見出し画像

おとうと

第6話

おかしなことを言うと思った。
どうしてそんなことを聞くのだろうと考えた。
だけど深く思考を巡らせることはしなかった。
母は
「お姉ちゃんがお母さんのお腹の中に忘れていったのよ」
と軽く答えた。そして学校から帰ってきた私に母はいつもの
世間話をする口調で私にその出来事を話してくれた。
「どうしておちんちんがあるのって、あなたは男の子だからよ」
私がさらに付け加える。弟は不思議そうに
「男の子だからおちんちん付くの?」
と邪気のない表情に怪訝さを覗かせ、私に尋ねる。
「そうよ」
と私も軽く答えた。変なことを聞くなぁとは思った。
だが深く考えることはしなかった。
ただこれ以降、弟から私はどうも激しく恨まれていると
感じるようになる。
「僕におちんちんがあるのはお姉ちゃんのせいだ」
そう口にし、私を大変強い眼差しで睨みつける。
普段は可愛い3歳の男の子が姉を下から上、上から下、と。
ギロリとした視線に肝を冷やすほどだった。
こんな顔つきするんだ、3歳なのに、と聊かの恐怖心を抱くほどに。
「どうしてお母さんのお腹におちんちん忘れていったの?」
と素直な疑問を投げかけられるようにもなる。
やはり「変なこと聞くなぁ」と首を傾げてしまう。
「お姉ちゃんはせっかちだから、お母さんが陣痛が始まって
『お腹痛い、さっさと出てきて!』って言われて慌てて
出て行ったのよ、おちんちん忘れて。あなたはのんびりした子だから
お姉ちゃんが忘れていったおちんちんを拾って『これなぁに?』って
考えてしまったのね。それであなたにおちんちんが付いたのよ」

私は私生児として生まれた。母を孕ませた父は逃げ、母は無理解な
祖母に頼るほかなく病院からもかなり虐げられ出産に臨んだ。
昭和だから、では済まないと思う。
自宅で破水した母は下半身をバスタオルでぐるぐる巻きにして
タクシーで病院まで移動した。
病院の対応は苛烈という言葉が実に相応しいそれで
破水しているにも拘らず医師は「まだ産まれそうにない」と
母を分娩室の隅に置いたベッドに寝かせ、カーテン1枚でベッドを仕切り
唸ろうが苦しもうがそんなのお構いなしに放置させられた。
たまに様子を見に来る看護師(当時は看護婦)も、カーテンを乱暴に開け
母をちらと見やりすぐにカーテンを閉めてしまう。
「具合はどうですか?」「食事は摂れましたか?」
そんなこと一切聞かれることもなく、1週間その状態で放られたそうだ。
医師も看護師も、母も胎児も死んでいいと考えていたのだろうと
母の後述を聞いて、「なんでそんなことを」と思ってしまう。
ただ今ほど妊婦や胎児が守られるような時代でなかったことは確か。
まして不倫相手の子を孕んだ女性など「アバズレ」のレッテルをまず貼られ
それから様々な対応をされたであろうから
母の辛苦は恐らく私の予想を超えている。
放られているのにまだ生きている母と胎児に、漸く医師が向き合う。
「自然分娩は無理なようだから帝王切開で」
その程度の判断を1週間もかけなければならなかったのか。
そんなはずはないのだ。どっちも死ねばいいくらいに考えていたのだろうと
私は今でもそう考えている。
母は帝王切開で私を産んだ。
切られたお腹はザクザクに縫われ、以降長い間体調不良に悩まされる。
産まれた私は大変な虚弱児で母乳も吸えないほどに衰弱していた。
母の療育の甲斐あって、小学校入学する頃には
とても元気な子に育っていたが。
それまで母はいつ死ぬか分からない娘を抱え、飲めない酒に溺れ
「この子が死んだら私も死ぬ」と思い詰めるほどに精神を病んでいた。
その9年後弟を同じく帝王切開で出産する際には
私を出産する時とは正反対に
病院でもかなり大切に扱われ、出産して間もない母が
お手洗いに行こうと廊下の手すりを頼りに歩いていると看護師に
「何やってるんですかっ!!」
と一喝され病室に連れ戻され、お手洗いに行きたかったと伝えると
「そんな時のために私たちがいるんですからっ!何かあったら
ナースコールしてください!いいですねっ?」
と念を押され、様々な感情が溢れ落涙したそうだ。
ザクザクに縫われたお腹も麻酔が切れるギリギリまで
医師が丁寧に縫合してくれ、醜かった傷跡は直線になった。
産婦人科って本来あああるべきだと思うのよ、と母は言う。
そりゃそうだろうと私は思う。
だからせっかちな私が母の陣痛が始まったから慌てて母のお腹から
出てきた、などという事実はない。けれど弟を納得させるために
そんな風に話をする他なかった。そうでも言わなければ
絶対に納得などしないと肌で感じたから。
「どうして忘れていったの?」
という邪気のない問いに幾度か同じ返答をして
弟は漸く納得した様子を見せるようになった。ただ
「僕におちんちんが付いているのはお姉ちゃんのせい」
「お姉ちゃんがお母さんのお腹の中に忘れていったから」
という理解は、彼が成長し妊娠と出産の仕組みを知るまで
胸の中でずっと燻ぶっていたのだろうと後考する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?