【リベットの実験】の真相。人間に自由意志は無いのか? 存在とは何か?
リベットの実験はよく人間に自由意志がない証拠として語られます。
僕は、自由意志は在るって立場です。
(正確にはニュアンス違うけど後述)
リベットの実験って何?な方もいるでしょうから
まずは簡単にその内容を紹介します。
人間が行動を起こす際に脳波と、意思決定の順番がどうなっているのかを調べたのがリベットの実験です。
この実験結果が、とっても不可思議なんですね。
まずリベットの実験で、どのように
「動かそうと思った瞬間」を計測してるのか?
慶応大・前野先生の動画の内容を僕なりにまとめますと、
という方法です。
これで分かるのは、
「指を動かそう!」と思った瞬間に赤玉(点)がどこに在ったか、ですね。それで脳波が生じた時間との差が分かります。
で、実験してみますと被験者は
「時計盤の8に赤玉が見えたとき「指を動かそう!」と思いました!」
と自己申告しました。
でも計測してみると脳波の発火は、8より前、たとえば2の位置とかだったりするんですね(申告の0.35秒前)。
つまり自己申告した瞬間=意思を自覚した瞬間よりも先に脳波が出てるじゃん、おかしくね?というわけです
そこで「人間は意思決定する前にすでに脳波が起きている。つまり人間に自由意志はないのでは?(自由意志があるように脳に錯覚させられているのでは?)」なんて恐ろしげなことが大真面目に議論されているのです。
しかし僕は自由意志がある派です。
そしてロボマインドの田方さんがおっしゃってるリベットの実験の解釈を僕もおおむね支持しています。
田方さん説を僕なりに簡単にまとめれば
という内容です。
こじつけに聞こえる人もいるかもしれませんが、
ただ、どうでしょう。
僕らに自由意志がない、という方が腑に落ちないですよね?
だって今、ほら、手を動かそうと思って動かしたじゃん。
誰かに思わされて無いじゃん。
確実に自分でそう思って、そう動かしたじゃん。
僕なりにも実験から分かることを解釈し直すと
「とっさに、くしゃみする」
「とっさに、キャッチする」
「とっさに、手が出る」
みたいなことって誰でもありますね。
これって自由意志というより反射に近いですね。
反射神経がいい、とかよくいいます。
転びそうになったとき
「あ、いま転びそう! よし、受け身を取るぞ。よいしょ」
という人はいません。
じゃ、誰が受け身を取ろうとしてくれてるかって、それは反射神経、無意識さんですよね、きっと。
で、何が言いたいかというと、
そもそも前提が間違ってるってことです。
僕ら自分は一人だと思ってます。
だって、ほら、ここに一人分の身体しか無いじゃん。
だから意識は一人だよね。
指を動かそうと思うのも一人の意思だよね。
と当たり前のように思ってます。
だから自由意志とは、一人で決定することだと思ってます。
この前提がそもそも間違っているのでしょう。
意識とは一人ではなく、これもまた「あなたと私」です。
そして「あなたなる無意識」と「私なる顕在意識」が統合されて「私」になっています。
こんな話、どっかで聞きませんか?
三位一体です。
父・精霊・子です。
負荷・対化・等化です。
裏・表・全体です。
裏だけのコインはありますか?
表だけのコインはありますか?
必ず裏と表があって全体になっていますよね?
僕らから見えるのは表だけです。
いつでも表だけしか見えません。
コインを裏返せば、今度はその裏返された面が見えない。
でも見えなくても、いつでも裏面は存在します。
むしろ表面が見えているなら必ず裏面も存在します。
僕らは、その表側しか意識できません。
なので自分は表しかないコインだと思いがちです。
見えないものは存在しないと決め込むのです。
あるいは考えても意味がないと。
でも本当は「見えない裏」が存在してます。
表は裏に、裏は表に支えられています。
裏と表があって自分という全体です。
考えても意味がない、どころか
考えなければ決して全体は見えてきません。
心を見ることは出来ますよね。
目では無理でも
感じることで。
心は必ずしも目に見えません。
笑っている人が楽しいと思っているとは限らない。
顔で笑って心で泣いて、ということもあります。
でも僕らは、その悲しみを感じることができますよね?
(たまに出来ない人もいたかもな〜w)
子供に怒ってばかりの親が心で泣いてる場合もあります。
どうして私に優しくしてくれなかったの、と自分の親への復讐心や抑圧された思いが他人や我が子への怒りや不寛容になっている場合もあるでしょう。
自分でも無意識のうちに。
本当は悲しんでいるもう一人の自分に気づけないのです。
コインには表しかないと思っているから。
それでどうしていいか分からず、なんとなく幼児を放置したり、理由もなくネグレクトに走ったりします。
(ここで「知ったふうなことを言うな!」と無意識さんからお叱りを受けました。謹んでお詫び申し上げます)
盲目の人は、見ることはできなくても
見ること以外で見ていますよね。
感じることは実在を認識することです。
では僕らは、見ること以外で見ているでしょうか?
目玉に頼りすぎて
感じることによる実在を軽視しがちではないでしょうか。
ただ感じられるだけで見えないもの、観測できないものは実在しないと思いがちではありませんか?
でも見えなくたってコインには裏側がありますよね?
だったら僕たちの意識も同じです。
顕在意識の裏側にいますよ。もう一人。
それがインナーチャイルドってやつでしょう(よく知らんで言ってるw)。
僕ら、そもそもひとりじゃないんです。
そしたら『自由意志』ってなんでしょう?
自由意志なんて最初から無いんじゃないですか。
(はい、ここで冒頭の発言と矛盾に聞こえるでしょう)
自由意志はある。
でも無い。いつでも誰かが僕に寄り添っているから。
僕ら誰でも、お神輿に担がれた王様みたいなものです。
きっとそれが意識の在り方です。
これ、はぐらかしてるわけじゃないですよ。
それが正しい意識像じゃないですか、という提起です。
天国と地獄があって世界です。
善と悪があって世界です。
見える肉体と見えない精神があって自分です。
見える表と見えない裏があって1枚のコインです。
道に1万円落ちてたら誰だってネコババしようかと思います。
でも交番に届けようかな、落とした人は困ってるだろうなとも思います。
善と悪は同時に存在し、互いを支え合っているのです。
それが自分というものです。
リベットの実験は自由意志がないことの証明にはなりません。
そもそも意識はひとりじゃなかったことの証明です。
僕らは自分とは自分だけだと思ってきましたが、
自分とは実は自分だけじゃないのです。
自己ならざる自己、自己内の他者的な働きがあってこそ初めて自分という全体が存在できるのです。
僕らはいつでも誰かと支え合っているから存在できていました。
NOTEの存在も
NOTE運営、書き手、読み手の共同作業。
ひとつの生命の存在も、
肉体、顕在意識、無意識の共同作業だったのです。
ひとつの存在を支える共同作業、
それを愛と呼んでもよいのではないですか?
であるとするならば、
「存在という見える表」を
裏側から支えているのは「愛」でした。
では存在とは何か?
存在とは「愛」が形質化した姿そのものだったのです。
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