おとうと
第10話
両親が行ってもいないハワイに行ったと
同級生の保護者に嘘を吐き
両親がホテルに行ったと姉である私に嘘を吐き。
幼稚園児の吐く嘘なんて本来はまだまだ可愛くて
内緒でおやつ食べちゃったとか
禁じられている水遊びをひとりでしてしまったとか
遠い場所にお友達と遠征したとか
そういう「おいた」が親にバレた時に
「しらないよ」「してないよ」
という程度だと認識していた。
かくいう私もかなりの嘘吐きで母を困らせてきた。
小学校の高学年になったあたりでなりを潜めたが
やっていない宿題を「やった」と嘘を吐き
サボったピアノレッスンに「行った」と嘘を吐き
無料配布される文学誌が読みたいのに
「郵便受けに触ってはいけない」
と母に厳命されていたので
黙って白樺などの雑誌だけを抜き
住んでいたマンションの上層階まで昇り
それを非常階段に腰掛け読み耽っていたら
その姿をバッチリ管理人に目撃され
「娘さん7階の非常階段にひとりいたけど叱ったの?」
と買い物帰りの母に告げられてバレ
「ポストに触るなって言っただろう!」
と、何かとバチボコにされたものだ。
嘘を吐くのも「怒られたくない」「殴られたくない」
という心理が働いてのことなのであって
何くれにつけ親を騙そうとしていたわけではない。
私が嘘を吐かなくなったのは
母が暴力で私を支配することを止めたのが
主な理由だったと思っている。
殴られる心配があまりなくなってきた。
高学年になり体力がついてきた。
母の身長に届くくらいには体も成長してきた。
どうも自分の子育ては方法を誤っていると
感じるようになった母が
子供に対する接し方を変え始めた。
酷く叱責されることが殆どなくなっていたのだ。
何かの拍子で情緒がかなり乱れることはまだあって
当時鼓笛隊に入隊していた私が所有していた太鼓用のスティックで
全身殴打されるなどあったけれど、頻度はかなり減っていた。
中学生になってからは、かなり正直に自分の気持ちを発憤させる私を
母は持て余しながらも、幼い頃とは別人のように
穏やかに接するようになっていた。
だからというわけではないと思うが
幼稚園の保護者会で嫌な気持ちを味わった母のことを
とても気の毒に感じたことを覚えている。
弟を厳しく叱りつけたのはそれが理由だ。
しかし当の本人は私の言うことなんてどこ吹く風、
ゲームにお友達とのお遊びに興じる日々。
幼稚園児なのでそれはいい。
けれど、子供なのに大人でもおいそれと考えつかないような
突飛な嘘を口にすることに、いくらか違和感を覚えたのも事実だった。
優しいところも多くあった。
学校用の歯磨き粉をきらしたので買ってほしいという
私と母の会話を聞いて、
自分のお小遣いで歯磨き粉を買ってきてくれたことがある。
右手に歯磨き粉が入ったビニール袋、
左手にお釣りであろう小銭が入ったビニール袋を持って。
無言で歯磨き粉を手渡す弟に
「買ってくれたの?」
と尋ねると、うんと頷く。
こういうことをされるともうメチャクチャ可愛くて堪らなくて、
抱きしめてお礼を言って頬っぺたすりすりして
弟はつられて笑って、といった具合だった。
母にも嘘ばかり吐いているのではなく
家事のお手伝いをしてあげたり、頼まれないのに肩を揉んであげたり。
私には備わっていない感性が弟にはあって
私は「まだ小さいのに」と驚くことが度々あった。
だから大いなるプラスと、それと真反対のマイナスを家族が理解して
プラスを活かしマイナスを消去するよう促せば
とても立派な大人になるのでは、と私はひそかに期待していた。
可愛い弟の順調な成長。ただ、ごく自然に望んでいたものを
これ以上ないほど木っ端微塵に打ち砕く存在が我が家にはいた。
父だ。