楽を追い出した俺は、数人しか客のいない車両の隅にだらんと腰を下ろした。相楽は乗り口付近にまだ立ったまま、移り変わる町の景色をぼんやり眺めていた。
車窓から差し込む西日が真っ赤に染まっている。
相楽の金の髪がそれを反射して、きらきらと輝いていた。
それから電車を二本ほど乗り継いで目的の駅に辿り着いた電車を降りると、潮の匂いに満たされていた。穏やかな波の音が聞こえる。駅の改札のすぐ向こうには、夕暮れに赤く染まった砂浜が広がっていた。俺たちは切符を通して改札を通り抜け、スニーカーを履いたまま人気のない砂浜に降りた。
海水浴場でもないただのありふれた海辺には、当然海水浴客の姿はなかった。整備されてもいない砂浜にはゴツゴツとした岩場も多くて遊泳には向かない。ひっそりとした砂浜が黄昏を纏っていた。水平線が朱く境界線を滲ませる。青春映画のワンシーンでも切り取ったみたいに感傷的な光景が酷く胸の奥を軋ませる。
『お前さ、まじでなんかあったべよ?』
『これがまじで別になんもねーから俺もウケてるとこ』
ぼふんと砂浜に腰を下ろした相楽が呆れたような顔をして笑っていた。その横顔に滲む寂寥を、稚気で滑稽な思春期の癇癪だと見放してしまうのはきっと容易いけど、それは少し冷たすぎるから。
『餓鬼臭ぇなって思ってんだろ?』
『まあ、正直それは普通に思ってるけどな』
『なんでお前は見捨てねえの?他の奴らみてえに離れたって俺の自業自得だってわかってるから、別に今さら紀藤のこと恨んだりなんかしねえよ?』
恨まねえだろうよ、お前はそういう奴だ。
別に俺は相楽に恩を売りたくて一緒にいるわけじゃない。
制服の尻ポケットで潰れた煙草の箱を取り出して咥えた俺は、残りを相楽に手渡した。相楽は無言で受け取って、その穂先にライターで火を点ける。
『お前が言ったんだべ、ひとりは寂しいだろってよ』
『え?俺そんなこと言ったっけ?』
『馬鹿の短期記憶はこれだから嫌ですなー、話になんねえ』
『元々の成績はお前より断然よかったわ!』
心外だというように、相楽が眉尻を吊り上げて反論する。
『でも実際自分の発言忘れてんじゃん』
『だからそれいつの俺のかっけえ感じの台詞だよ?』
『自分でかっけえ感じとか言ってんなよ、普通に痛ぇから』
『うるっせえな!早く続き話せよ!』
催促する声にぷかりと間抜けな煙を吐きながら、俺は来た道を引き返すように、記憶を辿る。
水平線に沈んでゆく太陽の残光が愁いを帯びて見えた。
思い出はいつも鮮やかで寂しい。
『親父が死んだとき、お前が俺に言ったんだよ』
俺たちがまだ小学生だった頃、山岳カメラマンだった俺の父親が南米の山で遭難したまま帰ってこなかった。現地での捜索には当然大した人員を割いてもらえるわけもなく、そのまま失踪者として死亡判定を受けた。
写真家として世界中を飛び回っていた親父は滅多に帰ってこない父親だったが、それでも帰国した時には俺をバイクの後部座席に乗せて旅をしたり、相楽も混ざって近所の河原でキャッチボールをしたり、昔使っていたというカメラを俺の誕生日にプレゼントして撮り方を教えてくれたりして、結構良い父親だった。
『親父の葬式の時、空っぽの棺桶見ながらさ、俺がぼーっとしてたらお前がなんか横に来て、平気だからどっか行けって言ったら、ひとりは寂しいだろってなんも言わずにただ横で一緒にいてくれたの、結構嬉しかったんだよ。だからお前も今は甘えとけばいんじゃね』
夕暮れを浴びた相楽が驚いたように目を丸くした。
恩を売る打算も、恩を返す意図もない。それでも、無駄に付き合いだけは長くなった友人の隣に黙って腰を下ろしてるぐらいは別にしたらいいんじゃないかって、なけなしの俺の良心がそう嘯いているから。
『…俺、なんか結構かっけえ餓鬼だったんだな』
『ピュアボーイだった麟平少年はあの言葉にちょっと救われちゃったりしたわけよ。ま、かっけえ発言の張本人はなんも覚えてらっしゃらないようだけど』
『それ、心のメモに残しとくわ、将来どっかで使う』
『餓鬼の自分パクってんじゃねえよ』
下手な照れ隠しを、紫煙を散らしながら嘲笑う。
それきり相楽はまた黙り込んで、水面へと視線を向けた。
沈黙の狭間に波の音だけがたゆたっている。朱に侵された海がゆるやかに青を取り戻し始めていた。だが昼間の鮮明な青とは違う、濁ってほとんど真っ黒な濃紺の海はまるで俺の心臓と同じ色をしている。
死ねばいいのにと、割りと本気で思った。
それは生命に対してでなく、己に芽生えた感情に対して。
ほんの微かな扇情によって発生した不純な種子は、俺の心臓の最も脆弱な部分に植え付けられたからタチが悪い。それがどんな風に成長しようと害悪にしかならないと判り切っているのに、決して自分の意志では捨てられないことを何故か俺は発芽の瞬間から知っていたような気がする。
俺はもう二度と今までとは同じ尺度で相楽に接することは出来ないのだろう。それがあまりに虚しくて、自分の心臓の深くに根を張った感情をひたすら呪った。この身体の内部を食い散らかし、至るところに転移してゆくその醜く悪辣な胞子は、いつか俺のすべてを蝕んで、破滅させてしまうような予感があった。
夏のあの日から、俺はずっと怯えている。
この無惨で倒錯的なモラトリアムが壊れてしまう瞬間に。
「お前まじで気を付けろよ」
空港の巨大な窓の向こう側には、水無月の空に分厚い雲が広がっている。心配性の幼馴染みがわざわざ見送りに来ては再三文句をつけてくるのにうんざりしながら、チェックインカウンターに荷物を預け終えた俺は最後の煙草を入れに喫煙所に籠っていた。
「だから気を付けるって言ってるべや」
「だってなんかすげえ尖ってたぞ!しかも鬼の絶壁!」
あんなんお前に登れんのかよ?!と大袈裟に叫んでいる相楽を白々と見つめながら、たぶん最も登攀の過酷なルートの写真でも見たのだろうとアホらしくなる。
今回登頂予定の山は、パタゴニア氷河の一角にある山群の中のひとつで、確かに登頂難易度は世界屈指を誇る危険な山だ。日本ではあまり名が知られていないが、天に向かって屹立するかのような尖った針峰で、その山頂は常に氷の塊で覆われている。地形的な要因から天候も変わりやすく、強風の吹き荒れる山頂付近では滑落などの危険もかなり高くはなるのだが、それでも山というものは、登頂するルートによって難易度もさまざまだ。
「お前が見たのって一番過酷なルートの、しかもフリーのクライミングとかじゃねえの?そんなん俺にイケるわけねえし最初から挑戦する気もねえよ」
「知らん!なんかでもすげえやばそうだった!」
「あっそ」
元より、今回は山頂まで辿り着ける自信もない。難易度の低いルートで、運が良ければ登り切れる可能性もあるかなとあわよくばを狙っているが、それでもかなり難しいだろうと現地で待っているガイドからも言われた。素人に毛の生えた程度の俺には荷の重い山だ。
「ま、もし死んでも骨は拾いにくんなよ」
「あ?冗談でも死ぬとか言ってんじゃねえよ殺すぞ」
「お前は俺に生きて欲しいの?それとも死んで欲しいの?」
矛盾した台詞を吐き捨てている相楽に苦笑しながら紫煙を燻らせた。本来ならこれも、肺機能の低下に繋がるのだからあまりよろしい行いではないのだろうが、今さら一本や二本我慢したところで、日頃の不摂生を帳消しにしてくれるほど神様も甘くはなかろう。
「つぅか、お前今日は部活なかったわけ?」
「今日は午後だけだから、直行すれば余裕で間に合う」
「お前さあ、俺の見送りなんか来てる暇あったら彼女のほう構ってやれよ。そんな仕事ばっか優先してっと、いい加減に愛想尽かされんぞ」
相楽にはかれこれ付き合って一年ほどになる彼女がいる。
当然俺は相楽の彼女に会いたいなどとは微塵も思わないわけだが、能天気なこの男は、何故か毎回恋人を作るたび俺に紹介してくるので地味に面倒臭い。
「あー…それな、実はあれからちょっと色々あってさ…」
「なんだよ、喧嘩でもしたのか?」
「別れた、一昨日」
咥え煙草の相楽が気まずげに首筋をさすった。
あまりにタイムリーな話題に、さすがの俺も一瞬固まる。
「…は?一昨日って直近じゃん」
「ほら、結婚したいみたいな話されてるって言ってたろ?」
「あー…なんか、そういえばこの前も言ってたっけ?疲労と酒で記憶が朦朧としてるけど」
先週、南仏から戻ってすぐ相楽の家で飲んだ時にそんな話題が出た気がしないでもないが、正直記憶が曖昧だ。相楽の家に到着した時点で俺の疲労は既にMAXで、そんな状態のところにアルコールを入れてしまったおかげで割りとすぐ寝落ちしてしまった気がする。
「結婚とかってさ、俺、なんかまだ現実味帯びないっつぅか正直夢が持てないっつぅか…」
「まあ、お前の場合は両親があれだしな」
「散々醜いとこ見せられたおかげで若干トラウマもんよ」
高校時代、相楽の素行不良の原因となった両親の離婚劇は結局最後まで泥沼の形相を呈し、確か調停まで持ち込まれて慰謝料がどうとか色々厄介な話が発生したはずだ。それを間近で見せられ続けてきた相楽にすれば、自分の結婚に対しても前向きになれないという気持ちは理解できるが、それは交際相手には関係ない。
「タイムリミット決めろって言われても全然そんな将来とか想像できなくて、まあ、お別れに…」
「なんか最早そのパターンの破局って三回ぐらい聞いたな」
「俺、もう彼女とか作んないほうがいいかも」
「それは百回ぐらい聞いた」
昔から明るく健全で親切で誠実な相楽源という男は、別に取り立てて物凄く女にモテるとかではないが、人生を通して交際相手は途切れないタイプだ。毎度懲りもせず相手から健気に言い寄られると無下にはできず、それがあからさまに計算ずくの罠であろうと安直に引っ掛かっては、困った顔して頷いてばかりで。
「ま、とりあえずご愁傷さん」
ぼんやりと顔と名前だけが一致しているどうでもいい女と相楽が別れるたび、昏く喜ぶ自分がいる。凡庸だが汎用的な幸福を信じ切れずに逃げ惑う相楽の背中をそっと押し続ける自分にも気付いていた。そんな俺の醜さに相楽が気付かないのを知りながら、俺はいつも相楽の永遠に不幸でいることを望んでいるのかもしれない。
(ああ、まじでクソだな)
傲慢で薄汚い──そんなものしか、俺は知らない。
愛や恋を語る誰かの口から紡がれるうつくしい思慕の正体を俺は知らないし、知る資格もない。青くピントが合ったあの瞬間から、俺の体の内側を蝕み続ける情動は、この平穏を壊すだけの不発弾に過ぎない。
身勝手な執着を早く手放してしまえばいい。
もう、楽になってしまいたい。
そんな俺の願いを嘲笑うかのように、体の深く中心部まで根付いたその摂理は、きっと俺と心中する気だ。
「帰ってきたら俺の傷心祝いで飲むぞ」
「はは、んな不景気このうえねえもん祝うなよ」
「紀藤が無事に帰ってきたら俺の傷心なんか帳消しだろ?」
まじで気をつけて行って来いよ、と俺の肩を掴んだ相楽の目の奥に澱む執着が、俺のそれとはあまりに重ならない。幼馴染みとか親友とか、そういう正しい枠にはまった関係を信じて疑わない相楽のまっすぐな瞳をいっそ濁してしまえたらどんなに楽か。
「ああ、じゃあそろそろ行くわ」
「向こう着いたら一回こっちにも連絡してこいよ」
「面倒くせぇな、お前は俺の彼女かよ」
「お前みたいな放蕩野郎なんか死んでも願い下げだっつの」
「そりゃ間違いねえな」
最後の煙を吸いきってから灰皿に煙草を落とした俺と相楽は喫煙所を出て、人のごった返すロビーを横切った。最後の最後まで、逆に死亡フラグが立ちそうなぐらい心配してくる幼馴染みをてきとうにいなし、俺はそのまま保安検査に向かうことにした。
「まずいと思ったら即引き返せよ」
「わかったから、お前こそ運転気を付けて帰れよ」
「もし帰りも時間あったら迎え来てやるからまた連絡しろ」
「はいはい」
妙に過保護だな、と苦笑しながら相楽と別れた。
手荷物検査を終えた俺は航空券とパスポートを手に出国審査まで済ませ、さて少しゆっくりしようかとロビーにあった売店でコーヒーを買った。手荷物として持ち込んだリュックサックの中からガイドブックを取り出し、軽く現地の情報を頭に入れておく。
(なんだかんだ言ってチリは初めてか…)
南米には仕事とプライベートで何度か訪れたことがあったけど、チリに入国するのは初めてだ。別に避けていたというほどではないが、まあ、なんとなく足を踏み入れるのに少しの覚悟が必要な土地ではある気がした。
仕事柄、平素から世界中をふらふらと放浪して回っているような俺のことを、相楽があれほど心配するのは珍しい。その理由はひとえにこれから足を踏み入れる国は、俺の親父が死んだ場所だからだ。単独での登頂を試みていた親父との連絡が取れなくなってから数日ののち、二重遭難の恐れから捜索を打ち切ることになったという連絡を受けたのは、俺が小学生の頃だった。
もし、親父が本当にあの山で死んだのなら。
その遺体は今もどこかでそっと眠りについているだろう。
今さら親父を見つけられるなんて馬鹿な夢を見るほど俺は浮世離れできないが、それでも俺が親父の死んだ歳を越えてしまう前には、一度登っておいてもいいんじゃないかって漠然と考えていた。
──『麟平も山が好きか?』
口癖のように、そんなことを聞く親父だった。
帰国するたび真っ黒に日焼けした間抜けな顔でバラバラと大量の写真をテーブルの上にばら撒いては、ちゃんと自分で片付けてよと母から億劫そうに叱られているような、そんな馬鹿で優しい親父だった。
山岳カメラマンとして危険と隣り合わせに生きていた親父のことを、母は未だに『あの山馬鹿』と罵りながら笑う。家庭的という言葉からは程遠い自由人だった親父は、何よりも愛した山の中に埋もれて幸せに死ねたんじゃないかと思う。
けれど棺桶の中身が空っぽだったおかげで、未だに親父が本当に死んだのだという実感が湧かずにいたりもして。突然ひょっこり現れて、『うっかり山で遭難してさ』なんて武勇伝のように語り出したりするんじゃないかって、そんな風に時々想像することがある。
──『でも、ひとりは寂しいだろ』
耳の奥に今も残る残響に、少しだけ笑った。
もしかしたらあの時にすべてが始まったのかもしれない。
様々な言語の飛び交う搭乗ロビーの喧騒の中にひとりたたずみながら、俺は尻ポケットの財布から一葉の写真を取り出した。親父が最期に見た景色は、一体どんなものだったのだろう?不思議と餓鬼の頃から、俺はずっとそのことばかりが気掛かりだった。
苦いコーヒーを啜りながら、写真を眺めた。
若い頃に親父が割りと有名な写真賞を受賞した山岳写真。
親父はその写真を鼻高々と息子に自慢するような、そんな子供っぽくて憎めない男だった。ご利益がある、なんて五歳の誕生日に年期の入った一眼レフカメラと一緒に押し付けられたそれは、親父が死んで、なんとなく手放す機会を永遠に失ってしまった。
そんなものばかりを俺はずっと抱えている。
柔らかな記憶に縋っても、ここはもう行き止まりなのに。
第三章 旅路
飛行機を降りると、冬の匂いがした。
羽田からニューヨークとマイアミを経由して30時間ほどのフライトを終えた俺は、バキバキに凝り固まった腰と肩を軽く伸ばしながらスーツケースを押した。南半球に位置するチリの気候は当然日本とは正反対のため、今は冬だ。そしてチリの首都であるサンティアゴは地中海性気候のため、夏はからりと乾燥して過ごしやすいが、代わりに雨季が冬のため今は湿度も高い。
南米大陸の南北に細長い国土を所有しているチリは、北はアタカマ砂漠、南はパタゴニア氷河、東はアンデス山脈、西は太平洋に面しており、自然の要塞に四方を塞がれた陸の孤島だ。しかし首都であるサンティアゴは南米でも最大規模の大都市であり、南米の中では比較的治安もいい。
空港を出た俺は通りで黄色い屋根のタクシーを拾ってサンティアゴの中心部まで、と陽気な運転手に告げ、とりあえずこの大荷物を宿に置いてしまうことにした。南に向かう前に少し休息を挟む気で数日はスケジュールを空けているし、宿に着いたら一旦仮眠しよう。撮影旅行も兼ねているので一応市街地の写真やらなんやら撮っておきたいが、それよりまず腰が辛い。撮影機材を運びながら世界中を放浪して回る体力勝負な仕事柄、体は鍛えるようにしているつもりだが、年々体力の衰えを痛感する。
「Muchas gracias!」
果たしてこれが妥当かどうかも不確かな金額にチップ代わりのUSドルを添えて運転手に渡せば、陽気な男はトランクから荷物を下ろしながら嬉しそうな笑顔を浮かべ、何故か握手を求めてきた。それに苦笑しながら応え、俺はとりあえず宿にチェックインすることにした。
アンデス山脈の麓に位置するおかげで、サンティアゴでは都会的な街並みの遠景に雄大な山々の稜線が望める。その美しい景観のコントラストを横目に、俺はスーツケースを転がした。今回はエアビーでアパートメントを予約したので、建物の入り口に常駐する管理人にパスポートを提示し、部屋の鍵を受け取った。
「まじで南米は移動が長ぇんだよ死ぬ…」
整理整頓の行き届いた部屋に入るなり低い唸り声をあげた俺は、そのままベッドに直行して腰を伸ばした。もし俺が大富豪ならファーストクラスで優雅に移動できるってのに、と貧乏人の泣き言をこぼしながら、持参したポケットWi-Fiに接続されたスマホを起動する。そこには案の定、ある男からのメッセージが。
──『ちゃんと着いたかよ?』
ぶっきら棒な文面に、『今着いた』とだけ返す。
さすが地球の裏側というだけあって、チリと日本の時差は丸々12時間ある。つまりこちらが昼過ぎの今、日本は深夜だ。さすがに平日の月曜だしもう寝ているだろうとスマホをすぐ手放すと、予想外にポロンと通知音が鳴り、閉じかけた瞼をまた持ち上げた。
──『そっちって今冬だろ?寒い?』
──『思ってたより寒いな』
──『風邪引いたら殺す』『油断して腹壊しても殺す』
──『物騒すぎて怖いんだけどなに?』
──『山の神は見てるからな』『気を引き締めて行け』
──『お前は誰なの』
最早お前が山の神みてえになってるけど、と思いながら雑に返信を打つ。地球の裏側にいるはずの人間とノータイムで文通をしているのだと改めて考えると、今さら文明の利器の偉大さを感じた。
──『日本はいま深夜だろ』『お前こそ早く寝ろ』
──『わかってるわ』『明日から登んの?』
──『いや来週から』『明日は街で適当にぶらぶらする』
──『財布すられてこい』
──『うるせえよ』
──『気をつけて行けよ』『じゃあな』
俺の幼馴染みは、どこまでも心配性のお人好しだ。
そんなことを思いながら、最後にまぬけなタヌキがありがとうと言っているスタンプだけ送って、今度こそスマホを手放した。見慣れないアイボリーの天井が目に入る。未来永劫口にするつもりのない思いが、ずっと喉の奥に蟠っていて気持ちが悪い。今さら妙に目が冴えてしまった。もう一度瞼を閉じても上手く眠れない。
俺の世界は、あまりに不自由に歪んでいる。
でもそれを悲劇と呼ぶには少しドラマチックが足りない。
どこにでもありふれた平凡な不幸を誰しもが抱えているとして、そんな人生に辟易したりしないのだろうか?俺はもう随分と前から呼吸をするのが億劫だ。別に苦痛というほどではなくて、本当に億劫なんだ。自分の中で美しく定まった照準と、世界に望まれている景色がひたすら不一致で、それが重なることは永遠にあり得ない。
それがただ、少しだけ息苦しくて寂しい。孤独というものは、いつも臆病と手を繋いでいる。自分の内側に存在するどす黒い思惑と感情を、ただ口にすれば、この世界の誰かには理解されるかもしれない。けれどかたくなに手を繋いだ孤独と臆病は、親和と勇気と表裏一体で、背中合わせに介在するそれらが交わることは途方もなく難解だった。誰も俺のことを否定しない代わりに、誰も俺のことを理解しない。俺の中にあるものを誰も知らないことと、それが存在しないことは限りなく等号に近い。
(俺、結構モテるんだけどな)
尻ポケットの煙草を取り出して火を点けた。
ゆらりと立ち昇る白がいつもよりあわれな形をしていた。
都会的な街並みの中に混在する古めかしいヨーロッパ風の建物は、どれもスペイン植民地時代の遺物だ。十九世紀初頭に起こった独立戦争後は近代化が進み、硝石の産出などにより国は繫栄したが、それでも当時の名残りがさまざまな形で今も街の景色に溶け込んでいる。冬に雨季があると言っても年間を通して雨の少ない国には違いなく、俺は晴れた冬空の下をカメラ片手に歩いた。観光地や富裕層の住む安全な区画を通り抜けた先には貧困地区もあり、こちらはスリや強盗などのリスクに遭遇する可能性も高くはなるため観光客は滅多なことがない限り近づかない。だが俺は、どの国も等しく街の暗部が好きだ。生と死の気配が鬩ぎ合う薄汚れた街外れの空気が肺を満たすとき、普段は自分の中から意識的に切り離された粗悪で夾雑な場所にまで、生きた血がただしく巡りはじめるような気がする。
「Hello, please, I want to.」
ふと、ダウンジャケットの裾を引っ張られた。幼い声が不自由な英語で話し掛けてくるのに振り返ると、俺の背後には小学生くらいの少年と少女がふたりで手を皿にしながら何か言っている。物乞いだ。
「Sorry, I don't have anything.」
「Please, money, food, this is, I want to.」
物乞いのためだけに耳で覚えたのだろうカタコトの英語がやけに悲しく響いた。貧しく胡乱な世界の片隅で、この子達はこれからどんな大人になるのだろう?俺のカメラを指差す少年の、シラミだらけの頭をそっと撫でた。それに彼は少し不思議そうな顔をしていた。俺はほとんど伝わらないだろう英語で『君たちの写真を撮らせてくれるなら、その対価にお金を支払うよ』とジャスチャー混じりに伝え、目を合わせたふたりが勢い込んで頷くのを待ってから、首にぶら下げたカメラを構えた。
ファインダーを覗くと世界が分断される。
土埃の舞う別の世界の中で、少年少女ははにかんだ。
盆地に位置するために光化学スモッグや大気汚染のひどいこの街で、それでも手を繋ぎながらふたりは生きている。去り際に家族なのかと尋ねたら、少女のやせ細った手を取った少年が『No』と答えた。
それはとても正しくうつくしい光景だった。
どうしようもなく憧れた摂理が、今ここで光輝いている。
俺がどれだけ足掻いて手を伸ばそうと届かなかった整合性の欠片が、無邪気に走り去ってゆく。
(俺はずっと、あれが欲しいだけなのにな)
同性愛を否定するわけじゃない。お互いがその形を望むのなら、それはあそこで輝く摂理と何も変わらない。でも俺の心臓に纏わりついて根を張ったこの怨念を、気持ち悪いと眉を顰められ、今までの関係ごとゴミ箱に投げ捨てられたらと想像するだけで足が竦む。
相楽は、絶対にそんなことしないのにな。
それを信じ切れない俺の臆病がいつも俺を縛っている。
貧困地区から安全な都心部に戻る頃には西日が差し始めていた。俺は市場の適当な屋台で飯にするかと適当に市街地をぶらぶら歩いていると、スペイン料理屋の店の前でスマホを現地の店員に差し出しながら困った表情を浮かべている若い女性を見掛けた。
「あー、えっと、Cash only?」
「Este lugar solo comercia en efectivo.」
「ここは現金払いのみですよ、んで店員がちょっと意地悪」
数日ぶりに見た平たい顔の同族に思わず声を掛けると、彼女は一瞬驚いた顔をしたあと、あからさまにほっとした表情を浮かべた。
「若い東洋人の女性だからって舐めてますよ、そこの肥満体型のおっさん。特にこの店にこだわりがなければ、別の店に入ったほうがいいと思います」
「え、あ、もしかして日本人の方ですか…?」
「俺もただの観光客なのでガイドはできなくてすみません」
「あ、いえ、そんなのは全然…!」
スペイン語わかるんですね、と感心したように大きな丸い目を向けてくる女性は二十代半ばぐらいだろうか。齧歯類のような可愛らしい顔立ちに小柄な彼女は、手荷物用の小さな鞄を腕に抱き、あからさまに緊張した面持ちで、見るからに不慣れな東洋人旅行客といった風貌だ。
この辺りではほぼ英語が通じないとはいえ、彼女の尋ねた言葉はきちんと理解されていた。それならイエスかノーかで答えてやればいいものを、まだ軒先で不遜な表情を浮かべる太った男はわざと彼女にわからないようスペイン語で喋っていたのだ。露骨に態度も悪いし、こんな店には入らないのが賢明だろう。
「簡単な単語がほんのちょっと聞き取れる程度です」
「私、実は初めての一人旅で…」
「初めての一人旅に地球の裏側まできちゃったんですか?」
「兄がアメリカに海外赴任してるんです」
イースター島に行きたくて、と意気込んで人生初の大冒険に繰り出したものの、こちらではほぼ英語が通じず、心が折れかけていたのだと泣きそうな顔をしている彼女をこのまま放り出すのも少し夢見が悪い。だがここで今から一緒に飯でもどうかと誘うのも、下手くそなナンパの常套手段みたいで気持ち悪いよなと葛藤する。
「あの、もしよければ、というか……急なお願いでほんとに申し訳ないんですけど、お金は払うので、私と食事を一緒に食べてもらえないかと……」
そう思っていたら、向こうから申し出があった。
旅は道連れ、世は情けである。沢野優香という名前らしい彼女の言葉に頷いた俺は、昨日から狙っていた店まで優香を案内し、店に入った。
「明日からはツアーに参加するんですか?」
「そうなんです、でも、今日は移動日だったから…」
「ああ、こっちに着いて空港からホテルまでは来れたし腹も減ってきたから適当にどっかで飯でも食おうか、と思ったら玉砕しちゃった感じ?」
落ち込んだ様子で優香がこくりと頷いた。
単身でも事前にツアー申込さえしていれば途方に暮れることはないだろうが、今日だけはどうしたって自力で生き抜かねばならず、一生懸命己を鼓舞してホテルから出てきたのだと優香は眉尻を垂らす。
「それは災難でしたね、意地悪な店員に当たって」
「でも紀藤さんに助けていただいて、本当に助かりました」
「俺も飯にしようと思ってたとこなんでちょうどよかったです、こっちも気ままな一人旅だし」
「紀藤さんもチリには旅行で来られたんですか?」
「まあそんな感じですね」
詳しい説明をするのも煩わしいと適当に首肯してビールに口を付ける。優香は普段名古屋でOLをしているらしい。去年から兄がシカゴに赴任したとかで、姪っ子の顔を見ようと渡米したついでに、昔から行ってみたかったイースター島に突撃しようと勇気を振り絞ったのだと言って、緊張がとけた様子でコロコロ笑った。
「一人旅はよくされるんですか?」
「まあ俺の場合は仕事と趣味が旅行みたいな感じなんで」
「お仕事ってなにをされてるんですか?」
「カメラマンです」
そこの市場で仕入れたものだろう、魚介類を使った料理がテーブルに並ぶ。それをパクパクと口に運びながらお互いに当たり障りのない話をした。俺と目が合うたび照れ臭そうに目を細める優香に、どことなく居心地の悪さを感じるのにも慣れたものだ。
「でも、あの、声を掛けてくれた時、すごくびっくりして」
「この辺りで日本人は珍しいですもんね」
「そう、じゃなくて…」
酒のせいかどうか、俯きがちな優香の頬が赤い。
下手に声なんか掛けるんじゃなかったなと今さらな後悔を思考の水面に浮かべながら、まあ別にこのまま別れるだけの相手なんだからどうでもいいかと諦める。残念ながら、俺は旅先でのアバンチュールなんてものに興じられるほど若く勇敢ではないのだ。
「あ、いえ、すごく格好いいからモテそう、だなって…」
「まさか?もう三十半ばのオッサンですよ」
「そんな、ほんと、素敵です…」
元々積極的なほうではないのだろう。
弱々しく震えた優香の指先を冴えた頭で見下ろした。
旅先で困ってたところを助けてもらったなんて出来過ぎたフィクションみたいな出会いだもんな。言葉を躊躇うように俺を見つめる優香の瞳がわずかに潤んでいた。可愛い子だと思う、普通に。正常な男ならこういう場面で気障な口説き文句でも出てくるんだろう。
これが、正しい形なのか判別がつかない。
自分がどの場所に立っているのかも、よくわからない。
途方もない違和感の中で、決定的に何かが違うことだけが明白で。あの夏から、自分の内側にある感情がなにひとつ動かないことに何度絶望しただろう。虚しいほど噛み合わないピースだけが置かれた、永遠に完成しないパズルの前で俺はずっと立ち尽くしている。
「彼女さん、とか、いるんですか」
──面倒だな。
そんなものはもう随分と長らくいない。
何度か作ったこともあるけど、結局上手くいかなかった。
馬鹿みたいに何年も自棄を起こして不誠実な関係ばかり渡り鳥のようにふらふらと。自分の明確な所在はどこにも定めずに、身勝手な独善をふるいながら、上辺だけは綺麗な仮面を取り繕って。
「ああ、実はもうすぐ結婚する予定なんだ」
自分で言ってて、心底笑えた。
本当に俺はどこまでもひねくれきったクソ野郎だ。
「お天道様は機嫌が悪いらしいな」
ロッジの窓辺から薄曇りの空を見上げていた俺の背中に野太い声がぶつかった。大柄なそのアメリカ人の男は、この宿の店主で山岳ガイドのボガードだ。毛むくじゃらな太い腕が差し出してきた赤いマグカップからはコーヒーのいい匂いが立ち昇っている。
「結構荒れてるな、ここ数日」
「ああ、この辺は気候が変わりやすいからな」
「ガイドブックには降水量は多くないって書いてたのに」
「雨より風だ、一番厄介なのはな」
こんなにも壮大な氷の塊に覆われたこの地には、それでも日本と同じように四季がある。こちらは今冬に入ったばかりの時期で、突発的に雨や雪が降ることがあった。偏西風と南アンデスから流れ込む冷たい下降風の影響で西から強く吹く風が、木々の梢を激しく揺さぶっている。
父の旧友でもあるボガードは、サンティアゴから南下してパタゴニアに入った俺をここで迎えてくれた。元々アラスカの地で生まれたらしいこの大男は、数年前からパタゴニアに移住し、山の麓でこの小さなロッジをひとり営みながら山岳ガイドもしている。宿泊可能人数は最大でも六人までという小さな宿ではあるが、ボガードのガイドとしての腕を聞きつけて、世界中の登山家やクライマーたちがこの宿にはやって来るのだという。
「お前も素人なんだから夏に来ればいいものを」
「どうしても仕事の都合がつかなかったんだよ、これでも最大限に調整はしたんだぜ?」
「親父と同じようなことばっか言ってら」
「俺は母親似だって、あの馬鹿親父が一番喜んでたのに」
「そりゃ顔の話だけだろう?」
「性格もだよ」
俺は合理主義でリアリストな母親の血を色濃く継いで生まれてきたと、勝手に自負している。少なくとも親父のように自由で無茶な生き方は真似できないし、だからこそ少しだけ憧れてもいた。
「そうか?俺から見りゃお前はコーヘイによく似てるよ」
「へえ、それは喜ぶべきか悲しむべきか」
「確実に悲しむべきだろうな」
あれに似てたら確実に長生きはできねえよ、とボガードは豪快に笑いながら俺の肩を加減もなしに叩いてくるから、脱臼するかと思った。
「自分に執着がないだろう、お前も」
「そんなことねえよ、命は惜しいタイプなんで」
「命が惜しい奴はあんな山の上まで登ろうなんて思わない」
ウッドチェアに腰を下ろしたボガードが悪戯にウインクを決める。そんな気障な仕草も妙に様になるんだから外人ってのは狡いよな。俺は苦笑をこぼしつつ、冬でもお構いなしに半袖を着ている父の旧友をゆるりと流し見た。
俺は、決して生き急いでいるわけでも命が惜しくないわけでもない。それでも餓鬼の頃から色々なものに対する執着は薄いほうで、その中のひとつに俺自身も含まれている。別に破滅願望があるわけではないし、できる限りは豊かな人生を送りたい。けれど俺は悪い意味で、昔からさまざまな物事に対する欲がなかった。
「サヤカを泣かせるなよ」
「清夏ちゃんもあれで結構自由人だからな」
「なんだ、最高の奥さんじゃないか、俺と再婚しないかな」
「親父に祟られてもいいならお好きにどうぞ?」
「はは、それは勘弁だな」
茶目っ気たっぷりにボガードが肩をすくめて見せる。
身勝手な親父が死んだおかげでうっかり未亡人になった俺の母は、しかし持ち前の気の強さと楽観的な性格で未だに悲壮感の欠片もなく元気に過ごしている。若い頃は結構有名なモデルだったらしい母は、親父との結婚を機に芸能界を引退し、俺を出産した。俺が専門を卒業して独り立ちしたあとは湘南に移り住み、今はそこでカフェを経営する傍ら、世界中の海に潜りに出掛けている。
「なんだ、コーヘイと大して変わらんな」
「結局うちの親はなんだかんだで似たもの夫婦なんだよ」
「そりゃあこんな放蕩息子が出てくるわけだ」
「失敬な、俺は山男と海女のハイブリッドなんだぜ」
これから夕食の準備をするというボガードが立ち上がって奥に引っ込んでいく。この宿に来て三日が過ぎたが、初日は綺麗に晴れて肩慣らしに軽く平易なルートを辿って低めの山に登ったものの、以降は天候に恵まれない。
今夜のうちには雨も上がるだろうとボガードは言っていたけれど、どうなんだろう。割りと俺は雨男だ。天候ばかりは神の気まぐれに期待するしかないわけだが、それほど長期間猶予があるわけでもない。窓ガラスを叩きつける横殴りの雨をぼんやりと眺め、俺はゆるいため息をこぼしてソファーに沈んだ。
そのままうつらうつらと瞼を下ろす。
夢うつつの狭間で、子供の頃の夢を見たような気がした。
多分まだ幼稚園児ぐらいだった頃、毎日のように女子からおままごとに誘われた俺がなんとなく父親役をこなしていると、それが謎に不満だったらしい相楽から喧嘩を吹っかけられたことがある。
『オトコのくせにままごとばっかしてつまんねえやつ!』
俺は平和主義という名の無感情な餓鬼だったので、誰かに喧嘩を吹っかけられても基本何も思わない。でもその時だけはすごく腹が立って、生まれて初めて相楽と殴り合いの喧嘩をした。ビービーと情けなく泣き喚いて、先生に止められるまで取っ組み合った。強烈に、何かが気に食わなくて──、
喧嘩のあとで無理やり仲直りの握手をさせられた時も相楽は心底不服そうに不貞腐れていて、帰りのバスでもひと言も話さなかった。普段はあんなにうるさいのに。静かになった隣の席をすこし物足りなく思いながら、俺はつい寂しくて相楽にごめんと謝った。すると相楽が急に大声でわんわん泣き出すから俺は余計困惑して。
あの時、相楽はなんで泣いたんだろう?
そんな疑問が湧いたところで、俺はふと眠りから覚めた。
「キトー、起きましたか?」
うっかり共有スペースとなっているリビングのソファーで寝落ちてしまっていたらしい俺が目を覚ますと、その気配に気付いた痩せ型のオーストラリア人がおおらかそうな緑の目を細めた。彼はクリスだ。俺と同じくこの宿に泊まっているアルピニスト兼弁護士だという異色の男は、とても穏やかな声が特徴的だった。
「ああ、すみません、うっかり寝落ちてた」
「こんな天気だとさすがに暇で仕方がないですよね」
「俺、あと三週間ぐらいしかここにいられないんだけど…」
「僕も同じようなものですよ」
山と違って仕事はせっかちだから、と丁寧な言葉づかいのクリスは笑った。確かクリスは五十代半ばだとか言っていたが、それでも細身ながら逞しく鍛えられたしなやかな背中は男から見ても憧れずにはいられない。
「嵐は去ったみたいですね」
「本当ですか?明日は晴れるといいけど」
「ひとまず明日は大丈夫じゃないですかね、ほら──」
そう言って、クリスは窓の外を指差した。
真っ黒な絵の具を塗りたくったような空には、満天の星。
すげえ、と無意識に感嘆の声を漏らした俺はソファーから立ち上がって外に出た。鋭く肌を刺すような冷たい空気が体温を奪う。深い森に茂る針葉樹の葉の隙間から覗く淡い星のひかりの瞬きが降り注ぐ。
天の川と、名付けた誰かはセンスがいい。
無数に点在する星たちのひかりの中で南十字星が輝いた。
人口の光に浸食されることのない場所から見る星はこんなにも雄弁だったのかと、いつも思う。深い漆黒の中を静かに照らす星は微笑んでいるようだ。
「銀河ってこんな近かったんだな」
「さすがに上着ぐらい着ないと風邪を引きますよ?」
厚手のブランケットを持って俺を追いかけてきたクリスが子供でも窘めるような顔で苦笑している。
「ああ、ありがとう」
「やはり星は南半球から見るに限りますね」
「南半球の出身だからってすぐそんなマウント取ってさー」
「事実を言ったまでですよ」
地球の人口分布は北半球に大きく偏っている。だからこそ空気中に不純物も多く、星を見るには適さないのだと高説を垂れるクリスの声を聞き流しながら、俺は手渡された毛布を自分の体に巻き付けた。
「だからこそ、死者を悼むにもここは完璧な場所だ」
「人は死んだら星になるってあれ?」
「伝承は人々の祈りです」
クリスの左手の薬指には銀色の指輪が輝いている。しかし学生時代から三十年以上連れ添った奥さんは、昨年胃がんで他界したのだと昨日言っていた。世界中の山に登って危険を冒してばかりの自分がまだ生きているのに、読書と手芸が趣味の慎ましい妻が先に亡くなるなんて妙な話だと笑うクリスはどこか寂しげだった。
夜空の星は、人々の祈りの形をしているのかもしれない。
人は死んだらどこに行くのだろう?
「君のお父さんも、きっとあの星空を見たんでしょうね」
静かに夜空を見つめる厳格そうな男の横顔が、そんなことを呟いた。柔らかな皺の刻まれた、痩せた頬。緑の瞳の中に詰め込まれた初老の男の寂しさを俺は知らないし、親父が最期に見た夜空の色も永遠にわからない。
でも、もしも氷に埋もれた死の間際の親父の目に映ったのがこの夜空だったら、きっとあの単純な男は、神に感謝すらしながら眠りに就いたかもしれない。最高の人生だったと満足げに笑って、残してきた妻と息子のことを思い出して少し泣いたかもしれない。
「ほんとに、そうだったらいいのにな」
俺は、今さら餓鬼みたいに楽観的に、そう思った。
「そうですよ、絶対に」
右隣から聞こえた優しい断定に、少し笑う。
鹿爪らしい顔立ちを少し笑みの色に染めたクリスは意外と男前だった。俺よりもまだ背の高い男がカーディガンを抱き締めるように身を竦めた。
「想像力は、人を救うために神が授けた武器ですから」
「賢い人は発想まで格好良いな」
「神が授け、人が祈り、この世に遺り続けてきた言葉や思想は信じるに値するものだと思いませんか?だから僕はこの夜空のどこかに妻が煌めいていると信じているし、君の父親が最期に見た夜空は今日と同じくらい美しかったと信じていますよ。この世界はね、自分のものの見方次第で、どこまでも美しく生まれ変わるんです」
傲慢でありなさい、とクリスが俺の肩を叩いた。
鋭く張り詰めたような冷たい空気の中でクリスの吐いた息の形だけが柔らかい。大きく骨張ったその手に刻まれた皺の数だけ、賢い人は言葉を蓄えている。
「…クリスの奥さんの話を聞いてもいい?」
「惚気と自慢話しか出来ないが、それでも良ければ是非」
おどけたように緑の瞳を細めるクリスに苦笑いをしながら頷いて、俺たちはロッジの中に戻った。暖炉の前でクリスは妻は料理が上手いとか、手芸の腕はプロ顔負けだとか、でも意外と掃除は苦手なところも可愛いとか楽しげに奥さんの話をして、酷く愛おしそうに、少し懐かしそうに、そして時折寂しそうに笑った。
吹き付ける風の音だけがそこにあった。
冷たい雪に覆われた道とも呼べないそこをただ歩く。
一歩一歩、白銀の大地を踏みしめるたびに喉を刺すような冷気に息が切れた。俺のほんの少し先を歩いているボガードの大きな背中を必死に追いかけながら、こんな道をひとりで登るのはどれだけ孤独だろうと、この目に映したこともない父の幻影を思い描く。
雲ひとつない鮮やかなコバルトブルーが頭上にある巨大な空のカンバスを染め上げている。この世界中のなによりも純度の高い、澄んだ青。酸欠寸前の鈍化した頭は、おかげで余計なことを考える余地もなく美しい風景だけを捉えている。
クリスと星を見上げた翌日、本当に好天周期が巡ってきたのをこれ幸いと、慌ただしく数日分の食料をリュックサックに詰め込んだ俺は宿を出発した。トレイルは世界中から来た旅人たちでごった返すような大混雑だったが、湖を越えると人の気配は遠のいた。ここから一日かけて氷河を渡り、夜明けとともに最後の断崖を登り始めた。そこから今はもう数時間ほど経っただろうか。ようやく最後の難関である過酷な雪壁を、命綱だけを頼りになんとか登り切り、山頂部の岩場に足を掛けた。
ああ、まじで登れちゃったよ。
感慨に浸るよりも先に、そんな間抜けな感想が出た。
薄い酸素を喘ぐように吸い込みながらどうにか息を整えた俺の肩を「最高だろ?」とボガードが気さくに叩く。視線の先に広がった山頂からの山並みは、ぞっとしてしまうほどに美しく雄大だった。
「ほんと、すげえ綺麗だな…」
この風景を、親父も見たのだろうか?
もしもそうなら、本当に、悔いはなかったかもしれない。
目に映る景色が広大なものだからと自分の悩みがちっぽけに思えるみたいな、そういう陳腐な感傷を、馬鹿にしていたはずなのに。これまで何年も延々と抱えてきた矮小な苦悩や葛藤なんて本気でどうでもいいんじゃないかって──そんなひたすら単純な解釈が、自分の胸にすとんと落ちてきたことにうっかり救われている。
親父が死んで、俺はすごく寂しかったんだ。
気丈に振る舞う痩せた母親の背中を見るのは悲しくてさ。
それで、本当に馬鹿みたいなんだけど、
俺は──特別さの欠片もなく、相楽のことが好きだった。
世界の摂理に反していたわけじゃない。
ただ、俺が注いだものだけがここにある真実だったんだ。
それと同じだけのものを相楽が返してくれることはないと思う。でも、それはしょうがないことだ。真摯に紡いだ願いのすべてが叶うのだとしたら、この世界はもっとシンプルで純粋だっただろう。
でも、世界は当たり前に複雑で不平等だから。
最初から見返りなんか求められると思ってなかっただろ?
ふとした瞬間に溢れてくる衝動をどれだけ押さえつけたところで、何も消えなかった。それは世界から祝福される形の恋ではなかったのかもしれない。他人から見れば、歪で醜い感情かもしれない。永遠にも似た猶予にまだ縋りついていることだってできる。
──それでも、俺にとっては唯一だったじゃないか。
青くピントが合ったあの瞬間を、
俺は心から、美しいと思っていたはずなのに。
どうしてそれを捨てる方法ばかり、探してたんだろう?
(ああ、相楽に──好きだって言おう)
この澄んだ青を、忘れてしまう前に。
俺の弱さがまたあの瞬間を醜く歪めてしまう前に。
口にした言葉ですべてが壊れてもう後戻りすら出来ないとしても、いつまでもここにいるのは苦しい。俺はどう足掻いたって相楽の望む親友にはなれないし、今から全部を元に戻すのも難しい。
ボタンは最初から掛け違えられていた。
それを正すのは、少しだけ痛みを伴う作業になるけれど。
それでも、この青は、綺麗だから。
身勝手な刹那を俺はたまらなく愛していたんだ。
あの夏の空の切なさも、あの夏の海の侘しさも。
真っ白な壁に飾られた青写真の縁を、指でなぞるように。
──あれは、とてもありふれた、ただの恋だった。
第四章 断罪
アルバムに挟むこともなかった写真があふれている。
餓鬼の頃から親父の影響で写真を撮るのだけは好きだったから、それこそ数限りないほどの写真が、事務所の倉庫に乱雑に突っ込まれたまま放置されている。それを数年ぶりに取り出した俺は、ぞんざいに扱い続けてきた懐かしい写真を意味もなく指先で撫でる。
独学で写真を撮り続けていた頃の、構図も光の映し方も稚拙極まりない写真。その端々に映り込んでいる幼馴染みの男の大部分は屈託なくも笑っていて、でも、時々不貞腐れたり落ち込んだりもしていて、そういう真っ直ぐなところが俺には酷く眩しく映っていたのだと今さら思う。
ひねくれていて情緒の薄い俺の傍に相楽がいたのはとても幸運な偶然だった。俺の足りないピースを相楽が埋めて、でもその代わりに俺が相楽の欲しがったピースを埋めてやれたことはなかったんじゃないかって。だから、この一方通行な感情の行き着く先があたたかな楽園でないことを、俺は受け入れるべきなんだ。
先に変わったのは俺のほうで、だから全部俺が悪い。
その贖いに一生口を噤むと決めていた。
なのにそんな決意すら折って、身勝手だとわかっていてもまだ──あの青を愛している。
(我ながら悪趣味だよな、ほんと)
色褪せて埃をかぶった写真を確かめる。
頭の隅に押しやって蓋をした記憶を掘り起こすように。
中学の修学旅行の時に撮った相楽の不細工な寝顔の写真をクラス中にばら撒いて、馬鹿にしていたのに。クラスで一番可愛いと噂されてる女子に笑われたとか言って、相楽が臍を曲げていたのも懐かしい。
考えうるかぎりの粗悪さで乱暴に扱ってきたものを今さらそっと棚から取り出して、俺は写真それぞれに映し出された過去の断片を丁寧に救い上げながら、ゆっくりと愛し直す。
河原で親父と相楽と三人でキャッチボールをした日も、相楽が清夏ちゃんに告って玉砕した日も、小学校の遠足帰りに何故か大喧嘩をして殴り合った日も、中二の時に初めて相楽に彼女が出来た日も、高一の時に俺が相楽より先に童貞を卒業した日も、あの夏に相楽の初めての恋が誰にも気付かれぬまま失われた瞬間すらも。
──俺は、どうしようもなく愛していた。
そのすべての瞬間の傍に在り続けた、美しいあの青を。
覆すことなんかできるわけがない。恋なんてあまやかな言葉で飾るには烏滸がましいくらい身勝手な衝動。時折体の奥底から突き上げてくるそれを俺は何度も殺そうとして、結局未遂に終わっている。
その時ふと、ジーンズの尻ポケットでスマホが震えた。
──着信:相楽源
『もしもし、紀藤?お前もう帰国したの?』
どこか不機嫌そうな声が電波を介して届く。
昨日帰国した俺は、それをまだ相楽には伝えてなかった。
わざわざ空港まで迎えに来られても正直どんな顔をすればいいのかよくわからなかったし、伝えるべき言葉もまだ少し迷っている。できる限り相楽を傷つけない方法なんて探したところで、結局今まで築き上げてきた全部を俺が壊すことに変わりはないのに。
「ああ、ちょうど昨日な」
『帰ってくんなら連絡しろって言ったべ』
「色々立て込んでて連絡する余裕とかなかったんだよ、飛行機の中だと電波も悪かったしな」
適当な嘘で茶を濁す。相楽の不機嫌はまだ続いた。
『にしても何日も無視しやがって』
「はは、俺がいなくてそんな寂しかったわけ?」
『あ?人が心配してんのをヘラヘラ笑ってんじゃねえよ』
棘のある声を電話越しに吐き捨てる相楽はどこまでも人が良すぎて、ちりりと心臓の端が痛んだ。この信頼と愛着をこれから裏切らなければならないことが憂鬱で。だってこれはうぬぼれではなく、相楽は心から俺のことを大事な人間だと思ってるはずなんだ。
「悪かったよ、ごめん」
『…どうでもいいけど無事に帰国したんだな?』
「ちゃんと五体満足で帰ってきたからさ、そんな怒んなよ」
あまり怒らないで聞いて欲しい。
それは無理な願いだって、わかってるはずなのにな。
流れ込んでくる不満げな空気に苦笑を滲ませながら小さく息を吐いた。悪意だけが世界を壊す兵器なら、もっと世界は息がしやすかったかもしれない。
「なあ相楽、今から海とか行かねえ?」
惰弱な舌先が今にも震えだしそうだった。
唐突な俺の申し出に、電話口から怪訝な声が漏れる。
『は?海ってなんだよ唐突に』
「高三の夏に一緒に行ったの覚えてない?」
『そりゃ覚えてるけどさ、もう夜の12時過ぎてんじゃん』
「明日は土曜だろ?また部活あんの?」
『部活は休みだけど…』
不可解そうに眉を顰める相楽の顔が目に浮かぶ。
俺は押し切るように「今から迎えに行くから寝んなよ」と一方的に言って、通話を切った。息を吸う。薄暗い倉庫の照明を落として車のキーを引っ手繰った俺は、事務所の階段を降りてガレージに向かった。
東京の夜空には、瞬く星もない。
国産車のエンジンは笑ってしまうほど静かだ。
車載ラジオから流れるブルーハーツが酷く懐かしかった。
あの夏、愚かな俺と相楽を乗せたあの列車は、一体どこに向かって走っていたんだろう?
「ほんと急になんなの、お前」
単身者向けマンションのエントランス前に停めた車の助手席に乗り込んできた相楽が、怪訝を通り越して怯えたような顔をしている。咥え煙草の俺はそれに笑い、けれどなにも言わずにアクセルを踏んだ。
「断崖絶壁に頭ぶつけたりしてないよな?」
「はは、多少は打ったかもな」
「まじで怖いんだけど」
相楽の家からあの海まではそれなりに距離がある。
俺は空いた深夜の高速を飛ばしながら、今回の俺の行いに文句をつけてくる相楽にぽつぽつと相槌を打った。説教臭い高校教師からの叱責は、暑苦しい愛の鞭だったりするから厄介だなとうんざりしながら。
──でも、こんな説教もこれが最後なのか。
そう思うと少し名残惜しいような気になるから単純だ。
「センチメンタルジャーニーなの、麟平くんは」
「まあそんなとこだな」
あの日の海に辿り着き、適当な路肩に車を乗り捨てた俺が砂浜に降りると、あとを追いかけてきた相楽が呆れたような声を出す。
「向こうでなんかあったわけ?」
「別になんもねえよ、山からの景色は最高だったけどな」
「え、んじゃほんとに山頂まで行けたんだ?」
「天候に恵まれてな」
手持ち無沙汰を紛らわすように、煙草に火を点けた。
夜の中で静かにさざめく波の音に耳を澄ませ、ぬるい夏の夜風に攫われる紫煙を目で追う。地球の裏側から帰国すると梅雨が明けていて、本格的な夏の匂いがした。何度も巡った痛々しい夏の青が透ける。
「どうよ、登頂してみた感想は?」
相楽がインタビューマイクを構える仕草で俺に尋ねる。
「あそこで死ねたら本望だろうなって思った」
真っ白な雪の中からあの澄んだ美しい青を見上げながら死ねたのなら、悔いはないだろうなって。まあ、元々親父は後悔なんて言葉の対極にいるような人間だったけど、それでも最期の瞬間をあの山で過ごせたのなら、きっと親父は笑って逝けたと思うんだ。
「登ってよかったよ、ほんと」
「…まあ俺はクソほど心配したけどな?」
「普段から俺は紛争地帯だなんだと行ってんだろ」
「あのさ、俺はそのたび毎回ちゃんと心配してんだけど?」
紀藤はまじでわかってねえよな、と辟易したように呟いた相楽が尻ポケットから取り出した煙草を咥えた。チープな黄色のライターの先に火が点くと、夜闇に霞んだ相楽の横顔が浮き上がる。
「俺はお前が死んだら普通に悲しいよ」
こんなにも、似ているのに。
粗悪な類似品を抱き締めても体温がしないのはなんでだ。
「多分一週間ぐらいは寝込むと思うし」
触れたい。赦されたい。愛されたい。
傲慢な欲ばかりかいて、そのくせ憐れなほど臆病で。
他の誰かになら躊躇いもなく触れることができたこの指が今は情けなく震えて、相楽が好きで、でも俺たちの見ている世界のピントはずれているから。
「葬式には出てやれる気がしない」
寂しい潮風が煙草の香りすら攫ってゆく。
月明りの下で、相楽が照れ臭そうに俺から顔を背けた。
暗闇に慣れた目が捉えた相楽の横顔は不本意そうなしかめ面で、余計にどうしようもない。胸の奥でぐるぐると渦巻く感情の行き場がなくて、もうここで全部捨てる気で、相楽を傷つけるのもわかってて、なのにこの期に及んでまだ期待を捨てられなくて、今にも逃げそうで、みっともないくらいに俺の恋は歪んでいて──、
「俺が死んでお前が悲しんだら、俺は嬉しい」
仲の良い幼馴染みのままいてやれなくて、
誰より信頼のおける親友にもなってやれなくて、
こんな俺にお前の隣は相応しくないと今さら思い知って、
「お前の幸せなんか願ったこともない」
ここが世界の最果てだった。
青なんてどこにもない、真っ暗な夜の底。
でも、恋の終わりが美しくなかったことに俺は今少しだけほっとしてる。もうあの青に囚われなくて済む。それだけが唯一の救いだと思った。
「俺のとこまで堕ちてくればいいのにって思ってた」
ぽかんとしたように俺を見つめる相楽の後ろで、水平線に淡い暁光が差し込んだ。夜が明ける。夏至を越えたばかりの短い夜が霧散してしまう前に、寂しいこの海があの日の青を取り戻してしまう前に。
──『でも、ひとりは寂しいだろ』
ああ、だけどお前の隣は、もう苦しくて堪らないから。
「ずっと好きだった、ごめん」
その胸ぐらを雑に掴んで当てつけのようなキスをした。
時が止まったみたいに呆然としている相楽を突き放すように踵を返して、俺は砂浜を引き返した。路肩に停めた愛車が可哀想なぐらいぽつんと孤独に佇んでいて、喉の奥が焼けるように熱い。
最低の気分だった。
清々しさなんて露ほどもなかった。
それなのに何故かちっとも泣けなくて、少し笑えた。
運転席のドアを開けて車内に体を押し込みながら深く息を吐いた。最後に見た相楽の表情が頭から離れない。なんでと叫びたがっているようなその瞳が、昏く歪んで見えたことが無慈悲に俺を苛んで。
あの夏からもう十五年が過ぎた。
俺の心臓に根を張った胞子はまだここにある。
なのに、俺だけが、もう元に戻れない場所に立っていた。
好きだよ。
傍に置いてくれ。
他の誰かのものになんかなるなよ。
そんな本音を隠しながら、何食わぬ顔で一生だって相楽の隣に居座ることだってできたのに。
死んだように静かな海辺の町には、不規則な波の音だけが響いている。まだエンジンを掛ける気にならず、薄ぼけた夜明けの風景を俺はただ眺めていた。過疎の進む港町の風景は少し荒廃している。ジーンズのポケットから取り出した煙草の箱の中身が空だった。
「あー…、まじで馬鹿みてえだな」
握り潰したその箱から、染み付いた煙草の匂いがした。