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そもそも松竹芸能ってなんだ?

まあ1930年代に入ると、エンタツ・アチャコの成功もあって、関西での吉本興業の地位は盤石になります。ただ、そんなに漫才が儲かるならやってみようか、と新規参入してくる企業があるわけですね。それが松竹です。
 
ここからは、さまざまな書物を読んだ私の記憶だけでバーッと書きます。1920年代から松竹は吉本興業の漫才の成功に目をつけて、人気芸人を引き抜こうとしてきた。そして、松竹系の「新興演芸部」というのができた。これが吉本興業から人気芸人を引き抜き、ライバルとなった。
 
もともと吉本興業は、人気芸人が登場する映画を作ることになり、コンビ別れしたあとのエンタツ・アチャコらがスクリーンに登場した。提携した映画会社はPCLで、のちに東宝になる会社です。
 
松竹もその人気に与ろうと、松竹の下部の映画会社として「新興キネマ」ができ、その演芸部門として新興演芸部ができた。戦前の1930~1940年代のことです。金に物を言わせて、吉本興業からミスワカナ・玉松一郎ら、人気芸人を引き抜くという事件が起こったわけです。
 
敗戦後は、新興演芸部は消滅し、吉本興業自体も、寄席のほとんどが焼けてしまい、漫才の興行が不可能になった。それで多数の芸人を抱えていた吉本興業は、花菱アチャコ以外の専属契約を借金棒引きにして解除した。これで吉本興業は、1959年のうめだ花月のオープンまで演芸の興行ができなくなって、映画会社として存続した。
 
一方、戦後の松竹は、系列の千土地興行が大阪に「戎橋松竹」という劇場を運営していて、ここを拠点に落語を中心とした興行を1947年頃からスタート。そこの支配人だった勝忠男が独立して、「新生プロダクション」というプロダクションを作る。
 
あとは、上方漫才界の大物だった漫才作家の秋田實の一派が、「宝塚新芸座」を脱退した後に「上方演芸」というプロダクションを設立。これが「新生プロダクション」と合併し、松竹からの資本提供を受けて、「松竹芸能」ができるわけです。公式サイトでは、1956年創業としています。
 
それで、1959年に吉本興業はうめだ花月を作って、演芸界に復帰するわけですが、当然、所属芸人がいない。そこで今度は吉本興業が松竹芸能から芸人を引き抜いて、両社は険悪な関係になった。それで、かつては両社の芸人が交わることは少なかったのです。
 
長々と書きましたが、こうしてみると、戦前は吉本興業が漫才界を牽引し、戦後は松竹芸能が牽引していた、という事実があります。ですので、ダウンタウンが松竹芸能の漫才師に親しんでいたとしても、なんら不思議ではない。
 
別の言い方をすれば、吉本興業が漫才界の主流になったのは比較的最近のことなんです。とくに、1980年のマンザイブーム以降だといえるでしょう。ダウンタウンは1982年にデビューするわけですから、マンザイブームに影響を受けたかどうかというと、それほどでもないのかな、という印象です。もちろん、子どもの頃に観ていたはずがないですね。
 
あともう一点、上述した秋田實について、次回に書きたいと思います。マンザイブーム以前の上方漫才の中心的な人物でした。次回でひとまず松竹芸能の話はおしまい。それ以降はダウンタウンの漫才やコント、映画などを分析していきたいと思います。
 
では、また次回。(梅)

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