梅千代写真生活物語
きっかけは質屋のおじさん@1993年
旅や散策が好きで・・・ 子供の頃はちっちゃな探検を良くしてたっけ
高校生の時は、たまに学校サボって中華街にふらっと行く事もあり^^; (不良だったワケではない!)
今みたいに綺麗なお店はほとんどなく、ちょっと怪しい雰囲気の映画のワンシーンに出てくる様な、変わったお店を探すのが 面白くて好きだった。
夏休みの自由研究では、横浜の街を撮影してガイドブックを作成した事もあったが、カメラは何を使ったのか記憶にない。
高校を卒業してからは毎年友人と温泉旅行が定番になっていて
海外もいったけど(珍道中) 写真を撮るのは、 記念写真もしくはふざけた面白写真ばかり。
当時の私の仕事はデパートで洋服の売り子。友人たちとは旅行は平日に行っていた。
でもやがて皆、専門学校卒業して就職、短大卒業して就職
だんだん休みが合わなくなり、写ルンですとかコンパクトカメラを持って一人旅が増えはじめ…
そして、 気が付けば自分が映っていない面白みのない風景写真が増えて行った。
ある日のこと…
近所の「質屋さん」の前を通りかかると ショーケースの中のカッコイイカメラが目に止まった。
それは、ミノルタの一眼レフカメラ。レンズ付きで売られてた。
今だとリサイクルショップと言うのかもしれないが、当時1990年代は、質屋だった。
「こんなカメラで撮ってみたいなぁ…」
そんな軽~いキモチで眺めてたのだけど
よほど物欲しそうに見えたのか奥から質屋のオッチャンが出てきて
そして 、
「これはお買い得だよ~」 にっこり笑ってオッチャンはそう言った。
さらに「遠~くまで写せるよ〜これで3万円は安いよ!」と、、、
へぇ~お買い得なのか、、、。
後先考えない性格だった私は、こんなカメラで撮ったらイイ写真が撮れるかもと即決。
で、3万円支払って はい、お買い上げ!
さっそくそのカメラを持って千葉の南房総へ。。。
青い海 道を横切る猫 赤い花 ふたつ並んだサボテン
可愛い!キレイ! 目に付くものは、はじからシャッターを切った!
が・・・ シャッターが切れず、なんで?と悩んだこと数十回
ジージー言ってピントが合わなかったり…。
なんせ「質屋」で買ったもんだから
取説は付いてないし、オッチャンも使い方良く分かってなくて
「ここがスイッチであとは勝手にピント合わせてくれるから」くらいの事は言われたかな?と言う記憶のみ。
ダイヤルをいじってみたり、MとかAとか書いてあるボタンを 動かしてみたり。。。
何とかシャッターは切れてフイルム1本は撮りきった。
そして、出来上がった写真をみて、、、ガックリ 愕然。
青い海は悲しげな灰色の海 赤い花はオドロオドロしい黒(後にアンダーと言う用語を知る)
トゲトゲなサボテンはピンボケでボワンボワン。
そして一番の感想は
「それにしても、一眼レフって、めちゃくちゃ重いなぁ。」 だった。
それもそのはずミノルタαに付いていたのは
タムロンの85~300mmの超望遠レンズなのであった。(重いわけだ)今思うとアホですな(笑) 超望遠で目の前のサボテンにピントが合うわけもなく、、、
確かにメッチャ遠くまでは撮影できたけど(笑)
そんな大失敗をして
どうしたら綺麗に撮れるのかな?次はちゃんと撮りたい!と言う気持ちが湧き上がり、、、。
情報収集のため本屋さんへGO (当時は携帯もパソコンも存在はしていたと思うが高級品。ポケベル全盛期)
カメラ入門書などもあったが、「月刊カメラマン」が 私の教科書となった 。
そして「中古カメラ屋」の存在を知り、ミノルタは質屋ではなく中古カメラ屋さんに売りに行き…
そして、そこで
新古品のキャノンEOS 55と運命のめぐり逢い。今でも手元に置いている。
月刊カメラマンを読み込んで、EOS 55でいろんな試し撮り。
オーバー、アンダー、絞り優先、いろいろ分かってくると色々撮りたくなってくる。
そして、当時通っていたスポーツクラブのインストラクターが出演していたイベントの
ステージ写真撮影が、格好の私の修行の場になった。
その頃、EOS 55で撮っていた写真・・
10年以上前にスキャナーで取り込んだ写真なので画像は粗いですが、、、。
リバーサルフィルム、高感度フイルム、増感なんかも覚えて
現像に出す時「ゾウカンしてます」というのが なんかカッコイイィと感じたり。。。
フォーカスロックとか撮影テクニックもかなりここで覚えた。失敗もたくさんした。
イベントは週末 時間は遅い 仕事は週末が忙しい 接客は笑顔が大事 休憩時間は爆睡。
徹夜でも、撮ることがホント楽しかったのと若さゆえできたこと。
そして、ダンサーの宣材写真やフライヤー用の写真撮影も頼まれる様になり
わずかではあるが、撮影費をいただく様になって来た。
こうして写真生活にどっぷりハマリ始めたある日のこと
一本の電話がかかって来た。
「月刊カメラマンですが…」
え? なに?なにぃ・・・
「月刊カメラマンですが… フォトウォークに参加しませんか?」
「今回は、内田ユキオさんの【モノクロスナップ講座】です。また平日なのですが…」
「また」と言うのは実は、月刊カメラマンの読者参加企画フォトウォークのお誘いはこれで2回目
1回目は、休みが取れず断念(残念)(その回は魚住さん講座だった)
「もちろん、今度こそ 参加します!!!」
モノクロフイルムか… 使ったこと無いナァ
モノクロスナップか… 撮ったこと無いナァ
ズームレンズしか持ってないし…
そしてヨドバシヘGO! 思い立ったらすぐ動いてしまう性格なので、、、。
まずは、スナップ撮るなら単焦点ってことで店員さんに声をかけ50mm 1.8fレンズを勧められ即決。
そして… さらに店員さんに
「モノクロ撮るなら【黄色いフィルター】が必要ですよ」と勧められ
へぇ、そうなんだぁ。じゃあ、お願いします。と黄色いフィルターもゲット!
そして待ちに待った当日
その日は朝からドシャドシャ降りだった・・・ 。
だけど、雨天決行ということで集合場所の月刊カメラマン編集部へ 。
そこは・・・
いわゆる男の職場という感じの雰囲気、初めて見る光景。
きっと働いていらっしゃる方々は、どこに何があるのか 把握しているのだろうなぁという感じの…
(いや、随分前の話なので…記憶の糸を辿りながら書いている事だし、これ以上はさし控えよう^^^)
私が一番乗り。そして、内田さん登場。もう一人の参加者が到着してしばし歓談。している間に、うそのように晴れてきた。
いざ出発 !
まず最初のスポットは・・・
表参道の同潤会アパートへ (今はもうありませんね)
そこで、内田さんのレクチャーがあり。。。 私のカメラをじっと見つめ
「その黄色いフィルターは?・・・」 のご指摘
店員さんにコントラストが良くなると言われまして…買いました。
「う~む。。。そうなの、、、でもね。」
そして・・・引き伸ばし機 印画紙 フィルター 軟調硬調 etc.
内田さんから発せられる初めて耳にする言葉。。。
そして、この黄色いフィルターが意味なしだという事が良くわかったのだった。
コントラストなど焼く段階でいくらでも変えられると。
そしてモノクロの奥深さ、楽しさ、とんでもない魅力を知ってしまったのだ。
内田さんのオムライス好きも知りました。。。(一番熱く語ってた)
その時撮った、初モノクロスナップ(黄色フィルター付き)
そして今度は自分で焼いてみたいとう気持ちが湧き上がり 、、、。
結果・・・数日後、お風呂場が暗室になる。
暗室の作り方と言う本を買って作ったが、かなり自己流なものだった、、。
ちなみに黄色いフィルターはすぐにUVフィルターに付け替えた(笑)
こうして私の写真生活は、モノクロ中心となって行き・・・
休みの日は、モノクロスナップを撮りまくり風呂ラボで焼く日々。
そして・・・ある日・・・職場で・・・転機が訪れた。
【今期で このショップ クローズします】 本社からの通達 。
デパートでは良くあることだ。
私はアパレルメーカーの社員。メーカーは場所をお借りしているだけなので…出て行くほかありません。
私は都内のショップに異動することになったのだが 、、、。
仕事辞めちゃいました。
わずかだけど退職金もいただけたし、失業保険もすぐにもらえたので数ヶ月はしのげるかなと・・・
(ここでもあと先考えない性格が。。。)
そして、前々から思っていた、写真の仕事をしてみたい!と言う気持ちがますます湧き上がり、、、。
で、本屋へ(この頃もまだまだ情報収集は本屋)ケイコとマナブだったかな(記憶曖昧)何かの情報誌でブライダルカメラマン講座全4回と言う記事を見つけたので行ってみた 。
そこは、ブライダル企画事務所で司会者派遣がメインの会社だったのだが
カメラマンも増やそうという目論見がありカメラマン講座を初開設したようだ。
専属のカメラマンがレクチャーしてくれて
ブライダルの撮影現場にも同行させてもらったが
結局そこで採用ということは無かった・・・
<余談> 数年後、社長がマネーの虎に出てきて驚いた(新しい企画を始めたく資金融資してもらうためだった)
仕事に繋げるためにはもうちょっと勉強しなければ、、、と思い
カメラ雑誌の広告を見て、都内の写真学校の社会人コースに行ってみた。(スタジオライティングコースというもの)
夜間の中級コースということもあって、受講者は年齢も職業もさまざま。
と言うか、ほとんどおじさまばかりで女性は3人くらいだった。おりがみ専門誌の編集長もいたっけ。
でも、楽しかったなぁ 。
しかし、授業より終わった後の飲み会のほうがメインだったと記憶に濃い。(毎回開催)
この学校の広告で日本カメラに載った事も、これも良き思い出(笑)受講中に写真を撮られた(笑)
あっという間の三ヶ月間
この期間に、EOS 1N マクロレンズ 70~200mm2.8f といった機材が増えていった。
そして受講期も終わり近づいてきたある日
受講者の一人のおじさまに一枚の名刺をもらった・・・
「カメラマンの仕事がしたかったら ここに行ってみたら?」
授業中や終わった後の飲み会で、カメラマンの仕事がしたいと言いまくっていたのがチャンスをくれた。
そこは、女性カメラマンしか採用してないというブライダルフォトの事務所だった。
おじさまは、この会社の女性社長と知り合いらしい。
早速電話、すぐにアポをとりポートフォリオ的なものをもって面接 へ
メゾネットタイプのおしゃれな事務所で、カッコイイ女性社長に
「・・・とりあえずうちのキャメラマンと同行して、2~3回撮ってみて。それから決めます。」
と、言われて
そして翌週・・・ 研修撮影するホテルへ。
お支度から撮るので花嫁さんよりも早く式場へ現場入り
先輩カラマンと合流してごあいさつ 。
お支度からお式まではモノクロフイルム、披露宴からカラー撮影 。
先輩の後からカシャカシャッ と邪魔にならない様に撮影。
なるほどこういう流れで撮るのか、合間や終わった後に先輩カメラマンに色々教えてもらった。
後日、プリントした写真を持って事務所へ
「・・・・もう少し、ドラマティックなシーンが欲しいよね・・・。」
と、厳しめのダメ出し。
だ・だめなのか・・・
「ま。この程度撮れればいいでしょう。来週、早速本番撮ってください。」
えっ? 2~3回練習すんじゃないのっ?
よほど人手が足りなかったのか?
自宅に帰ると
ジジジジジ… すぐにFAXが届いた・・・ 。
FAXには式場の場所やスケジュールなど。
当日迷わないように、事前に下見に向かう。 場所は、町田だったかな?
電車の乗り換えはスケジュール手帳の付録で調べて
場所は事務所から送られてくる手書きの地図を頼りに行っていた。
式場に着いたら写真室にごあいさつして、チャペル、美容室、披露宴会場など見せていただく 。
脳内シミュレーションは入念に。
そして本番当日、EOS 1Nも55も活躍してくれた。
「ストロボはバウンスで」が事務所からの指示
でも顔は明るく撮りたいので白い下敷きをストロボに貼り付けて撮ってた。
撮影は無事終了。でもこれで終わりじゃない。
現像があがったらモノクロのネガをベタ焼きして1コマ1コマちょきちょき
カラーもインデックスプリントをちょきちょき
で、それをノートに貼りながらアルバム編集していく。アナログな地道な手作業だった。
今ならパソコンに取り込んでカチャカチャッとできちゃうが・・・
で、それを事務所に持っていくのだが・・・ ダメだしされ。
で、編集し直してやっとOKもらってもまだ終わりじゃない。
モノクロは、大きさ→ 六つ切り・大カビ・カビネ・手札サイズ 4種類
50カット前後を 自分で暗室でプリントする。
しかもネガキャリアをガリガリガリっと削ってギザギザした黒ふちつけて焼くのがルールだった。トリミングは出来ない。
失敗を繰り返しながらも、どうにかこうにか焼きあがり 。
でも、まだまだ終わりじゃぁない。
次は、数枚をセピアに調色。モノクロで焼いた印画紙を調色剤に漬け込んでセピアに仕上げるのだが
これが・・・また・・・くさいっ!
薬品の強烈なアンモニアの臭いが、、、。 特に夏場はキツかった。
お風呂暗室は、サウナの様な暗室だったから
Tシャツに短パン、首にはタオルを引っ掛けて、 汗をふきふき夜な夜な焼いていた。
そして、
カラーは近所のラボでプリントしてもらい、それらを事務所に持ってく。
「コントラストが・・・全体的にネムイ感じ・・・焼きこみも足りないし ・・・焼きなおして。」
・・・はい・・・と言うしかありません。
・・・凹んでる時間はない、締め切り間近だし
コーヒー飲みながらパンを流し込み、オッサン装備で焼き直し 。
大変な作業だったけど編集も焼くのも好きだった。
回数こなしていくうちに焼き直しはなくなった。
撮影のダメ出しも少なくなり(無くなりはしなっかた) 仕事の本数も増え
プリントできないカメラマンの 写真も焼いたりして、、、。
一ヶ月に6本以上こなすと後の作業は過酷だったが
幸せな瞬間や人が輝いてる瞬間を撮れるブライダルカメラマンの仕事は、最高に楽しかった !(もちろん今も)
でも写真のお仕事は、これだけではなく。少し時間を巻き戻して・・・
ブライダルの面接に行くのと同時期・・・
フリーペーパーの求人広告である募集記事を見つけた 。(しつこいようだが情報取集は紙媒体の時代)
「ライター求む」
ヨコハマウォーカーなどの下請けをしている代理店のようだ 。
カメラマン募集とは書いてなかったけど、ダメもとで電話。
案の定
「カメラマンは募集してないんだけど・・・」 と言われ
やっぱり・・・ だめか・・・と思いきや
「でも写真見るだけでよかったら・・・ 来てみます? 採用はないけど?」
募集もしてないので採用もないけど、作品を持って行けば見てくれる・・・
人に見ていただくのも良いことだと思い、行ってみる事ににした 。
会社は、伊勢佐木長者町の外れの方、川沿いの雑居ビルの2階にあった。
持込ってやつ? 今までやった事がなく若干の尻込み。
採用は始めから約束されていないし・・・見てもらうだけだけど・・・
入り口でしばしウロウロ。
アポイントもとっているし、何事も経験だ。
どう言われようとも勉強勉強、と言い聞かせ。
事務所のインターフォンをピンポン !
出てきたのは私より少し若い女性だった。少し安堵。ほっ 。
中に通されると私より少し年上の男性が。優しそうな雰囲気に、ほっ 。
その編集者に、さっそく作品ファイルを見ていただく。
ダンサーのポートレイトやステージ写真、モノクロスナップ 。
「あんまりピンとくるものは無いね・・・ うちの仕事はレストランの内装とか食品撮りとかだから 。撮影はライターが兼任してたりもするしね。」
ですよね〜。まぁ元々カメラマンの募集はしていない事は承知で、、、。
で、これで話は終了・・・ と思いきや 、、、。
編集者は写真好きの人だったらしく
「どんな写真家が好きなの?森山大道は?そう好きなの・・・」
そこからしばし写真の話で盛り上がり、時間が過ぎ。。。
「じゃあ、横浜の写真家【森日出夫】は知ってる?森さんは横浜のトップクラスの写真家だよ 【浜のメリーさん】は知ってる?」
メリーさんは、もちろん知ってます。伊勢佐木町や高島屋でよく見かけました。
「彼女の写真を撮って、写真集だしてますよ。 横浜でスタジオやってるから、、、」
から・・・?
「紹介してあげるよ。一度訪ねてみるといい。いい勉強になると思うよ。」
数日後、編集者の方から電話があり「連絡しておいたから」とスタジオの番号を教えていただいた。
でもすぐにかける勇気がなく、先ずはスタジオの前まで行ってみた 。
黒い扉のかっこいい外観。存在感がハンパない。
こ・ここかぁ。。。
だいぶビビったけど、数日後、勇気を出して電話をした。
そして、事務の女性が、快くアポを取ってくれた 。
約束の日
スタジオに行くと、その日は入り口の黒い重厚な扉が大きく開かれていた 。
何台ものカメラがセッティングされ、大量の雑貨が並べられていて
スタッフも大勢いて賑やかしい。
商品撮り、ブツ撮りってやつか・・・の撮影をしていた。
皆、忙しそうに動き回っていたが、おそるおそる尋ねる。
「あの、森さんと、お約束させていただいております・・・
・・・2階に いらっしゃるのですか・・・」
黒い階段を上にあがると、1階の熱気とは違って、シンとしていた・・・。
2階はやはり黒いオフィス 。クールで渋い雰囲気。
後から教えてもらったのだが、あの横浜舞台の刑事ドラマのロケに使われていたのだと。
そのドラマのポスターも森さんが撮影していたのだと。
で、いらっしゃいました・・・。
奥のデスクに髭をたくわえた男性がひとり・・・
あの人が森さんかな?
やさしそうな目をしてるし、怖そうな感じは無い。 ほっ 。
失礼します。。。梅千代と申します・・・。
「え?誰?」
LHのSさんに紹介していただいたのですが
「あぁ、そういえば・・・今日だったっけ?」
お忙しい方だろうし、サクッと見ていただいてサクッと終わるかな。
遠慮がちに写真を差し出す。
「学校はいったの?」
いえ・・独学でして。。。はい。。。
褒められることは、もちろん無く…
ステージ写真は、森さん的には、記録写真であり作品ではないという 。
なぜなら舞台そのものが作品だから・・・模写という表現はしなかったけど、そういう事かなと解釈した 。
「もちろんこれは僕の考えであってそういう作品を撮ってる人もいるけどね… 」
とも言っていた 。一つのものを撮り続けていれば、それも作品になると・・・ 。
そして一冊の写真集「ヨコハマのメリーさん」を見せていただく 。
衝撃を受けた。
切なさと…そして愛を感じる…
メリーさんの人生とそれを取り巻く人々や、横浜の歴史も見えて
感動をしていると
さらに衝撃的なお言葉・・・
「写真の仕事したいなら、うちで時々働く?」
私の写真に、心に残る写真はなかったが、写真を撮ることが好きだというのは伝わったようだった。
「写真の仕事したいならうちで時々働く? 人手が足りない時に、臨時のスタッフとして…」
人手が足りない・・・つまり大きな仕事なわけで・・・だけど
8×10(エイトバイテン)なんて触ったことないし
ブローニーフイルムだって入れたことないし
でっかいストロボのセッティングも知らない
ハレ切り、やったことない
レフ版、持ったことない
ハッセルだって使ったことない。
少々不安はあったが
森さんのスタジオスタッフは、写真学校に行ってない人ばかりで皆、現場ですべて学んでいくんだと…
どこかで始めなければいつまでたっても未経験の初心者だ。
ということで 、臨時のカメアシアルバイトをすることになった。
お声は、すぐにかかった・・・
某一流ホテルの広い何たらの間にて・・・
真ん中には「8×10」両サイドに4×10とカメラハッセル
スタッフは
料理長率いる職人が複数人
フードコーディネーターのグループが複数人
ホテルの偉い人率いるホテル従業員数人
広告代理店のスタッフ数人
スタジオメンバーは9人くらいだったかな
総勢40人以上の人が出たり入ったり
私は、邪魔にならないようにするのでいっぱいいっぱい。
私の仕事はアシスタントのアシスタント。
チェック用のポラロイド写真を手であたためたり(はやく現像できるようにする為)
ハレ切りしたり(レンズにかぶってしまってよく怒られた)
はぁ~、プロの現場ってこんなに凄いんだと、ただただ驚くばかり・・・ 。
その後もいろいろな撮影現場で、何の役にも立たない私をよくぞ何度も使っていただき感謝しかないです。
良くやったのは、ライティングの確認などで行うテスト撮影のポラ切りでの代役
そして・・・さらに記憶に濃いのは・・・ ここでも
終わった後の、ラーメンとかビールとか 、野毛のJAZZ BARだった。
超穴場のBARジャックナイフは渋かった。
自分では行かない、行かれないような店でいろんな方のいろんな話を聞くのは
楽しく、そして社会勉強になった。
おかまBARも。。。一度連れて行ってもらったっけ。
グランドピアノがあって
カラオケではなくピアニストの伴奏で歌うようになっていて
1曲歌わされたな、、、(汗)
最後のほうは飲みだけ参加したことも・・・ その回数の方が多かったりして(笑)
おかげでかなり弱いのに、酒豪と思われてしまった。
時は流れ、、、デジタルの時代になって変化した事も多いけど…
湯気は、当時はタバコの煙をストローで吹いて表現、今はフォトショで合成とか…。
この時期学んで覚えたことは、ずっと役に立っている。
この後、フリーカメラマンとして仕事を始めたが、写真だけでは生活はできず
アルバイトをしていた時期もある。
ここに書いたのは序章、カメラマンになるきっかけ。
この後もいろんな出会いがあって、紆余曲折もあって、デジタルの時代になって
仕事の幅が広がりweb制作会社の専属カメラマンになったり写真教室の講師を始めたり
ブライダルの事務所も新しく所属したり
いろんな方々の助けと協力とで独立してシルバーソルトスタジオ開業までにたどり着くことができました。
素晴らしい出会いと経験を忘れず、感謝
これからも想いにフォーカスしてシャッターを切り続けます。
梅千代写真生活物語 完、そして続く
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