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「青春デンデケデケデケ」自分にとって大切なものとは

青春デンデケデケデケはその名の通り「青春」映画であり、「自分にとって大切なものを探す過程」のを描いた作品だ。

まずはこの映画のあらすじを紹介する。

あらすじ

物語は1960年代、香川の海辺の町・観音寺を舞台として、主人公・藤原竹良(たけよし)を中心とした5人の仲間が、ロックに打ち込んだ高校3年間を描いたものだ。

藤原家は工業高校の生物教師である父と、元家庭科教師でいまは家で茶華道を教える母と3人暮らしだ。

あるときラジオから流れてきたアメリカのロックバンド・ベンチャーズの音楽に衝撃を受け、ロックに目覚めた竹良は、高校入学と同時にさっそくバンド仲間集めを開始する。音楽的才能はあるが軽音楽部でくすぶっていた白井清一、仲良しの寺の跡取り息子・合田富士夫、練り物屋の息子・岡下巧らによってロックバンド「ロッキング・ホースメン」が結成された。さらに音楽好きでエンジニア志望の谷口静夫が技術顧問として加わる。

楽器を買うために夏休み中アルバイトをしたり、練習場所を追い出されて町中を転々としたり、いろいろな困難を乗りこえながらも5人は成長していく。やがて地元の喫茶店でデビュー演奏を果たし、学校には部室もできた。はじめは奇異の目で見られることもあった「ロッキング・ホースメン」だが、学校内でも徐々にファンが増えていく。途中、モテない岡下の恋愛をみんなで応援したり、主人公・竹良も一日限りの甘酸っぱいデートを経験したり・・・。

そんな楽しい高校生活もやがて終わりを迎える。前夜から泊まり込みで準備をした高校最後の文化祭。客席にはメンバーの家族はじめ、町中の人が応援に駆け付け、リーダーとして最後の挨拶をする竹良は言葉を詰まらせながら最後の曲のタイトルをコールする。そして大歓声の内にロッキング・ホースメンは最後の演奏を終えた・・・。
卒業後の進路を東京の大学へ定め、一人だけ地元を出ることになる竹良。入試を明日に控えた日の早朝、亡くなった恩師・寺内先生からもらった楽譜を眺めているうちに、いてもたってもいられなくなった竹良は青春の残り香を求めて、家を出て思い出の場所をめぐる。夕方、家に戻るとバンドメンバーが竹良の帰るのを待っていた。驚く竹良にメンバーは「終身バンド・リーダー」の称号を贈ったのだった。

大人になった竹良が、価値あるものを探す過程

この映画は一言でいえば「青春映画」。舞台であるノスタルジックな観音寺の街並みと相まって誰もが、胸に秘める青春の輝きを思い出さずにはいられないだろう。

青春のすばらしさについては映画を見れば多くを語るまでもないと思うので、私は「自分の過去から自分にとって価値あるものを探す過程」としてこの映画を見ていきたい。そしてその大切なものたとは「小さな世界の絆」だったと私は考える。

この映画の特徴の一つは、物語が現在進行形ではなく、大人(40歳前後であろう)になった竹良の回想の中で語られているという点だ。

1965~68年に高校時代の青春を過ごした竹良。この回想をしている1980年後半はバブル景気がはじまったころである。年齢的には仕事も脂がのってきて、家族ができたりしてもいてもおかしくない頃だ。社会や自分の置かれた環境が変化してく中で、竹良が青春時代を回想したのはなぜだったのだろうか。それは、自分にとって本当に大切なものを確認する作業だったのではないかと思う。

私は今年36歳。高校生・竹良よりは大人になった竹良にシンパシーを感じる年齢になった。一度、高校生・竹良ではなく、大人・竹良になったつもりでこの映画を見てみよう。

高校生がリアルタイムで感じるものと、大人になってから振り返るのでは、同じ経験も違った意味を持つはずだ。そうすると、おのずと大人だから語られるものと、大人だから語られないものがあるのではないか。それを見れば竹良にとっての「自分にとって大切なもの」が見えてくるのではないかと思う。

「小さな世界の絆」が宝物

青春デンデケデケデケは、竹良が「観音寺」、「高校」、「家族」、「バンドメンバー」などという「小さな世界」で青春を過ごし、やがて東京という「大きな世界」へ旅だって行く話でもある。

その映画全体の下敷きになっているテーマは、それら「小さな世界の絆」であり、それが竹良が回想によって確認したかった、自分にとって大切なものであると私は考えた。

印象に残ったいくつかのシーンを取り上げてみたい。

町の人々

映画に登場する町の人々はみな好意的に描かれていて、最後には多くの人が卒業演奏に駆けつけてくれる。

この映画で主人公たちは「ロック」というまだ一部の若者しか知らない新しい音楽に打ち込む。街ではしょっちゅう民謡や歌謡リサイタルの宣伝カーが走りまわっている時代だ。メンバーは農家の納屋、境内の石段、墓場など町中でゲリラ的に練習を行っている。毎回場所が違うのは、うるさくて場所を追われたのだろうということが容易に想像がつくのだが、町で説教されたとか、いさかいになるというシーンはなく、おそらく意図的に描かれなかったのだろう。町の人々はあくまで自分たちを肯定的に受け入れてくれた人として描かれている。

家族の絆

竹良の母は、茶華道を教えているが、あまりも効率よくテキパキと指導するので、竹良から「チャチャッと手早く流」と命名されている。竹良には2歳で亡くなった「なでしこ」という姉がおり、母が仏壇に手を合わせるシーンがある。これも「チャチャッと手早く」という風にほんの短い時間なのだが、この様子はたびたび描かれ、おそらく毎日欠かさず、さらには一日何回も亡き娘を偲んでいるのだろうと推測させる。父も言葉少なく、しかし竹良をあたたかく見守る姿が描かれる。たまに帰ってきてアドバイスをくれる兄も頼れる大人の存在感を示す。藤原家の家族関係は決してウェットに描かれているわけではないが、これらから家族という「小さな世界」の絆が伺える。

小さな世界と大きな世界が交錯する風景

文化祭での卒業演奏のあと、東京の大学への進学を目指す竹良は、故郷を離れる寂しさに襲われる。合田は寺を継ぐため、白井と岡下はそれぞれ家業の魚屋と練り物屋を手伝い地元に残るのだ。

町を見下ろす丘の上で竹良と話していた合田は「観音寺、小さな町じゃ」とつぶやく。そこに巡礼の僧たちが通りかかる。この地で歴史を受け継ぐ巡礼と、「大きな世界」へ旅立つ竹良、「小さな世界」へ残る合田、眼下に見える観音寺の町が交錯する、象徴的なシーンだ。

学生ながらに株をやり、大人同様に寺の仕事もこなしてきて、竹良以上に世界の広さを知っているであろう合田は、東京へ出る竹良にうらやましさもあったかもしれない。あるいは「小さな町」だと故郷をあえて矮小化することで竹良の背中を押したかったのかもしれない。大人になった竹良はその時の合田の優しさに気づいただろうし、また同時に過ごしてきた「小さな世界」を誇りに思っているだろう。

小さくなっていく世界は一層、輝きを増していく

観音寺が象徴する「小さな世界」にいた竹良は、かけがえのない経験をした。大人になった今、そのころを振り返って「小さな世界への憧憬」を認識する。大きな世界を知れば知るほど、ますます「小さくなっていく世界」は、しかしそうなればなるほど、「小さな世界」は「自分にとって価値あるもの」として輝きを増していくのだ。

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